先輩
翌朝、寝不足な頭で家を出た瞬間、真夏の太陽のような強烈な光が顔に当てられた。
驚いて片手を掲げると四方八方からマイクが突き出される。
それが襲いかかってくる蛇の頭にも見えて、俺は思わず後ずさった。
「おはようございます、栗塚くん! 夕べのバラバラ殺人事件についてですがっ」
悲鳴のようなレポーターの声。俺は警察に対して恨みの呻き声を上げた。
参考人として警察に呼ばれたが未成年だったから名前は公表しない、住所も教えないって約束だったんじゃないのかい?
「第一発見者として何か気づいたことは?」
「どうしてあの晩あそこに?」
「犯人と思える人間を見なかった?」
「その顔、警察に殴られたの?」
庭でエスが吠え立てる。俺と同じくらい彼も不機嫌なのだ。栗塚家の玄関と俺はエスのものだから。
「警察の人に全部話しましたから」
俺はマイクを手で押しのけて歩き出した。
こんなことなら母親の言うように今日は学校を休むんだった。
俺の後ろから大人たちがぞろぞろついてくる。
「でもね、あんな道の真ん中で、しかも死体は死後いくらも時間がたっていなかったんだよ、人間をあんなふうにこまぎれになるほどバラバラにするなんて……」
「どっちかというと何かに押し潰されて死んだらしいぞ」
「じゃあずいぶん重いものの筈だ。そういうものを積んだ車とか、何か機械の音とか、聞かなかったの?」
俺は一言も答えなかった。答えたらとたんにあの惨状が甦り、いくらも食べていない朝食を吐いてしまいそうだったからだ。
「栗塚くん、一言! 一言だけっ!」
一瞬の隙をついて俺は走り出した。
カメラを持った男や、きれいな女性リポーターたちもいっせいに駆け出す。俺はその足を軽く弾いた。頭の中でそう想像するだけでいい。
「きゃあっ!」
とたんに固まって転がる。ガチャン! と酷い音がしたのはカメラか、照明か。
だが今の俺はそれを申し訳なく思う気持ちにもなれない。角角から飛び出してくるマスコミの人間を交わすのに必死だったからだ。
「その顔、刑事に殴られたのか?」
今朝、マスコミの人間に聞かれたことと同じことをクラスメイトの佳彦が聞いてきた。昨日三浦に殴られた後は、一晩では消えなかった。
「違うよ、これは別件」
「で、どうなのよ、バラバラ殺人事件」
俺の机の回りに生徒たちが群がっていた。
クラスの入口のところにも他の教室の連中が鈴なりになっている。
そして「あれが目撃者」「第一発見者」などと指さして囁きあっているのだ。
俺はため息をついた。
「あれは―――バラバラっていうより潰れちゃったって感じ」
俺の言葉にクラス全体がどよどよとなる。
「潰れた? 潰れたって?」
「だから……こう上から押し潰した感じ。缶詰めとか中身入ったまま潰すとぶちゅって中のもの飛び散るだろ? なんか―――そういうの」
「げえ」
「いやーっ」
女子生徒たちは耳を押さえ、男子生徒たちは舌を出した。俺は言いながら、しかし浮かんだ情景は缶詰めより、潰れた段ボール箱だった。
(あれ? どこで見たんだっけ……)
「警察で取り調べ受けたんだろ?」
「やっぱカツ丼とかとってくれるの?」
「カツ丼は容疑者に喰わせるもんだろ」
勝手なことを言い合っている。
「出たのは緑茶とコブ茶だよ……何も喰えないって、あんなの見たあとじゃ」
「そうだよなー、俺、今朝途中寄ってきたんだけど、もう百メートル以内血まみれって感じでさ、あれは飛んだだろーな、血も中身も」
「ひえーっ」
別な生徒の報告にみんな嬉しそうに叫んだ。
「洗っても擦ってもあの跡を完全にきれいにするなんて無理だろーな」
「へええ」
「汁粉ドリンクをあっためてさ、プルトップ引いたらブシュッってなるだろ? そういう染みが塀に点々とさ」
「路上には石にまじって歯が落ちてたって」
「げえっ、リアル~」
俺はそんなことを警察で一言だって話していない。落ちていた耳に触ったことだって
言ってない。どうして級友たちはそんなことまで知っているのか不思議だった。
休みごとに俺はクラスメイトに囲まれ何度も同じ話しをするはめになったが、繰り返すと逆にショックが薄れてきた。まるで映画かテレビの一場面を見ていたような気さえしてくる。
こういうのをマヒするっていうのかな、と思いながら昼休み、
「お前、めし喰える?」
佳彦が聞いてきた。
「うん、大丈夫……だと思う」
「そっか、でもメシ喰いながらできる話じゃないだろ? 二年とか三年とかがいるテーブルにすれば? クラスの連中もそこならそんなに寄ってこないと思うぜ?」
こういう時は友情に感謝する。学食のメニューはカレーと鮭のフライだった。
カレーにはさすがに手がでなかったので鮭の皿を取って食堂内を見回すと、見知った顔があった。
