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帰国した好敏を、妻の千枝子が玄関で出迎えた。
「お帰りなさいませ……」
好敏と、千枝子は大正三年に結婚している。妻の千枝子は、戦中戦後を通じて、軍人である好敏を支えた、糟糠の妻である。
老後の好敏は、横須賀の野比海岸近くに居を定めている。喜寿に近い年齢の好敏には、静養が必要であった。
それでも好敏は、五年間を生きた。
昭和三十五年、四月十七日早朝、いよいよ老齢の肉体が、衰弱のため息を引き取る寸前であった。妻と、医師が見守る中、好敏は静かに臨終を迎えつつあった。
好敏は、妻の影響で、カトリック教会に帰依している。キリスト教において、死は帰天と呼び、魂が天に帰ると称する。
死が迎えつつある意識の中、好敏は五十年前の、ファルマン飛行学校に戻っていた。
ファルマンⅢ型飛行機の操縦桿を握る好敏の背後には、セーラが愛用の飛行帽を被り、しっかりと好敏の腰に腕をまわしている。
見上げる空は、朝焼けの金色に輝いていた。
好敏は操縦桿を倒し、ファルマン機を旋回させた。
すると、好敏の視界に、もう一機の飛行機が入ってくる。こちらは単葉機である、ハンス・グラーデ飛行機だ。一人乗りの座席に座っているのは、日野熊蔵の勇姿である。
「おおーい……日野大尉……!」
好敏が大声を上げると、向こうのグラーデ機を操縦する日野熊蔵が手を振った。好敏も手を振り返す。
背後のセーラが話し掛ける。
「ねえ、好敏さん。日野大尉と、競争しましょうよ!」
「よしきた!」
好敏は叫び返すと、スロットルを思い切り踏み込み、発動機を全開にさせる。背中の発動機が轟音を立て、向かい風が打ちつけた。
グラーデ機の熊蔵は、豪快な笑い声を上げ、速度を増した。
好敏も笑いを浮かべ、まっしぐらにファルマン機を朝日に向けた。
眩しい暁の光の中へ、双つの翼は、溶け込むように消えて行く。
*
「御臨終です」
医師が好敏の脈を計り、好敏は早朝の光の中で息を引き取った。
享年七十八歳であった。
好敏は府中カトリック墓地に葬られ、十二年後、妻の千枝子も埋葬されている。
錬兵場のあった、代々木公園には、徳川好敏、日野熊蔵両名の銅像が残され、日本最初の飛行成功を讃えている。




