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「コンスタンチン・ツィオルコフスキーさん……と仰いましたかな? 確か『反作用利用装置による宇宙探検』を著しになった」
熊蔵は鋭い目つきになって口を開く。
ツィオルコフスキーがぽかんと口を開けているのを見て、熊蔵は自分の過ちに気付いた様子で、テーブルの手帳に手を伸ばし、紙面にさらさらと、今の言葉を書き付けた。
熊蔵の書き付けたのは、ロシアで使用されているキリル文字である。熊蔵の書いた文字を眼にし、ツィオルコフスキーは満足そうな笑みを浮かべた。
「あれをお読みになられたのですな! いや、これは嬉しい驚きだ」
好敏が顔に疑問を浮かべたのを見て、熊蔵は説明してくれた。
「宇宙ロケットの解説書だ。この人は、実用的な宇宙ロケットの理論書を、世に問うたのだ。俺は英語に翻訳されたのを読んだのだが、実に刺激的だ! もし、ツィオルコフスキー氏の理論どおりに、ロケットを製作できたら、月世界すら、人類は征服できるだろう」
口にしながら、熊蔵は自分の言葉を手帳に書き込んでゆく。
ツィオルコフスキーは、九歳の頃に猩紅熱に罹患し、聴力の大部分を失っていた。以後は筆談による会話であるが、通常の話し言葉として記述する。
好敏は、思わず薄笑いを浮かべる。
「月世界旅行ですか! 本気ですか、日野さん」
熊蔵は、微かに怒りの色を浮かべた。
「君は、馬鹿にするがね、ツィオルコフスキー氏の論文は、極めて現実的なものだ。飛行機だって、ライト兄弟が登場するまで、単なる空想だと識者は批判していた。もしも月旅行が現実になるなら、その最初の担い手は、ロシア人になるのではないかな?」
「いや……」
熊蔵の言葉に、ツィオルコフスキーは眉を寄せた。
「そういうことには、ならないでしょう。ロシアには、私の考えを理解できる人間は一人もいません。恐らく、最初に月面に足跡を残すのは、アメリカ人かもしれません」
意外なツィオルコフスキーの言葉に、好敏と熊蔵は顔を見合わせた。
「なぜ、アメリカ人なのです?」
好敏の問い掛けに、ツィオルコフスキーは僅かに肩を竦めた。
「アメリカに、ロバート・ゴダードという青年がいます。ゴダード氏は、私の理論に早くから興味を示して、独自の研究を進めております。何と、ゴダード氏は、私の提案した液体燃料によるロケットの設計すら、始めているようです」
ロバート・ハッチング・ゴダードは一八八二年生まれで、二十八歳。好敏とツィオルコフスキーの会話から四年後、スミソニアン協会から資金協力を得て、ロケット・エンジンの設計を始めている。
ゴダードが実際に、ロケットを飛ばしたのは、一九二六年である。
「お二人は、どのような用件で欧州へいらっしゃるのです?」
ツィオルコフスキーに言われるまで、好敏は自己紹介を忘れていたことに、改めて気付かされた。
急いで自分らの目的を説明すると、ツィオルコフスキーは大いに頷いた。
「ああ、飛行機は、これから重要な技術になるでしょう。お二人は軍人だと言われるが、確かに軍事にも、飛行機は使われるでしょう。ですが、その他に民間用の旅行の手段として、重要な位置を占めるでしょうな」
好敏は思い切って、尋ねてみた。
「我々が日本から来たことに、あなたは何も感じないのですか? 戦争があったのは、つい五年前なのに」
好敏の問い掛けに、ツィオルコフスキーはほんの少し、片方の眉を上げて見せた。
「それが、何か? 戦争は、貴族連中が起こしたことです。私らには、何の関係もない」
ツィオルコフスキーの口調には、苦々しさが感じ取れた。好敏は、ロシアに存在する矛盾を、垣間見た気分だった。
「いや、お二人とお話できて、嬉しい限りです。お二人の、フランスでの成功をお祈りしております」
別れ際、ツィオルコフスキーは、丁寧に挨拶をして立ち去った。
食堂を出て、好敏と熊蔵は駅へと向かった。
列車の発車は、まだ先だが、シベリア鉄道の運行は当てにはならない。突然、早まったり、酷いときには何時間も待たされたりする。日本では考えられない、ルーズさである。
しかし中々発車しないからといって、のんびり構えていると、列車は突然、動き出して乗り遅れてしまう。シベリア鉄道では……いや、欧州の鉄道では、発車の案内など、皆無なのだ。従って、乗り遅れるのは、個人の自己責任とされる。
個室に戻り、二人は席に落ち着いた。列車は、珍しく、定刻に発車した。
動き出した窓外の風景を見やりながら、好敏はロシアの将来に思いを馳せていた。
どうやら、あのツィオルコフスキーという人物は、ロシアでは正当に評価されていないようである。短い歓談からも、努めて政治の話題からは遠ざかっていた。
「将来、ロシアでは、政変が起きるかもしれないな」
熊蔵の呟きに、好敏は、ぎくりとなった。まるで今の好敏の内心を代弁するような言葉だからだったからだ。
好敏の顔色を読んで、熊蔵は凄みのある笑いを浮かべていた。
「日露の戦いの際、明石元二郎大佐が、ロシアの革命勢力と接触し、様々な援助を行ったのは知っているかね? 日露の戦いは終わったが、ロシア国内の戦いは終わっていない」
明石元二郎大佐の、ロシア国内革命勢力との連携については、戦後華々しくは語られていない。しかし軍内部では、密かに明石の軍功は囁かれていた。
好敏自身、工兵科連隊所属として、日露戦争当時は、情報活動に従事している。熊蔵も同じで、そういう関係から、明石元二郎の活躍については、知識があったのである。
ロケットか……。
好敏は、未来の技術に思いを馳せた。今から自分が学ぼうとしている飛行機械の操縦技術も、恐らく未来には一変している可能性がある。これから先どのような飛行機械が登場するか、好敏には想像もつかなった。
自分は断固、先駆けになるのである! これだけが、今の好敏を支える誇りといって良かった。
何としても、成功してみせる!
好敏は決意を新たにしていた。
列車は、ロシアの大地を、ひた走っていた。