接触
学食で眺め渡しても萩原夏月さんの姿は見つけることができなかった。今日は教室で昼食をとっているのかもしれない。
クラスメイトの佳彦と食事をとった後、俺はクラスに戻らずぶらぶらと廊下を歩いた。
無目的に歩いているうちに渡り廊下から外へ出た。そしてどういうわけか以前上級生に殴られた弓道部の部室の近くまで来ていた。
「…………」
どうして自分がそんなところにまで来てしまったのか、その時ようやく俺はわかった。弓道部の部室の壁に夏月さんが寄りかかって立っている。
「先輩……が、俺を呼んだの?」
「ええ」
夏月さんはどこかぼんやりした視線で俺を見ていた。
「ほんの少しずつ、君の意識に触ってみたの」
「そういうことも出来るんだ……」
「ドリトルから聞いたのね?」
「うん」
俺が夏月さんのそばに立つと、彼女は壁に沿ってしゃがみこんだ。
「先輩、ひょっとしてゆうべ俺の声聞いた?」
夏月さんは俺の言葉を聞いて、ふた呼吸程置いた後、うなずいた。
「君のこと考えていたら聞こえた……。普段はそんなことしないんだけど。特にわたしにむけていたからよくわかったわ」
「俺のことって……どうして」
「君がまた無茶してんじゃないかと思って」
俺ははっとして体を曲げると夏月さんの顔を覗き込んだ。
「じゃあやっぱり前に助けてくれた時も偶然じゃなかったんだね? 俺が岡本と会うのを知ってて来てくれたんだ」
「別に助けたつもりはないわ……」
「結果的には助かったよ。あのままあんなこと続けていたら危ないとこだったもん」
「前の晩にあの子の―――岡本千朗の思考を拾ってしまったんの」
夏月さんは両手で前髪をかきあげた。
「君のことを『放っておけない』って思っていた。だから少し心配だったのよ」
思い出した。あの日、夏月さんは身の回りに気をつけろと言ってくれた。
「先輩……」
「感謝なんかしないで。わたしは今だって君が彼と接触したり、ドリトルのネットワークに加わることには反対なんだから」
思わず手を差しのべた俺に夏月さんはぴしゃりと言った。
「どうしてさ。そりゃ俺だってあの人の言うことを全面的に信用しているわけじゃないけど、先輩ならそれが嘘か本当かわかるだろ? ドリトルの言うように『敵』っていうのが本当にいるのなら」
「ドリトルの言っていることは本当よ、彼は嘘をついていない」
夏月さんは静かに言った。その途端、俺は脳裏にアニメの敵役のような『敵』の存在を思い浮かべたが、夏月さんは首を振った。
「わたしにわかるのはドリトルが嘘を言っていないと言うことだけ。もしかしたら彼は自己催眠でそう思いこんでいるだけなのかもしれない。わたしにわかるのは真実じゃなくて、その人間が信じていることだけだから」
「え? え?」
俺はなんだか混乱した。
「でも、なんで? わざわざ自分で信じこんで『敵』を作る必要なんて……」
「ドリトルが敵そのものって場合もある……もし、そんな組織があるのなら」
夏月さんは薄く笑った。
「結局その人間の思考がわかっても、それが本当に真実かどうかわからなくすることなんて簡単にできるのよ」
俺にはまだよく理解できなかったが、とりあえずドリトルのことよりは目先のことを何とかしたい。
「岡本千朗は?」
「彼は放っておきなさい……そう言ったでしょう?」
「でもあいつ、今ガッコで孤立してるみたいで。なんか俺すごく心配で」
俺は東第三中学での、生徒たちが向けていた視線を思い出した。自分に、千朗に向けられていた恐怖と嫌悪の視線。
「……怖かったでしょう?」
夏月さんが言った。
「異質なものを否定する人間の力っていうのはすごく強いのよ。視線だけで相手を萎縮させてしまう」
俺はうなずいた。今の夏月さんには感じたこと、考えたことがすべてわかってしまうらしい。
「あの三浦さんがわたしを憎むのもたぶん……わたしに異質なものを感じとっているからね。彼女はどちらかというと原始的な本能が発達しているようだから。わたしのことが気に食わない―――そう言っていたでしょう?」
俺は三浦の亀顔を思い出した。原始的と言えば言える顔だ。
「岡本千朗もずっと異端視されていた。君が彼と戦っている時、千朗の心はあけすけで、全部わたしの中に流れてきたわ。君が育ってきた環境とは違う。君の両親は君の力に理解があった。でもあの子の両親はそうじゃなかったの」
俺はゆうべの両親との時間を思い出した。夏月さんにはそれもわかっているのだろう。彼女はちょっと苦しいような笑みを浮かべた。
「君の両親はすばらしい人たちね……前向きだし健全だし。とても強い。でもそんな人たちばかりじゃない」
「…………」
「岡本千朗は自分の能力を『異常なもの』だと思っている。それはひどいコンプレックスなんのよ。わたしにはその気持ちもわかる……それは心を読んだせいじゃなくて……わたし自身も体験したことだから」
「体験?」
「わたしは両親とはもう六年ほど会っていないの」
あの哀しみ。絶望的な、足がすくむほどの。
「わたしを化け物と呼んだのはわたしの両親よ」
夏月さんは自分のことを語っているとは思われないほどの冷たい言い方をした。
「先輩……」
「君には想像もつかないだろうけど、そういう親もいるの。そして岡本千朗もそう呼ばれた。父親から」
夏月さんは俺に手を差しのべた。
「言葉で語るよりこの方が早いわ。君がどうしても彼を止めると言うなら……知っておいた方がいい。千朗の憎悪と哀しみの元を」
俺は夏月さんの指先を見つめた。それに触れればわかるのか? 他人の哀しみを、他人の傷を。その中にずかずかと入り込む権利が自分にあるのだろうか?
いや……権利なんて言うのはおこがましい。怖いのだ。他人を知ることが。他人の傷から吹き出す血を浴びることが。
俺の躊躇を見て夏月さんが嗤った。
「そんなことが怖くてどうやってあの子を止めるつもり? あっと言う間に潰されるのがオチよ」
俺は唇を噛んだ。千朗が行っていることは間違いだ。それはわかる。止めようと思う自分の意志は間違っていないはずだ。ならば。
「怖いもんか!」
俺は夏月さんの指先を握った。その瞬間、俺は岡本千朗になった。