00.懐中時計と馬車の轢音
人生は物語よりも奇怪で、いつ何が起こるか誰にも分からない。だから希望を持ちなさいとか、上手くいってる時ほど油断してはいけませんとか、昔のえらい人はそう説教がましく話していた。でも、だからって、、、
これはあんまりじゃあないか。
どこか他人行儀に響き渡る、悲鳴や喧騒を聞きながら、少年は呆然と立ち尽くしていた。まだ温もりの残る右手と、足元で転がる歪に変形した懐中時計。
広場の方では、黒いハットを被った御者が、言い訳がましく喚き散らしている。顔を蒼白く染めながら、金魚のようにパクパクと。足元のソレを指差して、ああだこうだと。
少年は、ただ呆然と立ち尽くしていた。目の前に広がる喧騒も、他人行儀でどこか別の世界の出来事のように実感が伴わなかった。そしてそれはきっと、少年があまりに幼過ぎたからなのだと、少年自身もなんとなく、感じていた。理解するには、彼は、彼の考えはあまりに幼過ぎた。物語には、ハッピーエンド以外もあるのだ。
2頭の馬車馬が、彼を笑うように嘶いた。
1
「あのね、まずはカネルス叔母さんのパン屋を真っ直ぐに抜けて、そしたら白い壁のヤードがあるでしょ? そこを右に曲がって……ちょっと、ちゃんと聞いてる?」
サクランボのように赤くて小さな唇をツンと尖らせながら、少女は怪訝に目を細めた。毛先がカールした長いまつ毛の奥から、栗色の瞳がじっとこちらを見据えているのに気づき、少年はハッとしたように顔を上げる。
部屋を見渡すと、茶色く色付けされた2人乗り用の小型飛行機の模型、無駄に大きく存在感のある地球儀、どこかアジアンチックな気味の悪い置物(彼女はこれが可愛いのだと気に入っていた)、本棚にはいっぱいに並んだ分厚い書籍の群れ。ピンク色の大きく豪奢なベッドだけが、この部屋の持ち主が女の子であるという事実をかろうじて留めている。
彼の前に、ちょこんと膝を崩して座っている少女も、じっとしていれば貴族の部屋に飾ってあるビスクドールのようだった。飴色の髪は腰元まで伸びていて、大河のように軽く波をうっている。透き通るように白い肌の奥で小さく高揚する頬、きれいに整った顔立ちに、栗色の瞳は宝石のように大きく、丸く、なにより輝いていた。そして、やはりお姫様のように豪奢でひらひらとしたドレスを着ている。まるで動く人形のような幼馴染み、ミーシャの不機嫌そうな顔を見て、少年はようやく我に返ったように、ぽつりと呟いた。
「……ゆめ?」
「ちょっと、シロンったらもしかして寝てたの!?」
ミーシャの顔が、ますます険しくなる。少年は慌てて姿勢を正して、彼女が目の前に広げている大きな紙に目をやる。それは、よれよれの線で書かれた地図のようだった。「まったく、しっかりしてよ」と呟いて、ミーシャも地図の方へ視線を戻す。
半透明な薄い膜が、少しずつ剥がれていくように、シロンの意識もハッキリとしてきた。幼馴染みのミーシャと一緒に、部屋で計画を立てていたのだった。そういえば、なんの夢を見ていたんだっけ? と首をかしげながら、熱心に話すミーシャの説明に口を挟んでは、怒られて身体を小さくするのだった。
始まりは、ミーシャが行商人から旅の話を聞いたことだった。ずっと小さな頃、ハイハイで歩き回れるようになる前から子守唄代わりに聞いてた、とある冒険家が書いた本の影響か、彼女は外の世界へ強いあこがれを抱いていた。自分もいつか冒険家になるのだと言っては両親を困らせ、シロンを部屋に呼びつけてはその冒険家がいかに凄いのか、世界にはどんな不思議が満ちているのかを日が暮れるまで語っていた。何を隠そう、部屋の本棚に並んでいる分厚い書物の殆どが、かの冒険家の著作である。よくまぁここまで書いたものだと子供心に感心したりもしたが、大人でも苦笑いしそうなその果てしない冒険記の内容を、すべて暗記しているくらいにはミーシャは外の世界に憧れていたのだ。
小さな少女に旅の話をせがまれた行商人は、それじゃあここに来るまでの道のりをと、熟練の語り部のようにつらつらと話し始めた。仕事柄、人に話して聞かせるのは得意であったらしい。瞳を爛々と輝かせて聞き入る少女が気に入ったのか、彼の口調にもだんだんと力が入っていった。
どれくらい経ったか、一通り話し終えた行商人は、ふと我に返り、日が暮れてしまうと慌てて去っていってしまった。小さくなっていく彼の背中にお礼を言うと、さっそくミーシャは彼の話を思い出しながら、この地図を描いたのだ。
「海を見に行くのよシロン!」
開口一番にそう言った彼女は、戸惑うシロンを無理やり引っ張って部屋に連れ去り、今に至る。
「いい? パン屋さんをまっすぐ進んで、ヤードで曲がる。その後はひたすらまっすぐ進むのよ! その足りない頭にきちんと叩き込みなさい。食料と道筋は常にしっかり詰め込んでおくのが良き冒険家と言うものよ!」
