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01.焚書官と魔女の住む森_4

 人は、往々にして勘違いをする生き物である。緊張や恐怖、楽観や高揚が、簡単に人の感覚を狂わせてダメにしてしまう。すきま風を亡霊のうわ言に聞き間違え、布切れを幽霊だと言い張り、数回話しただけで自分に気があると確信し、幸せな日々が続けばこれが一生続くものだと信じてやまない。人間とは望む望まないに関係なく、そういう風に出来ている。


 つまりは、さっきの声は自分の恐れる心が喋った幻聴なのだ。悪魔もいないし、魔女もいない。当然だ。見たこともないし聞いたことも無いのだから。存在しないものを恐れる道理はない。


「まったく、心底うっとおしい森だ」


 シロンはブツブツと文句を言いながら、剣を振るっていた。もう随分と深いところまで来たはずだ。コートについた泥濘も、乾いてパラパラと粉を落としている。切り損ねた枝をへし折りながら、シロンは黙々と歩いていた。


 彼の機嫌は、森の奥に進むにつれ悪くなっていった。初めは、草むらが揺れる度に悪魔の影に怯え、木の葉が擦れるごとに魔女よ立ち去れと祈りの印を引いていた。しかしそれも回を重ねるにつれ、だんだんと馬鹿らしくなって、悪魔など、魔女などいないと自分に言い聞かせることにした。多少は楽になるかと思ったが、それすら勘違いだったとシロンは落胆することになる。


 いままでせいぜい泥濘(ぬかる)んでいた程度だった足元が、さらに悪くなったのだ。所々に岩が突き出し、木の根が我が物顔で足元を這い回り、まるで道を塞ぐようにツタが、枝が、葉が重なり合う。そして、不意にオトナ三人分はあろうかという崖が顔を出す。自分が歩いていた道の、数歩となりが断崖になっていたことに気づいた時は、血の気が引いていく音がした。そう、絶望的なまでに視界が悪いのだ。


「ちょっと、休憩するか……」


 手頃な岩を見つけたので、そこに腰掛けてカバンの口を広げる。水をたっぷり詰め込んだ水筒と、保存が効くように加工した干し肉の束。干し肉はまとめて持ち運びやすいようにと、穴に糸を通して束ねてあったため、ひと房だけナイフで切り取って残りをカバンに戻す。街で購入した時も思ったのだが、普通に糸で縛った方が便利なような気もする。しかし、あの街では穴に通すのが主流らしい。郷にいりては郷に従え。シロンのポリシーだ。大人とはそうあるべきだと、敬愛すべき上官が言っていた。


 水に浸し、すこし柔らかくしてから、柔らかくなった部分を頬張る。それでもまだ塩味(しおみ)がキツイのは、きっと保存が効くようにと馬鹿みたいに塩を振りまいた代償だ。金を払って、肉屋が犯した罪を(みそ)いでいる。名も知らぬ塩漬け肉よ、願わくば肉屋の亭主に、自分の売ってる商品くらい味見をするよう伝えてくれ。


「ついでに紐は縛る方向で悔い改めてくれ……」


 塩味の強い干し肉を、リフレインだけは黙々と頬張っている。まるで黙って食べろと言わんばかりに。普段は気に触るほど五月蝿いくせに、やはり先ほどの商人に譲ってしまえばよかったと、シロンは心の中で毒づいた。


 その時だった。すこし遠くの方で、枝が擦れ合う音が聞こえてきた。最初は、風でも吹いたのだろうと思ったが、だんだんと音が近づいてくるような気がして、シロンは慌てて樹の幹に立てかけていた剣に手を伸ばす。悪魔は存在しない、だから現れることはない。だがここまで森の深部まで踏み入ったのだ、大型の獣が現れても不思議ではなかった。


 深呼吸をひとつ落とし、剣を抜く。葉擦れの音は大きくなり、やがて巨大な獣が枝を折りながら、無理やり進むような響きとなり、そしてそれは確実にこちらに向かっていた。


 そして……


「……ふざけるなよ」


 ようやく振り絞った言葉は、蚊が鳴くように小さく、誰に向けても届かない悪態だった。


 シロンの、二人分はありそうな、見上げるほどに巨大な体躯。丸太を重ねたような二の腕と、手のひらから伸びる鋭い爪。猫を彷彿とさせる俊敏そうな脚。ただし猫のそれとは比べ物にならないほど巨大で、隆々としている。そして、なによりも……禍々しく、こちらを睨みつける血色の瞳。


 ──悪魔!


 とっさに、切っ先をその禍々しい生物、悪魔に向ける。ソレは向けられた物が何なのかも分からないといった様子で、気にする様子もなくシロンへと近づいてくる。自然、シロンの足は後ろへと下がっていた。


 いつの間にか、リフレインの姿はない。


「お、おい。近づくな悪魔……この剣は神の加護を受けている。悪魔が触れると消し飛ぶぞ」


 威嚇するように切っ先を揺らして、ソレの前に突き刺す仕草をしてみせる。しかして意にかける様子もなく、悪魔はまた一歩近づく。立ち寄った港町で適当に選んだ、剣の切っ先が情けなく揺れていた。シロンもまた、一歩あとずさる。


「汝、汝は剣が怖くないのか! 汝、近づくな!!」


 いっそ、本当に効かないかどうか試してみるか。若しかしたら、自分の中に流れる聖性のようなものが、このナマクラを通して伝わって、絶大な威力を発揮したりしないだろうか、と自暴自棄になり始めたシロンだったが、悪魔の動きが止まっていることに気づく。剣の恐ろしさを察したのだろうか。それとも単に、気が変わってこのまま去っていってくれるのだろうか。そう、あまい考えがシロンの頭を一瞬だけ支配した。


 人間とは、つくづくに勘違いをする生き物である。そしてそれに気づいた頃には、たいがいの出来事が手遅れなのだ。


 悪魔の足元が破裂する。いや、蹴ったのだ。悪魔が蹴って、足元が弾けた。そう気付いた頃にはもう遅い。シロンの情けなく歪んだ顔の上から、五本の凶刃が勢いよく振り下ろされた。咄嗟に身を引いたが間に合わず、シロンの胸元をザックリと抉る。


「かっ……あ゛ぁ」


 半歩引いた分だけ、爪は深くくい込まなかったと言えるだろう。そうでなければ、きっとシロンは今頃切り裂かれ、五体が繋がっていなかった。しかしそれでも傷は深かった。肩を、胸を、腹を、炎が走り回るような激痛。そして半歩下がるという選択は、命を救った代償として、もうひとつの致命傷を運んでくる。


 シロンの身体が、浮いた。


 風を切るような音が、自分の心音と重なって聞こえてくる。燃えるような痛みと、それを撫でる風。全てがスローモーションだった。


 崖から落ちたのだ。そうシロンが察することは、ついになかった。朦朧とする意識が、地面に叩きつけられ一瞬だけ覚醒する。すこし離れたところで、獲物を逃した獣が咆哮するのが聞こえた。


「(どうなってるんだ……悪魔は? この絶壁はなんだ? さっきは無かったじゃないか)」


 ふたたび、視界が点々と狭くなっていく。すこしずつ、黒く塗りつぶされていく意識のなかで、彼が最後に見た景色は、悪魔でもなく、気に触る行商人でもなく、あの日の幼馴染みでもなく、こちらを鋭く睨みつける黒猫と、仮面をつけた人影だった。

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