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好敏は黙って首を横に振った。
何だか、話が妙な雲行きである。文字通り、雲を掴むような、話だ。好敏の顔色を読んで、松岡は苦笑した。
「君が考えていることは、判る。私だって、本気にはできなかった。しかし、事情が変わった」
松岡の表情が、不意に真剣なものになった。
「というのは、写真を持ち込んだタレコミ屋が、ウイーンの市街で、殺されて発見されたからだ。明らかに、口封じだ」
好敏は、もう一度、手許の写真に視線を落とした。写真の風景が、俄かに剣呑なものに思えてくる。
松岡は、静かに立ち上がり、そっと隣部屋へ通じるドアノブに手を掛けた。
口許に人差し指を当て、好敏に黙っているように注意すると、ドアを一気に引き開けた!
「きゃあっ!」
悲鳴を上げ、セーラが部屋に転げ込んできた。どうやら、ドアに耳をピッタリと押し付け、盗み聞きをしていたらしい。
松岡は、ゆるゆると首を振って、フランス語に切り替えて口を開いた。
「お嬢さん。盗み聞きとは、油断できませんな。もしかして、日本語が理解できるのですかな?」
セーラはむっと押し黙り、立ち上がった。ぱたぱたと、着衣の埃を叩き、澄まして髪のの乱れを直す。
「いいえ、残念ながら、日本語は解しませんのよ。ですから、盗み聞きという、あなたの非難は、的外れです!」
松岡は「くくっ!」と短く笑った。
「なるほど、何だか、あんたとは気が合いそうな予感がしますな! さて、私が見るところ、あなたと、徳川君とは、かなり深い仲になっているようだ。違いますか」
セーラは真っ赤になった。
「無礼です! それが、あなたと、どう関係しますの?」
「それが、大いに関係するのです。白状しますと、私は、徳川君に日本政府の秘密指令をもたらしに来たのですよ。それで、徳川君を、オーストリアへ派遣する命令を下すのですが、それに、あなたを同行させたいと思っているのです」
松岡の言い分に、好敏は椅子を蹴立てるように、さっと立ち上がった。
「松岡さん、あんた、何を……?」
じろっと、松岡は好敏を一瞥して、言い放った。
「女連れなら、敵に怪しまれない。それと、私はセーラ・リリエンタール嬢についても、情報を掴んでいる。セーラ嬢は、こちらの調査では、ドイツ語に堪能らしい。オーストリアの首都であるウイーンでは、セーラ嬢の語学が有利に働くだろう」
ぽかんと口を開き、セーラは呆気に取られていた。あまりに急な話に、完全に思考がついていけない、といった様子である。
松岡は、今までの話の内容を、改めてセーラに説明した。徐々に、セーラの表情が引き締まってくる。
最後に、松岡が質問した。
「どうです? 徳川君と、一緒に、この秘密命令を請けてもらえますかな?」
セーラは、ゆっくりと、顎を引いて頷いた。
「ええ、好敏さんのためになるなら……」
「セーラ! 馬鹿を言うな! 君は判っていない……!」
好敏は大きく首を左右に振って、セーラに詰め寄った。セーラは決断したように、真剣な表情で好敏を見上げる。
「あたし、一緒に行くわ! 絶対に、好敏さんを一人でなんか行かせたくない!」
セーラの瞳には、燃えるような決意が溢れていた。