夏の月
夏月が超能力者だというドリトルの言葉は俺をちょっとしたパニックに陥らせた。
「なんで、どうして言ってくれなかったの、萩原先輩……」
「まあ、落ちつけ」
ドリトルは回りを見て、焦っている俺の腕を引き、椅子に座らせようとした。
「だって、先輩超能力なんて信じないって言ったし、そんなの不必要な力だってずっと言ってたし……」
「夏月が超能力を嫌っているのは事実だよ……彼女は辛い思いをしたらしいから」
俺は椅子に座り直すとドリトルの方に身を乗り出した。
「ドリトル……さんは、先輩のこと知ってるの?」
「あまりよく知らない。彼、あんまり自分のことは話さないから」
「先輩は……先輩はなんの能力を持っているの?」
「ん? 彼女はテレパスだよ。人の心が見えてしまう。いや、感じとってしまうって方が正しいのかな?」
「テレパス……」
俺は不思議とあまり驚かなかった。心のどこかで(やっぱり……)と思うことの方が多い。
やはりあの時聞こえたのは、先輩の声―――思考だったんだ。
思い当たることはいくつもある。ペットボトルをゴミ捨て場から持ってきたと言ったこと、公園で泣きじゃくった時、声に出していなかったようだったのに、慰めてもらったこと。今日、自分の意識と夏月の意識がシンクロしたこと。
「彼女のその能力はずいぶん彼女自身を苦しめたらしいよ」
「え……」
「四六時中、他人の心の声が頭の中で聞こえるってどんなに辛いことか……、僕には夏月のような力はないから想像するしかない。でもうざったいだろうな、とは思うよ」
「そっか……」
夜のファーストフード店は若い女の子や子供の声で波の音のようにざわめいている。
どんなに静かな場所でも、きっとこんなふうにいくつもの声が夏月には聞こえているのだ。
「あ、じゃあひょっとして先輩がいつも薬を飲んでいるのってそのせい?」
俺はバス停で会った時の夏月の辛そうな様子を思い出して言った。
「薬? トフラニールのことかな」
「あ、なんかそんな名前だった」
「トフラニールは本当は抗うつ剤だよ」
「コウウツザイ?」
ドリトルは顎の下で手を組んで、俺の目を見つめながら言った。
「夏月はほんの子供の頃、自分の能力のせいでおかしくなりかけて、精神病院に入院した。
そこでいろんな薬や治療法を試されて、今の薬に当たったんだ。夏月にとって幸いだったのは、その薬のおかげで聞こえる声は激減し、意志の力でそれらを聞かない振りすることもできるようになったってこと。でも今でも薬を飲んでいないとうるさくてしょうがないと言っていた」
「そうだったのか……」
あの薬は夏月にとっては自分の精神を守るためのものでもあったのだ。今さらながら三浦の悪意に腹が立ってくる。
「僕はずっと夏月と仲良くなりたいと思っているんだけどね、どうやら嫌われているらしい。夏月は仲間には興味がないんだよ。化け物同士集まってどうするなんて冷たいこと言うしね」
「化け物……? 先輩自分のことそんなふうに?」
「昔、辛い目にあったんだろうって思うよ。性格歪んじゃってるよねぇ」
千朗も自分のことをそう呼んでいた。あれは自分を見る人々の目を感じ取ったのだ。それでは夏月もあんな目で見られたことがあるのだろうか。
「でもね、僕らは手を結んだ方がいいんだ。夏月みたいにうまく隠れている人間はともかく、あの岡本千朗みたいに派手なことをしてると、どうやっても目をつけられる」
「目をつけるって……誰が?」
「敵」
「敵? なにそれ……」
俺は笑おうとしたがドリトルの顔は真面目だった。
「敵はいるよ。世の中には絶対に僕たちのような存在を許さないっていう『普通の人々』がいるからね。僕らは絶対的に数が少ない。困ったことがあったら助け合った方がいいと思うだろう? だから僕らには僕らのネットワークが必要なんだ。でも夏月は僕たちが集まることさえ嫌がる……」
「それは……」
多分そうやって集まることでますます差別化が大きくなると思っているからじゃないだろうか。
夏月はきっと『普通に』生きていきたいのだ。
だから能力も使わなければ弱くなるなんてことを。
ドリトルは、夏月の気持ちはわかる、とした上で、
「でもね、『敵』は、彼らは、独自のネットワークを持っていて、今までも何人かの能力者をこの世から抹殺しているんだよ。僕の知り合いもそうやって消された」
「消され……って、え?」
ドリトルはぐっと俺の方に顔を近づけると、恐ろしいくらい真剣な眼差しで囁いた。
「殺されたんだ。だから僕はそういう連中に対して、君や岡本千朗のような強力な仲間が欲しいんだ。黙って殺されるだけなんて、もうまっぴらだからね」
俺は自室でベッドに引っくり返りぼんやりと天井を見つめていた。
ドリトルの話は強烈だった。
能力者の存在を許さない『敵』のネットワーク。それに対抗しようとするドリトルのネットワーク。
彼の話によれば他にも何人か能力者がいるらしい。なにより間近にいた萩原夏月という超能力者。
(萩原先輩が仲間だったなんて……)
そのことが一番強く心に残る。
人の心を読み取ることが出来る能力。人の心に語りかけることが出来る能力。
(あ……)
ふと思い出した。あの公園で無性に哀しくなって泣いてしまったこと。まるで自分の意志とは別な場所から生まれたような悲しみ。あれはもしかしたら……
(先輩の哀しみだったのか?)
