崩壊(二)
団地の5号棟の屋上で、三人の主婦が洗濯物を取り込んでいた。午前中から干していたので太陽をいっぱいに吸い込んですっかり乾いている。
「よいしょ」
かけ声をかけて主婦の一人がコンクリの上に置いた籐のかごを持ちあげた。
「あら」
かごの下にまっすぐのひび割れが走っていた。
(いやねえ、この建物もけっこう古いから)
主婦はなにげなくそのひび割れを目で追ったが、それはずっと向こうの金網の下まで続い
ているようだった。
(そう言えばそろそろ外壁の修理の時期なんじやないかしら。暑い盛りに工事にならなきゃ
いいけど。たしかクーラーとか使えなくなるのよね)
このひび割れもその時直すだろう。
主婦はかごを提げて出口に向かった。
「あっ」
その時、足もとを何かにすくわれた。転びはしなかったが爪の先を強く打って声が出た。
「……なにこれ」
爪先に盛り上がったコンクリがあった。見ているうちに屋上のコンクリが次々にまるで息
を吹き出すようにぼこぽこと持ち上がってゆく。
「奥さんっ!」
主婦はまだ洗濯物を取り込んでいる見知らぬ女たちに声をかけた。
「ひびがっ、ひびがっ!」
そして屋上は同心円状にひび割れ、中心に向かって落ち込み始めた。
その時、7号棟の6階、603号室に住む青年はキッチンでカップ麺にお湯を注いでいた。
いきなり背後でドシンー と大きな音がしたので、あわててヤカンを持つたまま自分の部屋
に駆け込んだ。大きな書棚がベッドの上に倒れかかっている。
「何だ、こりゃ!」
最初倒れた書棚にばかり目がいっていたので気づかなかった。パラパラと頭の上から何か
小石のようなものが降ってくる。
天井に目をやった青年は思わずヤカンを取り落とした。
空が見えていたからだ。
この時間、団地にいる住人はほとんどが主婦たちだった。
建物の崩壊は上からゆっくりと始まったため、下の階の人間はそれでもまだ気づかずにいた。テレビを見ながら何か外がうるさい、と思っているくらいだった。
ある主婦は窓を開けて向かいの5号棟を見て、首を傾げた。建物が真ん中から二つ折りになっているように見えたのだ。
(なにかしらあれ。なんであんな形してるの?)
非常階段から悲鳴が聞こえてきて、それにつれて窓枠がカタカタ鳴り出した。見る間にガラスにひびがはいり、それは外側に弾き飛んだ。
「な、なに? 窓がっ!」
やがて部屋中の窓が割れ始める。彼女は初めて異常な事態が起こっていることに気づいてあわててドアから飛び出した。
隣の主婦が顔を出し、「窓が割れちゃったのよお」と叫んだ。
そして彼女たちは真上で何かが爆発するような音を聞いた。それは実際には爆発ではなく、上の階の外廊下の天井が崩れて床にぶつかる音だった。
「大変………見て、あれ………」
隣の主婦は5号棟を指さした。四階部分が潰れていた。どこかの窓からは黒い煙も見えている。
「お、奥さん、逃げなきや」
「そ、そんな―――」
主婦は玄関から家の中を見た。
「だって財布が―――あたし財布を―――」
ガコン! と音がして鉄筋の柱がくの字に曲がった。上からぱらぱらと何かが降ってくる。
「ああ、だめっ、早く!」
腕を捕まれ主婦はひきずられた。
つい先日ダイニングのテーブルクロスを変えたばかりだった。思い切って買ったブランドものだったのに。包丁セットも通販で買ってまだ一回しか便っていない。
非常階段に足をかけて振り向いた瞬間、外廊下の天井が玄関の前に塊で落ちてきた。
「先生、気分が悪いので保健室に行ってもいいですか」
夏月は席から立ち上がった。実際彼の顔は蒼白で、体中が震えている。教師はあわてて委貝長を介添えにしようと言ったが、夏月はそれを断って教室から飛び出した。
(―――栗塚くん!)
夏月は強く景斗を呼んだ。
(栗塚景斗!)
「はいっ」
俺は返事をして立ち上がった。教師は背を向けて黒板に文字を書いていたから呼びかけたわけではない。クラス中が笑った。
「おいおい、どうした。ねぽけたのか?」
教師も笑いながら言った。
俺は周りを見回し、自分を呼んだ声の主を探した。
(ケイト!)
また聞こえた。今度は俺にもわかった。
「あの、あの、先生。俺、急に腹が痛くなって―――」
「おいおい、子供じやあるまいし」
「ごめんつ、先生。俺、保健室!」
俺は教師が何か言う前にクラスから出た。廊下を見渡しとりあえず走る。
(先輩?)
頭の中にきれぎれにイメージがよぎる。これは岡本千朗。それから団地。
団地―――朋壊?
「栗塚くん、こっち!」
夏月さんが渡り廊下に立っている。俺たちは目立たないように中庭をつっきり、学校の裏門から外へ出た。
「どうしたんですっ」
「岡本千朗が団地を破壊しているの」
「なんだって?」
「パニックになって自分の力が止められない。このままじゃ大惨事になるわ」
夏月さんは走りながら言った。
「千朗は母親を呼んでいるのよ。他に何もできないの―――」
「先輩……」
「母親を探さないと」
(先輩、千朗を助けてくれるんですね?)
俺が声に出さずに言うと夏月さんは厳しい顔を向けた。
「わたしだって―――化け物じゃない。千朗を怪物にしちゃいけないのよ」
「先輩」
俺は一瞬夏月さんに抱きつきたい衝動に駆られたが、今は空想で我慢しておく。
「でもあいつのかーちゃんどこにいるんですか?」
「……武蔵野警察」
夏月さんは呟いた。
「その文字が浮かんだの。母親が警察に呼び出されたと知って彼はパニックになったんだわ。だからきっと」
「わかりました」
一気に坂道を下った俺たちはバス通りに出て左右を見回した。運よく向こうからタクシーが来る。
「捕まえよう、先輩」
「だめよ、回送になってる」
「そんな暇ないですよ」
俺は目の前に来た車を強く弾いた。タクシーがつんのめるようにして停まる。運転手が大きく囗を開けたのがフロントガラス越しに見えた。
「乗せてくれ!」
俺は横に回りこんで窓をバンバン叩いた。
「社へ帰るんだ、だめだよ」
むりやりドアを開けると(もちろん超力で)、俺は夏月さんを引っ張って後部座席に座った。
「ちょっとI」
運転手が振り向こうとした時、その額を弾く。目に見えない痛みに運転手は恐怖を顔に浮かべた。
「俺は気功の達人なんだ」
俺はなるたけ低い声で言った。
「あんたを車ごとふっとばすことだってできる。言うとおりにして運転してくれ」
「栗塚くん………」
夏月さんが小声でたしなめたが俺はあと二発、軽く運転手の胸や肩を弾いた。運転手は震え上がるとハンドルにしがみついてアクセルを踏んだ。
(超能力より気功の方がらしいし信じやすいでしょ?)
俺が囁く。夏月さんはため息をつくと、
「武蔵野警察まで急いでください」と言った。