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硝子の海

作者: 手羽 サキチ

眩しい夏の光がコンクリートを照りつける。僕は自転車を漕いで駅に向かう。太陽の光と地面から反射した熱が暑い。毎日通学路の途中で海辺を横切る。海辺にはいつも彼女がいる。彼女は季節外れの黒いワンピースを着ている。彼女は身をかがめて砂浜に打ち寄せられたガラスのかけらを拾い上げる。僕は彼女の姿を確認してから学校に向かう。

 

僕が高校に入学して自転車通学を始めたときから彼女は海辺に存在していた。はじめは彼女が何をしているのか分からなかった。彼女は時おり身をかがめて砂浜から何かを拾い、黒いワンピースのポケットにそれを入れる。まるで餌をついばむ黒いカラスのように見えた。彼女に気付かれないようにいつもより近くに寄り、目を凝らすとそれは波ですり減って海辺に流れ着いたガラスのかけらだった。カラスは光るものを集める習性がある、と父親から聞いたことがある。彼女は毎日海辺に現れる。集めたガラスのかけらを彼女はどうするのだろう。彼女がガラスを口に運ぶ。齧るとまるでべっこう飴のようにばりん、と砕ける。彼女はそれをばりばりと咀嚼する。僕はそんな想像をした。

 

季節が秋に近づいた時、異変は起きた。僕はいつも通り自転車に乗って海岸を通った。すると彼女がうずくまっていた。様子がおかしい。彼女は立ち上がろうとするが、ふらふらとしている。僕は自転車から降りて彼女の元に走った。至近距離でみた彼女は幼く、あどけなかった。どうやら熱があるらしい。顔が赤い。砂浜にはざあ、ざあと静かな波が打ち寄せる。彼女のポケットからガラスのかけらが零れ落ちた。すべて水色のガラスだった。僕はそれを拾って制服のポケットに突っ込んだ。

「大丈夫、ですか。」

彼女は答えない。僕はどうすればいいのかわからなかった。このまま時間が止まってしまったかのように感じた。辺りには誰もいない。砂が風に吹かれて舞い上がる。すると一人のおじいさんが現れ、僕たちの元に駆け寄った。

「冬香、やっぱり熱があったんだな、言わんこっちゃない。いや、どこの誰かは存じ上げませんが孫を助けていただいてありがとうございます。」

「は、はあ。」

「申し訳ないが手を貸してくれませんか。」

枯れ木のように細いおじいさんには彼女は重すぎるだろう。僕は彼女を抱きかかえた。彼女の質量が僕の体にのしかかる。おじいさんの後をついて僕は歩いた。道行く人は僕たちを奇妙な目で見ていた。僕は今日が英語の小テストだったことも春に買ったばかりの自転車を乗り捨てたことも忘れていた。夏の終わりの日差しが降り注ぐ。何度か角を曲がり、坂を上ると平屋の一軒家があった。

「ここが家です。いやあ、本当にありがとうございました。」

おじいさんはそう言って深々と頭を下げた。彼女はふらふらと立ち上がり、頭を下げた。まだ顔が赤い。

「どうぞ、お入りください、疲れたでしょう。」

僕は言われるがまま家に上がった。すると中から彼女の祖母であろうおばあさんが顔を出した。

「冬香、大丈夫かい。あんた、この人は。」

おばあさんは不思議そうに僕の方を見た。

「いやあ、ここまで冬香を運んでくれたんだ。」

おばあさんはありがとうございます、と頭を下げると彼女に手を貸して廊下を歩いて行った。

「それでは、僕はこれで。あと、彼女がこれを落としたんです。大事なものなんですよね。」

僕は彼女の落としたガラスのかけらをポケットから取り出した。

「あなたにあの子のことを話したくなった。老人のわがままを聞いてくれませんか。」

おじいさんは慈しむような、大切なものを見るような目をしてそう言った。


 テーブルの木は長年人の手の脂を吸って飴色に光っていた。僕は促されるまま椅子に座った。おじいさんは慣れた手つきで緑茶を注ぎ、かりんとうを出した。僕はいただきます、と言ってかりんとうを口に入れた。黒砂糖の甘さが広がる。

「なんだかあの子今朝はぼんやりしていて心配だったので海辺まで行ったら倒れていて、あなたが居てくれて助かりました。」

「いえ、僕は毎朝冬香ちゃんを見ていたもので。あ、変な意味ではないです。でもどうして冬香ちゃんは毎日ガラスを集めているんですか。」

「あの子には香苗ちゃん、という幼馴染がいました。双子のように仲が良くいつも一緒に遊んでいました。香苗ちゃんは海が好きでねえ、あの海でよく遊んでいました。去年の冬のことです。香苗ちゃんとあの子が中学校から帰ってくるときにトラックが飛び出してきて香苗ちゃんはあの子の目の前ではねられて亡くなりました。それからあの子はほとんどしゃべらなくなって学校にも行かなくなりました。そして日が暮れるまで海辺でガラスのかけらを拾い集めてそれで海の絵を作り始めました。」

突然彼女に降りかかった不条理。彼女の幸せだった毎日は一台のトラックに一瞬で奪われた。それはいかほどの悲しみだっただろう。きっと僕の想像を遥かに超えるものだ。

「そうだったんですか…」

庭の木が風に揺れる。緑の葉がさやさやと音を立てた。僕は彼女の悲しみ、苦悩がいっぺんに自分の胸にも黒い波となって押し寄せたような気持ちだった。おじいさんも同じ気持ちだったのだろう。僕とおじいさんはしばらく黙っていた。

「見てください、あの子の作った絵を。あのガラスを大切なものだと言ってくれたあなたに、見てほしい。」

僕ははい、と返事をした。


 おじいさんは廊下を歩いてドアを開けた。その部屋は物置のように狭かった。目に飛び込んできたのは一面の壁に貼り付けられたガラスのかけらだった。それは紺から緑、水色のグラデーションを形成していた。接着剤でくっつけたのだろうか。ガラスのかけらはぴったりと貼り付けられていた。端のわずかな空白が残っていた。

これだけのガラスを集めるのにどれくらいの時間がかかったのだろう。彼女は海辺を歩く。悲しみを抱いて。ガラスのかけらを拾うたびに親友との思い出が満ちる。黒い喪服を纏い、彼女は親友を弔う。

すると彼女がおじいさんの後ろから現れた。おばあさんも心配そうな顔で立っていた。足取りはさっきよりしっかりしている。僕はおじいさんに渡しそこねたガラスのかけらをポケットから取り出し、彼女に差し出した。

「ありがとう。」

彼女はそう言った。そして床に置いてあった接着剤を空白に塗り付けて水色のガラスのかけらを押し付けた。空白は充填され、絵は一枚の壁画のようになった。紺から緑色、水色のグラデーション。窓から光が差し込み、ガラスを照らす。彼女は膝をつき、声を上げて泣いた。おばあさんは彼女の背中をなでる。おじいさんも優しい目で絵を眺めていた。

「昔、香苗が言ってた。海辺のガラスで絵を描こうって。」

彼女がぽつりと言った。

おじいさんもおばあさんも僕もただ約束の絵の前に立ちすくんでいた。水面が眩しい夏の光を受けてきらきらと輝く。二人の少女はじゃれあいながら波打ち際を走る。それは永遠にきらめく硝子の海だった。


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