01.焚書官と魔女の住む森_1
目が覚めると、気に触るほど青い空が一面に広がっていた。
時折、小石を踏んだのかガタンッと小さく揺れる。枕がわりにしていた干し藁のにおいが鼻の奥をくすぐる。後ろへと流れていく景色をぼんやりと眺めながら、あぁ、そういえば荷馬車に乗っていたのだと、青年はゆっくりと思い出していた。
薄灰色のかたまりが、私のことも忘れてないわよね? と、ぎょろりと大きい目玉で青年を見つめている。くせっ毛のように羽が立っている頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を閉じる。身体を覆う灰色の羽根は、まるで絹のように柔らかい手触りだった。しばらく撫でてやると、満足したのか振り払うように羽根を広げ、轡を握っている御者の元へと飛んでいってしまった。
荷台を引いている痩せた馬車馬が、ため息をつくように嘶く。
「おっと、起こしちまいやしたかい? この辺は道が悪くて、少しばっかし揺れるんす」
御者の男が、さほど気にする様子もなく軽口をたたく。荷馬車なんだから、そりゃあ揺れるに決まっているとでも言いたげで、青年もそれは重々に承知の上なので、特に反論するつもりもない。青年の顔が険しいのは、なにも乗り心地のせいではない。懐に忍ばせた懐中時計が、いやに冷たかった。
「ちょっと、嫌な夢を見ただけです」
「そりゃあ、いくら旅に慣れた神官さんでも、藁のベッドじゃあ良い夢は見られませんわなぁ。あいにくとシーツも毛布も扱っておりませんで。へぇ」
御者台に座る男は、馬の尻をぺしりと叩きながら、軽く笑みをみせる。青年は、どうもこの行商人という人種が得意ではなかった。仕事柄、こうして世話になることも多いのだが、彼らは口を閉じるということを知らない。沈黙が金になるというのならと、きっと早々に売り払ってしまったのだろう。とにかく彼らは、話し続けないと窒息死すると言わんばかりに、話し相手に飢えている。馬車を引いてるこの馬が、人間に変わってくれたらと真剣に悩んでいる連中なのだ。
御者の男は、馬の尻に飛び移った灰色に微笑んでいる。目の前で干し肉をチラつかせ、食べようとクチバシをあけたところで干し肉を隠す。からかって遊んでいるようだった。
「ちょーだい! ちょーだい!」
妙な片言で、どんぐりのように丸まったクチバシを動かす。干し肉をひょいと放り投げると、空中で器用に拾って荷台へと戻っていった。青年の隣で、美味しそうに頬張っている。
「いやぁ、面白いもんっすねぇ。上手に言葉をつかいやがる」
「意味なんて分かっていませんよ。聞きかじった言葉を適当に言ってるだけです」
「やまびこ鳥でしたっけ? いいなぁ……譲っちゃくれませんか? この積み荷のどれかと交換しましょう」
周りを見渡したところで、束ねた藁しか乗ってはいない。青年が無視していると、男は冗談ですと片手を上げて、押し殺すように笑っていた。
青年は、教会から支給された黒衣を羽織りなおし、肩についていた藁屑を払う。遠く流れていく景色を眺めながら、青年は小さくため息をこぼした。彼には、教会から言い渡された使命がある。だからこそ、こうして荷馬車に揺られていた。
青年、シロン=ヴァスガナードは教会の中でも異端審問員と呼ばれる一派に所属している。古文書を読み解く才能を買われていた彼は、禁書と呼ばれる類いの書物を見つけ出し処分する、焚書官へと昇進した。高齢の知恵者が就くことの多い役職だけに、この若さにして焚書官となったシロンの存在は、すぐに教会中に広まった。
そうして舞い込んできたのが、この仕事であった。古い書籍を読むことが出来、なおかつ旅を続けられるほど体力がある人材というのを、上層部は欲していた。どだい、文字を読めるものすらろくにいないこの世界において、古代文字に精通するものなどそうそう現れるものではないのだ。
開祖にして至高の錬金術師、ベルトマンの遺物を探してこいというのが、シロンにくだされた命令だった。あまり多くの文献は残されていないが、森羅万象あらゆる真理を読み解き、魂の錬成すら可能としたというその英智。神に最も近づいた男と評された彼の知識を、すべて記した歴程書が存在するらしい。それを見つけ出すのが、シロンの仕事。無論、焚書するのではない。教会がその力を欲したのだ。だったら、それを探し出して献上するだけだと、シロンは意気込んでいた。
彼の足元で毛ずくろいをしているやまびこ鳥も、上司から預かったものだ。なにをいくら積まれたところで、手放すわけにはいかなかった。「おとなになれ」、と片言が飛んでくる。上司が口癖のように言っている言葉だった。
「リフレイン、ちょっと黙っててくれ……」
「だまっててくれ、リフレインはおれだ、だまっててくれ」
前の方で、御者の男が声を殺して笑っていた。
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「そういえば神官さん」
「……なんでしょうか」
荷馬車に揺られ、うつらうつらとし始めた頃、御者の男が思い出したように話しかけてくる。今度は夢のせいじゃなくこの男のせいで機嫌が悪くなりそうだった。しかし乗せてもらっている身分であるため、それを態度に出すわけにはいかない。
「神官さんが行こうとしてっところ、この辺りじゃちょいと有名な場所なんやけんど、良い噂は聞かねぇよ」
声を潜めて、男は語る。
「ヴァルプルギスの森だったかいね。あの森にゃあ、悪魔が住んでるんやっと。森の中へ迷い込むと、どこからともなく声が聞こえてくる。それを無視していると、悪魔が現れて、侵入者をぱくりと食べてしまうそうだ」
おお、くわばらくわばら。と男はわざとらしく祈る。おおかた、どこかの酒場で聞きかじったのだろう。同乗人の行く末を心配しているというよりは、楽しんでいるようでもあった。
「それは、ずいぶんと親切な悪魔ですね。きっと、私はお腹が減ったので、これから貴方を食べに行きますよ。身体に塩でも振りまいてから、奥に進んでください。とでも言ってくるんだ」
「悪魔をばかにしちゃあいけねぇよ神官さん。……あれ? でも神官さんならこう、悪魔祓いみたいのが出来ちゃうのかね。ちぇぇい! って」
バカにしているのか、本気でやっているのかは分からないが、男は胸の前で十字架を切って、何かを発射するように指を空に掲げてみせる。きっとバカにしている。なんとなくそんな気がした。
「でもなぁ、あの森に住んでるのは悪魔だけじゃないんす」
男は、より一層声を落として、人差し指を空に向けたまま、呟く。
「魔女が、住んでいるんす」