―――-家族でだってわかりあえない―――
そう夏月は呟いた。
人と心を繋ぐことができる能力を持つ先輩がどうして?
なぜあんなに悲しい思いを持たなければならないのだ。だって家族じゃないか。一番の味方は家族だろ? 一番わかってくれるのは一番そばにいる親じゃないか。
ひとりぼっちだ、という思いがある。
これは先輩の哀しみだ。先輩のあの掌から流れ込んできた感情だ。
そうだ、食堂でもいつも一人で食べていた。バス停でも一人で苦痛に耐えていた。
いつも、ひとりで……ひとりで……。
「―――ママ、パパ」
俺は部屋から飛び出すとリビングに駆け込んだ。母親と、仕事から返ってきていた父親が振り向く。
「あら、なあに?」
「どうした、けいと」
母親はダイニングテーブルを拭く手を止めて、父親は新聞から顔をあげて、俺に呼びかける。
いつもと同じ顔、いつもと同じ日常、同じ声。
俺はリビングの入口に立ちつくして両親の姿を見つめた。もし今、この人たちがいなくなったら。自分から離れていってしまったら。
「ううん、なんでもない」
俺はぎこちない笑みを返した。高校生にもなって急に寂しくなったんだなんて、言えるはずないけど、でも。
「あの、ねえ……俺……、俺がもし……もっとすごい、手に負えない力を持っていたら……」
俺は裸足の爪先をもう一方の足の甲にすりつけて呟いた。
「それでも……それでも平気だった? パパやママは俺のこと、俺のことをさ……」
化け物、と千朗は自分のことをそう呼んだ。遠巻きに自分たちを見ていた生徒たちの恐ろしいものをみる目。あんな目で両親は自分を見ただろうか。
「けいとちゃん」
気がつくと母親が目の前に立っていた。覗きこんでくる目は俺とそっくりだと言われている。
「誰かになにか言われたの?」
「ううん、そうじゃない。そうじゃないけど」
俺は胸にあごをくっつけるようにしてうつむいた。心配そうな母親の顔は見たくな
かった。
「どんな力があったってけいとちゃんはけいとちゃんでしょ。そしてママはけいとちゃんのママなんだから。けいとちゃんが悪いことすれば叱るし、いい子なら褒めるし。同じよ、他の子と」
「けいと」
父親が新聞を膝の上にたたんで言った。
「パパたちはお前がそういう力を持っているってわかった時に、いろんなところへ行ったし、勉強もした。結局『超能力』なんてひとくくりになれているものの正体はよくわからなかったんだけど、一つだけ確かなことはあったよ。
それはお前がパパたちと同じ人間だってことさ。それがわかってれば問題ないって思った。けいとは言うことをよくきく子供だったし、悪いこともいいこともちゃんと知っている。それ以上何も望まなくていいって。
けいとがしでかすことなんて、その場所に手が届けばどの子もやっちゃうことなんだ。そうだろ?」
「…………」
鼻の奥がつんとして俺は奥歯を噛み締めた。
技術者の父親は普段無口であまり会話もない。
でもいつだって俺の欲しいものがわかるのだ。クリスマスのプレゼントも誕生日のプレゼントも、そしてこういう時の言葉も。
「けいとちゃん?」
母親が繰り返す名前に俺はわざとふくれっつらをして見せた。
「ママ、頼むからけいとちゃんはやめてくれって、もう何度も言ってるじゃないか」
「あらあ、だって癖になっちゃってるんだもの」
「もう、これからちゃんづけしたら返事しないからな、やめてよ?」
俺は大声で言うとどかどかと足音をたてて二階の自分の部屋に戻った。
自分でもこれが甘えであることはわかっている。両親の優しい言葉を聞きたくて、ひとりじゃないと思いたくて。
夏月から与えられた悲しみが今穏やかな暖かさに変わって目の奥から流れ出してゆく。俺は両手のこぶしでぐりぐりと目を擦るとベッドにもう一度ねころがった。
(萩原先輩―――先輩。俺の声が聞こえますか? 俺のこと、わかりますか?)
夏月の白い顔を思い浮かべて心の中で呼びかける。
心の中? 頭の中? 意志? それとも思惟?
ものを考えるのは確かに脳なのだろうけど、それに付属する感情も脳で作られるのだろうか? 心は脳にあるのだろうか。でも哀しみは頭の中から出てくるものじゃない。
(ねえ、俺はこんなに幸せだよ? 先輩、俺の声、聞こえますか? 先輩、寂しいんですか? 哀しいんですか? 先輩、どうしてひとりぼっちなの? 先輩、一人は寂しいよね…… 先輩、おれがそばにいるの、いやですか? 誰だってひとりきりじゃいられないよ……)
答えはなかったが俺はいつまでも呼び続けていた。