決意
岡本千朗の母、靖子は、歩いているアスファルトがまるでスポンジにでもなったように感じていた。
一歩ごとに足が沈み込む。それは今見てきたばかりのモノのせいだ。
警察では気丈に振るまったが今頃になってショックが襲ってきているらしい。
(どうしよう……どうすればいいの)
いなくなった夫らしい人物の確認をしてほしいと警察から電話があった。だが見せてもらえたのは写真だけで、それには人間の形をしたものは写っていなかった。
足や耳を見せられたって夫だとわかるはずがない。
僅かに残った手首によく知っている痣があって、それだけが「夫」であるらしい、と思っただけだ。
不思議なことに夫が死んだということに対しては、驚きはしたが悲しみはなかった。その『死に方』を見て背筋が凍ったのも、夫に対しての思いからではない。
息子の千朗の仕業だとすぐにわかったからだ。
そしてそれに気づいたことを警察に気づかれてはならないと思ったから。
刑事にいろいろ聞かれたが、靖子は息子の力のことを一言も言わなかった。
(千朗………)
息子は実の父親を殺したのだ。
あの恐ろしい力で潰してしまったのだ。
教師も学校も……。
千朗は優しい子供だった。なのにどうしてあんなに恐ろしい力を持ってしまったのか。どうしてこんな残酷なことをするのだろうか。
わからない。自分の子供がわからない。
あの子はあたしも潰すのだろうか。空き缶のように、ゴミ箱のように、夫のように。
ぞっとした。息子が恐ろしい……。
「―――岡本千朗のおかあさん?」
すぐそばを通り過ぎたタクシーが急停車して、その窓から誰かが叫んだ。振り向いた靖子は学生服を着た少女が手を振っているのを見る。
「良かった、会えて。早く乗って! 千朗くんが大変なんです!」
「え? あなた、誰? どういうこと? 千朗が?」
「いいからっ、乗って下さい!」
今、息子を恐ろしいと感じていた母親は、「千朗が大変」という言葉で、それでもタクシーに駆け寄った。
団地の周辺は大騒ぎだった。
警察や消防がローブを張り拡声器で怒鳴り、それを取り囲むように団地の住人や周辺の人々が集まり、さらにマスコミがあちこちでカメラやマイクを振り回している。
崩壊はゆっくりと進行し続けていた。
「見ろ、見ろおっ、三階が!」
男が叫んだ。5号棟が、今屋上からの重圧が三階部分にさしかかり外廊下の外壁がガラガラと落ちてゆく。
「二階にはもう人はいないなっ?」
消防の服に身を包んだ男が無線に怒鳴った。
団地は全部で七つの棟からなっている。崩れているのはその中の5号棟、6号棟、7号棟で、6号棟の崩壊がもっともゆるやかだった。
5号棟はあと二階と一階部分を残すのみで、7号棟は四階から出た火が潰れた五階、六階を包んでいる。6号棟はまだ五階が潰れていく最中だった。
「いったいどうなっているんだ? 地盤沈下とか?」
「中で爆発が起こってんじゃないのか」
やじうまが勝手な憶測を飛ばしている。その前でテレビ局のリポーターが興奮した口調で叫んでいた。
「御覧下さい、まるで見えない怪獣に潰されていくかのように、団地が破壊されてゆきます」 人々は右往左往し、砂糖菓子のように団地が潰れてゆくのをなす術もなく見守っている。
「ああ………なんて………こと……」
タクシーから降りた岡本靖子さんはそう言ったきり、両手を口に当てて地面にしゃがみこんだ。
「あれは千朗くんがやってるんです」
夏月さんは靖子さんの肩に手をかけ、耳元で囁いた。
「あの子はあなたを―――おかあさんを呼んでいるんです」
「そんな………」
「あなたの部屋は?」
「6号棟の―――307号室」
そこはまだ破壊されていなかった。
「彼を止めてください、今なら間に合う」
「ひ………」
靖子さんはひきつった声をあげた。
「無理ですっ、あたしに何ができるのっ」
「あれは千朗くんの不安の形です」
夏月さんは母親に崩れてゆく鉄とコンクリートの箱を指さした。
「あなたにしか止められない。このままじゃ千朗くんも団地もろとも潰れてしまいます」
母親は息子がいるはずの6号棟、307号室を見つめた。
「でも―――」
「車の中で言ったでしょう? わたしたちは千朗と同じ力を持っている。わたしたちがあなたを守ります。だから彼のそばへ行って、彼を止めて下さい」
「あたしに―――止められるの? あたしが止められるの? あの子はあたしを―――あたしも潰すって言ったのよ!」
「潰すはずないよっ」
俺は叫んだ。
「おばさんを潰すはずないよ、あいつはあんたが好きなんだから! あんなにあんたを呼んでんだから!」
きしみ、のたうち、ぶれながら潰れてゆく団地。
あれは千朗の悲鳴だ。
波紋となり螺旋となってあふれ出してゆく力。
団地の小さな部屋でうずくまって泣いている子供。
「子供を止められるのは親だけだろうっ!」