真っ黒な髪、白い顔、切れ長の目、人形のように細い鼻筋―――きれいな顔。
「……ここいいですか?」
昨日の上級生―――萩原と呼ばれていた少女が一人で食事をしている。俺は佳彦と一緒にそのテーブルに座った。
萩原さんは顔を上げ、俺を見ると眉をひそめた。今日は昨日ほど真っ白な顔ではなかったが、描いたような端正さは変わらなかった。
「その顔……、昨日の?」
「あ、」俺は目の下に手を置いた。「平気です」
萩原さんは目をそらすと、
「昨日は悪かったわね……先に逃げ出して」
あいかわらず、ぶっきらぼうな言い方をする。
「いいえ。俺が勝手にやったことですから」
俺と上級生の会話に佳彦が不審な顔をする。あとで話すよ、と言う意味の笑顔をそれに向けて、俺は鮭をつついた。
「今日は具合いいんですか?」
「ええ……」
萩原さんは言葉が少ない。俺は箸を空で動かした。別に感謝の言葉が欲しいとかそういうわけではないのだが。
(きれーな顔してっけど人嫌いってやつかな……やっぱいじめにあってるようだからあんまし他人と関わりたくないって感じで)
萩原さんはまるで味を感じてないような顔で食事を進めてゆく。俺たちもつられて無口に
なった。
「よお」
ぽん、と肩に手が置かれた。驚いて振り向くと見たくない顔がある。
三浦だ。亀顔が残忍な笑みをたたえていた。背後に二人、男子生徒も立っていた。
「昨日は世話になったわね」
三浦の手は俺の肩を握りつぶしそうな力で掴んでいた。他の二人は萩原の後ろに立つ。
「今日もお薬を飲むの?」
「まずそうなメシだな。味が足りないんじゃないの?」
三浦の連れはそう言うと醤油を萩原さんの皿にどぼどぼとかけた。あっという間にあふれてテーブルの上に流れる。
「―――よせよ!」
俺は思わず叫んでいた。萩原さんの白い手の甲に醤油が跳ねたのがものすごく不快だった。
「昨日のことは俺が勝手にやったことじゃないか。そんなガキみたいな馬鹿な真似……」
「ガキにガキって言われる筋合いはないよ」
三浦が肩を掴む手に力を込める。俺は首をすくめてその痛みに耐える。横で佳彦の体が怯えていた。
「先輩に対して礼儀がなってないわよね」
俺はすばやく辺りを見回したが、誰も自分たちの窮状には気づいていないようだった。
「立ちな」
三浦が俺を無理やり立たせた。萩原さんが白い顔を巡らせて、
「よして、三浦さん。下級生に手を出さないで」と囁いた。
「大人しくしてろよ、萩原。そっちのお前も」
言われて佳彦がうろたえたように俺を見た。それに俺は笑ってみせた。
「大丈夫だよ……ちょっと先輩とおはなししてくるだけだから」
「そうそう」
三人は俺を真ん中にして学食を出ていった。
「どうしよう……」
立ち上がった佳彦を萩原が止めた。
「―――-大丈夫、なんとかする」
「なんとかって……」
萩原は軽くため息をついた。
「タイミングの問題だけど」
「お前、あいつとどういう関係なんだ」
壁に押しつけられて俺は目の前の上級生を見あげた。校舎から少し離れた弓道部の部室の裏だ。
「どういうって……朝、バスで一緒になるだけだよ」
「嘘つけ」
三浦は乱暴に俺の髪を掴んだ。
「嘘じゃないよ。俺はあの人の名前だって知らないもん」
「知らないやつのためにあたしたちに喧嘩を売るっていうの」
「売ってないよ。でも病人に酷いことすることないじゃないか。薬取り上げたり醤油かけたり……。なんであんなことするんだよ、あの人があんたたちになんかしたのかよ」
三浦は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに元の残忍な顔に戻った。
「気にくわねェんだよ、あいつ」
「そんなの……」
「やかましいっ」
三浦の蹴りが俺の腹に入った。
一瞬息が止まったかと思ったらそのあとすぐ、苦いものがのどの奥から込み上げてきた。
地面に倒れた俺の腕を背中の方に曲げ、男子生徒が背中に乗ってきた。中指をひねり上げられる。
「先輩に逆らうんじゃねえよ、ええ?」
「……っつ」
極力自分のためには超力は使わないつもりだった。だが、指を折られる本能的な恐怖に、
俺は思わず反応してしまった。
「うわっ」
男子生徒は俺の背中から転がり落ちた。
「どうしたのよ」
見ていた三浦たちが笑う。男子生徒の顔が赤く染まった。
「こいつ、俺を突き飛ばしやがった」
彼にはそうとしか思えないだろう。実際背中に乗っている人間をどうやったらつきとばせるのか聞いてみたい、と俺は思う。
俺は口の端から垂れた唾液を手でぬぐった。
「やめろよ」
「やかましいっ」
男子生徒の足が肩先を蹴り飛ばすと、それを合図に他の二人も加わった。俺は体を丸め腹を庇った。重い痛みが全身を襲う。
「やめろっ、やめて……っ!」
(ちくしょうっ!)
