01.焚書官と魔女の住む森_5
シロンが最初に感じたのは、柔らかい地面の感触だった。身体のラインに添って沈んだ地面が、全身を優しく包み込んでいるよう。首から後頭部にかけて、落ち葉が集まっているのか、心地よい高低が作られている。身体の上に覆いかぶさっているのは、なんだろうか。とにかく、それのお陰で全身が暖かかった。空が明るい。目を閉じていても、赤い血潮がみえるくらい眩しかった。
しばらくして、自分が森の泥濘んだ地面に倒れているのではなく、ベッドの中で眠っているのだと気づく。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、荒く擦った視界のなかに、チカチカと頼りないランプの輪郭があった。次第に霧が晴れていき、輪郭もひとつの線として、確かな形へと収束していく。身体が溶けてしまったかのような倦怠感。すこし腕を持ち上げようとすると、刺すような激痛が全身を走った。
近くで、猫の鳴き声が聞こえる。
シロンは激痛に苦悶しながら、霞のかかった記憶との意思疎通をはかる。どうして見知らぬ部屋の中で、ベッドにくるまっていたのか。この身を刺す痛みはなんなのか。自分は森の中を歩いていたのではなかったのか……しばらく考えて、目の前に禍々しい獣が立ち塞がった景色が蘇った。
「(そうだ、急にあの獣が現れて、剣をとって……それからどうしたんだっけ)」
考えていても拉致があかないと、シロンはとりあえず身体を起こしてみることにした。先ほどとは比べものにならないほどの激痛だったが、とにかく今は情報が必要だと思ったのだ。薄く黄ばんだ天井には、これまでのあらすじは書いていない。
たんっ、と隣の丸テーブルが揺れた。
「……んむ!?」
不意に現れた黒い塊が、シロンの視界を塞いでベッドへと押し戻す。そのまま顔の上に鎮座するソレは、長い鉤爪シッポを揺らしながら、ふんっ、と鼻息を吐いた。
「……動くな。喉を喰い千切られたいかね」
低く、唸るようなバリトンだった。透き通るような声の主は、有無を言わさぬ威圧感をもって、シロンを見下ろしている。
猫だった。黒い、猫。
「猫が、しゃべ……」
「口も開くな。片目を潰してやろうか」
鋭い爪がシロンの頬へくい込む。それが最後の警告だと言っているようだった。
しばらくの沈黙。黒猫が大きな欠伸を二、三回こぼした頃。右手の方で、扉が開く音がした。無論、シロンがそちらを確認することは出来ない。軽く、独特なリズムを刻む足音が、だんだんとシロンの方へと近づいてくる。そして彼の枕元まで着いたところで、その足音の主は「あ、起きとる」と間の抜けた声を上げた。
「なんじゃ、ようやく目が覚めたかの。ずいぶんと寝坊助なことじゃ」
歌うように、鈴を転がす声。その声の響きは、口調に反してずいぶんと幼かった。返事を待つように、身体を揺らす音が床板の軋みで伝わってくる。しばらくして、何かに思い至ったようにポンッと手を合わせる音がした。
「シュレディンガー、そこを退いてくれぬか」
「此方は外国人だ。自由にすると、ろくな事は無い」
「大丈夫。その傷じゃあ満足に起き上がることも出来んよ」
「……ふん」
ぐっと、押し付けられる感触のあと、視界が晴れる。黒猫は不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、ベッドの端から近くの丸テーブルへと飛び写った。緋色の瞳が、恨めしそうにシロンを見下ろす。
「っはぁ……助かった」
「む、違うぞ。助けてやったのじゃ。お主はの、胸をざっくりと割られて崖の下に落ちておったのじゃぞ。ここまで運ぶのも大変であったぞ」
身体を起こそうとするシロンを、小さな手のひらで抑えながら、声の主はどこか楽しそうな声色で言った。当然、シロンは困惑する。肩から鳩尾にかけて、包帯が巻かれているような手触り。話を聞く限り、この声の主が処置をしてくれたのであろう。どこか新しい感触の包帯は、汚れるたびに何度か取り替えられているのかもしれない。
「あ、ありがとう……ございます」
「きっしし、どういたしまして」
ぬっ、と小さな影がシロンの視界に現れる。跳ねっけのある短めの銀髪と、陶磁器のように白く滑らかな肌。薄ピンク色の小さな唇。そしてなによりも、目元を隠すように覆いかぶさる、古く黒ずんだ木目調の仮面が存在感を放っている。野鳥を模しているのか、雄々しい瞳と鼻先へと伸びるクチバシが掘られている。それに隠れて、瞳の色は分からなかった。
どこか、声変わりするまえの男子のような雰囲気もあった中性的な声とはちがい、仮面に隠された部分を除いても、ソレはまだ幼い少女のように思えた。仮面の少女はシロンに笑いかけると、また視界の端から消えてゆく。
「何を馴れ合いしているのだ、ロゼ」
黒猫が、不機嫌そうに呟く。遠くでカチャカチャと食器の擦れ合う音がする。シロンはただじっと、すこしだけ汚れた天井を見上げているしかなかった。
「約束通り、此方が目を覚ますまで見守った。ロゼ、早く此方を森へと追い返そう」
