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好敏は、茫然と立ち竦んでいる。
セーラは、瞬きもせず、大公を見詰めている。
大公もまた、身動き一つ、しない。
奇妙な静寂が、廊下を支配していた。
最初に動いたのは、カシムだった。
銃口を上げ、ぴたりと大公の眉間を狙う。カシムの顔には、ぎらぎらとした殺戮への期待が込められている。
「フランツ大公だと……! 実に、良いときに巡り合えたものだ……。俺たち、セルビア人の怒りを食らえ!」
同時に、周囲から、がちゃがちゃ! と立て続けに上がる、銃を構える音。
カシムは銃を構えたまま、ぎろりと視線を動かした。
大公の背後、同時に、好敏の背後からもいつの間に降って湧いたか、数人の同じようなスーツを身に着けた男たちが、銃を構え、カシムを狙っていた。
「余が、護衛もなしで、出歩くと思ったのかね? 撃つが良い。だが、そちが鉤金を引いた瞬間、即座に蜂の巣になって、一巻の終わりとなるぞ!」
一瞬、カシムは躊躇いを見せた。好敏は、カシムの躊躇いを見逃さず、即座に前へ飛び出て、大公の前方に立ち塞がった。
「カシム! 止めるんだ! ここで大公を殺して、何になる? それに、大公は、ヨセフ一世とは違い、あんたら少数民族には同情的なはずだ。もし、大公が、あんたに殺されたら、セルビア人に対する差別は、益々酷くなるだけなのが、判らないのか?」
大公は、好敏の言葉に「我が意を得たり!」とばかりに、大きく頷いた。
「その者の言葉は、全面的に正しい! 余は、伯父上と違い、ユダヤ人を初めとする、ドイツ人以外の民族にも、政治的な参加の機会を与えるべきと愚考している。余が皇帝の位を握った暁には、必ず、他民族にも良きに計らうと、約束しても良い!」
カシムの銃口は、内心の動揺を表しているのか、ぐらぐらと揺れていた。
やがて、銃を握る腕がだらりと垂れ、カシムは俯いた。
好敏は、カシムの殺意を失った瞬間を見逃さず、さっと一歩進むと、無言で手を伸ばした。
カシムはぼんやりとした顔つきのまま、好敏の手に、自分の拳銃を渡した。
好敏の全身に、どーっと冷たい汗が噴き出した。ぎしぎしと、身体中の筋肉が、悲鳴を上げている。
危なかった!
大公は大きく、息を吐き出した。さすがの大公も、肝を冷やしたのだろう。
カシムは、ポツリと呟く。
「俺は、歴史を変えるチャンスを失った……!」
大公はジロリと、セーラを睨む。
「エイラ! お前の話は、後だ!」
セーラは初めて、大公に対し怒気を発した。
「私はセーラです! これからも、そうお呼び下さいませ!」
大公の口が、呆れたようにぽかりと開く。が、何も言わず、肩を竦めた。好敏に向き直り、優雅に頭を下げた。
「危うい所、かたじけない。貴殿とは、少々、込み入った話があるのだ。が、貴殿の部屋は、少しばかり、狭いようだ。良ければ、余の部屋にて、話を続けたいが?」
好敏が頷くと、大公は泰然と背を向け、歩き出す。大公の後に続くと、目立たぬように、護衛を努めていた男たちが、足音を忍ばせ、周囲を囲む。
背後に目をやると、セーラが護衛の男たちに促され、歩き出す。カシムも、朦朧とした顔つきのまま、漂うような足取りで、歩き出した。
一同は大公の案内で、ホテルの上の階へと移動した。
大公の部屋は、ホテルの最上階にある続き部屋{スイート}であった。正確に言えば、最上階の総てが、一つの部屋となっている。
入ってすぐに、足首まで埋まりそうな絨毯が敷き詰められていた。マントルピースには、薪が赤々と燃えて、炎を陽気に躍らせている。
部屋の調度は、好敏の目には、うっかり、宮殿に彷徨いこんだ気分にさせるものだった。
大公は無造作に、一同を応接セットに誘った。
「白状すると、貴殿らの行動は、ミュンヘン駅に到着した瞬間から、見張られていたのだ。このホテルは、余のドイツにおける、秘密の行動拠点でな」
大公の言葉に、カシムはやや、活気付いた。
「あんたの行動拠点? それじゃ、あの乗合馬車は?」
大公は頷いた。
「左様。そちが馬車を利用すると見越して、用意したのだ。馬車を使わないときは、また別の案内が近づいたであろうな」
カシムはそっぽを向き、「糞っ!」と小声で毒づいた。大公は、やや自慢だったのか、擽ったそうな顔つきになった。
好敏の抱いていた疑問が、ある結論に向けて、突然、烈しく雪崩を打って集約し始めていた。
「それじゃ、ハンス・シュミットというのは?」
大公はニヤリと笑った。その瞬間だけは、皇位継承者という公の顔から、仄暗い、陰謀家の表情が垣間見えていた。
「そうだ。余が、ハンス・シュミットという名前の、情報提供者である。いや、徳川君が余の前に現われるのを、千秋の思いで、待ち侘びたぞ!」