叫びながらも痛みが怒りに変わってゆく。
(こいつら……ぶっとばしてやるっ)
俺には出来る。相手の力が強ければ強いほど、それを跳ね返す力は大きくなるのだ。
俺は能力を『弾く』イメージで持っている。手で触れずにものを動かす―――ものに力を当てて弾く、というイメージが一番容易だったからだ。
(こいつら……っ!)
その時、頭の中に何かが飛び込んできたような感覚があった。それは針のように鋭く細く、光のように一瞬だった。
――――――待て!
(え?)
俺は目を見開いた。
「こらっ、何をしてる!」
どなり声が頭上に響く。ばたぱたと駆けてくる足音がしたかと思うと、体中を襲っていた熱い痛みがさっと消える。
「待て! 三浦、それに大山っ、田端だなっ!」
顔を上げると数人の教師が走ってゆく三浦たちを追いかけていくところだった。
「大丈夫か?」
名前は知らないが顔を見たことのある教師が俺のそばに膝をついて覗き込んでいる。
「……はい」
全身がずきずき痛んだが起き上がれないほどではなかった。俺は教師に支えられながら立ち上がった。
「保健室に行こう。担任の先生は?」
「はい……吉村先生です」
「けいとー!」
佳彦が顔をくしゃくしゃにしながら駆けよってきた。
「大丈夫か? 大丈夫か?」
俺はハードボイルド小説の主人公のように、唇を曲げようとしたが出来なかった。
「あんまり大丈夫じゃないよ……先生呼んでくれたの?」
「うん、ああ、萩原さんがちょっと待てなんて言うから心配したよー」
「待て……って?」
「うん、タイミングがどうこうって……。でもよかったァ。現場を押さえられればあいつらだって言い訳できねえよな」
(待てって……?)
道場から離れたところに萩原さんが立っていた。
相変わらず冷たい無表情でこちらを見ている。
その白い顔を見た時、ふと、さっきの奇妙な感覚を思い出した。冷たい光に弾かれたような思考。いや、あれは言葉のようだった。
(待て……? それは先生たちに現場を押さえさせるために? そのタイミングを計って教師を呼んだのか?)
萩原さんはすっと背を向けると校舎の中に入っていった。その白いシャツのすそが残像のように俺の目の中に残った。
「先輩ー、萩原せんぱーい」
俺は叫びながら坂の道を駆け降りた。萩原さんはちらっと振り返ったが歩く速度を落としたわけではない。俺は息をきらして追いつくと、萩原さんの回りをスキップで跳ねた。
「先輩、あいつら停学だって。しばらく学校これないって」
「そう……」
萩原さんは嬉しそうでもない。地面に視線を向けながらさっさと足を運んでいた。
「先輩さあ……」
俺は萩原さんの白い顔を覗き込んだ。
あの時俺に「待て」って言った?
そう聞いてみたいのを飲み込む。そんな筈はないからだ。
「ずっとあいつらに苛められてたんすか?」
「いいえ」
雨が降ってますか? いいえ。 というような感じで萩原は答えた。
「だって薬取り上げられてたじゃん」
「ずっと、というわけじゃない……あの人たちの気が向いた時に」
「ずっとじゃん」
萩原さんは切れ長の目で俺を流し見た。
「先輩、体どこが悪いの?」
「アレルギー」
「アトピーとかじゃないよね」
俺は萩原の石膏像のような首筋を見つめた。
「ねえ、俺知ってます? 朝とか時々バスで一緒になるんすよ」
「そう……」
「名前教えてくださいよ、俺、栗塚景斗。友達はけいととかクリって呼ぶけど」
坂の下のバス停で並んでバスを待ちながら俺は美しい上級生に話しかけ続けた。萩原さんは「ええ」とか「うん」とか一文節以上の言葉を持たないようだった。やがて青いラインの入ったバスがやってきた。
「先輩ってさあ、いつもどこから乗ってくんだっけ?」
「栗塚くん」
バスのドアが開き、萩原さんは定期をポケットから出しながら言った。
「わたしは人間アレルギーなの」
「……え?」
萩原さんはさっとバスに乗った。その背中は直線的でそこには分厚い拒絶が張りついていた。
「先輩……」
つっ立っている俺をちらっと見て、運転手はドアを閉めた。
目の前を青いラインが横切ってゆく。窓の中にちらりと白く冷たい横顔が見えた。
汚れたガラスの向こうでもそれはきれいだった。
「―――
どうしてあんな冷血漢にこだわってしまうのかわからない。俺に表現できる術があるなら予感に突き動かされて、とでも言うだろう。
俺は萩原という上級生に何かを感じていた。それは本能的な何かだった。