「これ、シュレディンガー。無茶を言うでない。身体を起こすのもままならないのに、このまま外に出したら同じではないか」
「それが自然の厳しさというもの」
黒猫は、前足で顔を擦りながら、尊大にそう言い放った。少女は、手に持ったティーセットをどこに置こうかと逡巡している。
「それに、この無駄に大きな身体を引きずって、また森に捨ててこいと? 我は嫌じゃぞ。やるならシュレディンガー、主がひとりで運ぶんじゃな」
「ぬ……」
「だいたい我は、回復するまで面倒を見ると言ったんじゃぞ。動けないのは回復しておらぬからじゃ、違うかの?」
「……好きにするがいい、儂はもう知らん」
尻尾の毛を逆立てながら、黒猫はテーブルから音もなく飛び降りた。そして扉の向こうへ姿を消したのを見送り、少女は「やれやれ……」と言葉をこぼす。黒猫が立っていたテーブルに、運んできたティーセットを置き、白乳色のポットを傾ける。すぐ、カップの中で飴色の液体があふれた。
「さて、えっと……」
紅茶を傾けながら、少女はシロンの方へと向き直る。仮面を避けながら器用に紅茶をすすり、吐息をひとつ。しばらく沈黙が続いて、シロンはようやく名前を問われているのだということに気付いた。
「あ、シロン……シロン・ヴァスガナーノ、です」
「ふむ、シロンか。見た目に似合わず愛い名じゃの」
少女は、鈴を転がすように笑う。顔をしかめるシロンを見て、より一層、楽しそうに笑った。
少女に促されて、シロンはことの経緯を語る。とある宗教の神官であること、ベルトマンという錬金術師を追って森へと入ったこと、恐ろしい化け物に襲われて気付けばこのベッドで眠っていたこと。少女は「なるほどの」とか、「ふむふむ」と、適当に相槌をうちながら、最後に「それで、崖の下で延びとったんじゃの」と笑った。
「シロン、お主が知りたいであろう情報を、我はふたつ知っておるぞ」
「ほ、ほんとう……ですか?」
「きっしし、そう硬くならずにとも、普段通りでよいのに」
少女はカップに残っていた紅茶を飲み干し、「そう、気を使わんでもよいぞ」と呟いた。そして新しい紅茶をまた、カップの中にそそぎ入れる。
「まずひとつ、この屋敷は主がさ迷っていた森の中じゃ。主が延びとった崖からそう遠くはないぞ」
シロンの返答を待たず、少女は続ける。銀のスプーンで飴色の液体をかき混ぜながら、吐き出すように。
「ふたつめじゃが……ベルトマンは、かの錬金術師は、この森には居らぬよ」
「な……まぁそりゃあ、そうだろうな。なんたって数百年前の人物だ。錬金術とやらで寿命を延ばせないなら、もうとっくにほねになってる」
「そうじゃの。ベルトマンはもう、居らぬ」
少女は、どこか寂しげに吐息をこぼした。しかしシロンが、そんな機微に気付くことはない。ベルトマン本人が死んでいるとしても、シロンが追っているのはその彼が残した英智の結晶。その手がかりを追ってこの森まで来た。噂であったり、記録であったり、ヒントはかならず何処かに残っているはずなのだ。シロンは、たとえ本人が生きてようが死んでいようが、目的のために旅をやめる訳にはいかない。
そして、目の前の少女は明らかに何かを知っているのだ。
「なぁ、もしベルトマンについて何か知っているなら、教えてくれないか? どんな些細なことでも、噂話のようなことでもなんでもいいんだけど」
少女は、くっふふ。と笑い、渦の巻いている紅茶を傾ける。そして話題を変えるように、手をヒラヒラと揺らしながら、ティーカップを机の上に戻した。
「とにかく、しばらくは安静にしておくんじゃな。知りたいことがあるのなら、自分で探してみるのも良かろうよ」
「そんな……」
「その胸の傷が癒えるまでは、この部屋を自由に使って良いぞ。どうせタダの物置小屋じゃしの。きっしし」
綺麗に並んだ歯を見せながら、少女は笑う。思い出したように人差し指をピンと立て(シロンには見えていないが)、言葉を繋いだ。
「そうじゃ、動けるようになったら我の仕事を手伝ってもらおうかの。お主もずっと世話になってばかりじゃ心が苦しかろ」
「な……まぁ、うん。仕事ってどんな」
「それは後からのお楽しみじゃ」
シロンは、自分の置かれている状況を整理しながら、少女の言葉を聞いていた。確かに命を助けてもらっておいて、そのまま世話になりっぱなしというのは気分が良くない。それに彼女と親しくなれば、ベルトマンについてなにか聞き出せるかもしれない。そう思い至ったところで、シロンは大事なことを聞いていなかったことを思い出す。
「そうだ、えっと……君は」
「ん? そうか。まだ名乗ってはおらなんだの」
シロンの目の前に、白い塊がひょこっと顔を出す。先程よりもずいぶんと近く、呼吸が顔にかかってきそうなほどだった。少女はニンマリと笑い、仮面をとってみせる。夕日のように輝く、緋色の双眼がシロンの顔を映し出していた。
「我の名は、ロゼ。誇り高き森の魔女、バーバヤーガ・ロゼじゃ!」
第一幕、焚書官と魔女の住む森
END...