02.焚書官と魔女の一日_1
シロンは柔らかい布に包まれ、静かな寝息をたてていた。シルク生地のシンプルな肌掛けが心地よくて、寝返りをうつたびに素肌と擦れて、ひんやりとした。
小鳥のヒナが親鳥を呼ぶ声。空はもう薄明るい。
小窓から差し込む朝日が、少しずつ床を這って動いていく。やがてベッドの上へとよじ登り、寝息をたてるシロンの顔にちょこんと腰掛けた。顔をしかめて、寝返りをもうひとつ。
ベッドの淵から布団がずるりと落ちてゆき、はだけた背中を丸めて、くしゃみ。このごろの朝はもうずいぶんと肌寒かった。
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床に落ちた肌掛けをベッドの上に放り投げて、水瓶の中をのぞき込む。胴の中ほどまで張られた水が、まぶたの重そうな青年の顔を映し出していた。手と顔を湿らせたら、包帯の取り替え。寝汗と垢で汚れた包帯を巻きとって、前の日に干しておいたものと交換する。
しばらくは仮面の少女、ロゼにやってもらっていたのだが、なんとか歩くことが出来るようになってからは、やり方を習って自分でやるようにしていた。
身体を拭いたり、包帯の取り替えだったり、赤子のように扱われ、しまいにはベッドを汚さないようにとオムツを履かされた。その先を思い出すたびに、シロンは顔が赤くなる。
昨日残しておいたリンゴに齧り付いて、蜜の甘さが口の中に広がっていくのを感じながら、ほんのりと汗の匂いがするベッドに腰掛けた。
「汝、傷は癒えたか?」
「……あぁ、今日は調子がいい。あんまり痛まない」
返事を聞き、黒猫は不機嫌そうに鼻を鳴らした。最初からそこにあった置物かのように、不遜に胸を張り上げてテーブルの上からシロンを見下ろしている。
「だったら早く出ていくことだ」
鋭い牙を見せ、低く唸るようなゴロゴロ声。
「屋敷の裏側を真っ直ぐに行けば洞窟がある。乳飲み子でも迷わぬ一本道だ。好き嫌いせぬ獣が住んでおるからそこで野垂れ死ね」
「これシュレディンガー、シロンで勝手に遊ぶでない。それは我のじゃぞ」
ちょうど部屋に入ってきたロゼが、黒猫をたしなめる。舌打ちをして出ていくシュレディンガーを横目で見送ってから、シロンの隣に腰掛ける。ほのかに紅茶と、森の匂いがした。
「まったく、あやつのヤキモチにも困ったものじゃ」
ロゼの顔を見ないようにしながら、リンゴを齧る。近くで顔を合わせるのはなんとなく恥ずかしいからだったが、乙女みたいだと指摘され、余計に顔が赤くなる。
「お、おれは……どうやら邪魔者らしいな」
「そうじゃの」
静かに、そう答えるロゼ。振り返ると、仮面越しに目が合った。そして半分隠れた幼いかんばせが、いたずらっぽくニィ、と笑った。
「なんじゃその捨てられた子犬みたいな顔は。慰めてくださいとかいておるようじゃ。おおよしよし、可哀想にの」
「う、うるさい! やめろ! 撫でるな!」
頭の上に伸ばされる腕を、振り払う。
「くっくく、ぬしはとことん愛い奴じゃのぅ」
くつくつと笑いながら、ロゼは紫色の木ノ実をひとつ、口の中へとほうり込む。
ベッドに腰掛けるシロンに寄りかかり、胸元に頬を近づける。ロゼの息を感じるほど近くで、シロンはというと顔をしかめて固まっていた。ロゼが自分をからかっているのだ。ここで慌ててみせたりでもすればまた笑われるに決まっている。そう考えながらも、彼の顔は赤い。
ロゼはしばらく、彼の胸に頬を寄せるような形で寄りかかっていたが、やがて満足したように微笑むとシロンから引いてゆく。相変わらず硬直している彼の後ろに回ると、左腕に手を回し不意に思い切り持ち上げた。
「痛い!」
「くく、そうか痛いか。うり、うりうり」
悶絶するシロンを見て、にやにやと笑いながらロゼは彼の二の腕を色んな角度に振り回してみせる。
「いっ、やめろ! この、魔女め!! 痛い!」
「そうかそうか、痛いか。可哀想にのぅ。くっくく……」
涙を浮かべて痛がる青年と、それを心底楽しそうに笑う魔女。どれくらい続いたか、とうとうシロンが疲れ果てて動けなくなった頃。ロゼは彼の胸元にもう1度顔を近づけて、満足そうに頷いた。
「どうやら、傷は塞がったようじゃの」
真新しい包帯に血が滲んでいないのを確認して、シロンをベッドに突き飛ばす。傷が痛んだのか、彼の苦悶に滲んだ声が漏れた。
「他にもっとあっただろ!」
「色々あったがこの確認法が一番愉快じゃ」
「一番愉快じゃ、じゃねぇ! 普通に包帯を解いて傷を見てくれるだけで分かったじゃないか!」
シロンがそう言うと、ロゼは急に止まり無表情になった。そして、またいたずらっ子のように満面の笑みを咲かせる。二、三回ほど頷いて、
「……うむ、じゃあここで裸になって、自分で包帯をとって、その雄々しい傷勲章を我によく見せておくれ?」
急に上目使いになり(仮面をしているので目は見えないが)、猫なで声で呟く。この魔女のずるさは、ここ数週間で良く理解していた。こう言えば出来ないと分かっていて、シロンをからかっているのだ。こうされると、シロンは顔を赤らめて一歩引くしかない。
「べ、別に見てほしい訳じゃない……」
「くく、本当に愛いやつめ」
「うるさい! 傷はお蔭さまで塞がったよ、それがどうした」
吐き捨てるようにそう言ったシロン。リンゴのように真っ赤な顔を眺めて、口の中から木ノ実の種をべぇ、と出してみせると、魔女らしい嫌にねっとりとした笑みを浮かべた。
「いやな、そろそろ恩返しがしたくなってくる頃かとおもうての」
おもちゃを見つけた子供のような声で、ロゼはそう呟いた。