「わかった、わかったよ。しっかり覚えた。完璧だ。僕以上にこの旅路を覚えた人間はいない」
お気に入りのセリフを口ずさみながら、ミーシャは得意げに懐中時計を掲げる。先週の誕生日に、父から買ってもらったのだという、彼女が今いちばん大切にしている懐中時計だ。「汝の旅路に幸あれ」と、かの冒険家の台詞が大きく刻印されていて、二人乗りの飛行機や、地球儀、海に住むという巨大魚など、彼の冒険をなぞらえるような装飾が施されている。中を開けばコンパスも付いており、それがいっそうミーシャの心をくすぐった。実は、それ以外にも素敵な機能があるのだと彼女は語っていたが、そのうち見せるの一点張りで、とうとう今日まで、シロンは見せてもらえなかった。
手書きの地図を折りたたみ、食料やその他もろもろで膨らんだバッグの中に押し込める。
「はい、シロンよろしくね」
「え、僕が持つの!?」
「当たり前じゃない。レディは優しく扱わないといけないのよ。それに彼にも荷物持ちの相方が居たわ」
「相方を荷物持ち扱いしてあげないで!? 確かにあまり出番はないけど、相方だって相方なりにがんばってたよ! それにあの冒険家は自分でも荷物は持ってたじゃないか」
「……むぅ」
あたふたと説得するシロンを、ミーシャは恨みがましく睨んだ後、大きく膨らんだバッグの元までテクテクと歩いてゆく。そして、バッグの中から水筒をひとつ取り出し、それを首に下げて満足げに頷いた。
「仕方ないわね、これでいいんでしょ」
「きみ、水筒ひとつって……」
さぁ、わたしも持ってあげたんだから残りは頑張りなさい。と当たり前のように頷くミーシャを眺め、シロンは小さくため息をこぼす。でも、こんなやり取りがシロンは好きだった。
女の子のワガママに付き合ってあげるのが、男の甲斐性なんだといつも父がそう言っていたから(その時シロンの父は、涙を流しながら皿洗いをしていた)、シロンもそういうものなのだと言い聞かせて、重いバッグに袖を通す。肩にくい込んでくるバッグに顔を歪めながら、ふと顔を上げると困ったような表情でミーシャがこちらを見つめていた。
「あのさ、シロン……」
「どうしたの? なにか不安なこととか……」
「首が痛くなってきたから、この水筒やっぱり持ってくれない?」
「ダメです! それくらい我慢して持ってよ!!」
「えぇー! シロンのけちぃ!!」
2
香ばしい匂いのするパン屋を、そのまま真っ直ぐ抜けて、白塗りの壁が威圧的なヤードの前を右に曲がる。そしてしばらくまっすぐ歩いたところで、2人は手を繋いで歩いていた。上機嫌に鼻歌を口ずさむミーシャの半歩後ろを、照れてるような恥ずかしいような表情のシロンがついて行く。
「あのね、海には『月呑み』っていう巨大な魚がいるのよ。月を食べてしまうほど大きな魚なの!」
「それは大変だよ! 早くやっつけないと月を食べられちゃう! 君が大好きなお月見だって出来なくなっちゃうよ!」
「大丈夫なの。月呑みはね、お月様を食べようと必死にジャンプするんだけど、身体が重くていっつも届かず海に帰っちゃうから」
「なにそれ、へんなの」
他愛のない話に笑いながら、2人は海に向けて歩いていた。ちょうど人通りもまばらになって、中心街より閑散とした雰囲気が漂ってきた街中で、ミーシャが急に走り出す。もちろん、手を繋いでいるシロンを引っ張られるように後へ続いた。
「急にどうしたのさ! 危ないよ」
「こんな話をしてたら、早く海を見たくなっちゃった。歩いたより走った方が早く着くに決まってるわ! シロンも早く、ちゃんと走って」
「無茶を言わないでよ、僕は君と違ってこんなに沢山荷物を……と、うわっ!」
道の、めくれた煉瓦に足を取られ、盛大に顔から転ぶシロン。少し先の方で、「まったく、なにやってるのよぅ」とミーシャの笑い声がする。涙が出そうになったが、泣くものかと歯を食いしばって、ゆっくりと立ち上がった。
すこし転んだだけ。擦りむいたヒザから、血が滲み始めるくらいの時間。"ただそれだけ"のあいだに、夢は現実に追いついた。
「ミーシャ!!」
「……え?」
危ない! と口に出す前に、道を横切った馬車と共に、ミーシャの姿が消える。馬車馬が、嘶きながら血を撒き散らして走ってゆく。ゆっくりとスローモーションで走ってゆく馬車を見ながら、シロンは思い出していた。
物語は、ハッピーエンドだけじゃない。
呆然と立ち尽くす彼の足元に、コロコロと乾いた音を立てて、何かが転がってきた。それは、彼女が大切にしていた懐中時計で。でも彼の希望を打ち砕くように、それは歪にくしゃりと凹んでいて。
気付けば、少年はその場にしゃがみこみ、ケモノのように咆哮していた。背中にぶら下がるバッグが、まるで囚人を繋ぐ足枷みたいに、彼を後ろへと引っ張った。