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好敏と、カシムの間には、目に見えぬ火花が飛び散っているようだった。
カシムは顔を真っ赤に染め、怒りに表情が歪んでいる。アドルフに向けた拳銃の、鉤金に掛けた指先は、今にも引こうとしているかのように、真っ白になっていた。
好敏は凝然と固まり、カシムの一挙手一投足を見逃すまいと、息を殺した。
「殺してどうなる。尾行者がいると、あんたは俺に忠告したじゃないか。銃声を聞きつけられたら、お終いだぞ!」
好敏の言葉に、カシムは指先を、鉤金から外した。それでも、懐には収めず、だらりと腕を下げる。
「吐け!」
アドルフを見下ろし、高々と命令する。
のろのろと、アドルフは身を起こした。なぜか、阿るような、薄笑いを浮かべている。
カシムはかっとなって、爪先をアドルフの横腹に食い込ませた。
「ぐえっ!」とアドルフは呻いて、床に蹲った。げえげえと、何度も吐いて、絨毯を汚した。
「そっちの、吐くじゃないっ! すっかり、正直に話すんだ! 貴様、俺に嘘を吐いたそうだな。なぜ、そんな巫山戯た真似をする?」
げほげほと咳き込みながら、アドルフは弱々しく答えた。
「だって、本当に何も知らないと、あなたに言っても、信じちゃくれないからです! ゴロス少佐だって、頭から徳川さんが何か知っていると誤解して、僕を拷問しようとしました。あのままじゃ、僕が酷い目に遭うのは判り切っていました。それなら、撮影場所を知っている振りをして、旅をすれば、その間に逃げるチャンスがあると思ったんです……」
カシムはぽかんと口を開け、頭をゆるゆると何度も左右に振った。アドルフの能天気さに、完全に呆れ返っている。
「こんな馬鹿には、初めてお目に掛かった!」
どすん、と背を壁に着け、ポケットを弄る。紙巻煙草を取り出し、口に咥えた。マッチを擦って、一口、吸い付ける。
わざとのように、煙をアドルフに向かって吹き掛けた。アドルフは何か言い掛けたが、黙って耐えた。
じろり、と好敏に視線を向けた。
「あんた、どうする? この阿呆に引っ張り回され、のこのこ、ミュンヘンまで来たが、この先、撮影場所を探る当ては、何にもないんだぜ。このまま、危険を冒して、ウイーンに戻るか?」
好敏は「いいや」と首を振った。
「ウイーンに戻っても、当てがないのは、同じだよ。それより、何とか手懸りがないか、こっちで探るほうが実際的だ」
「手懸り? そんなもの、あるのか?」
「アドルフの描いた絵がある。あれは、シュミットの写真を写したというじゃないか。手懸りがあるとすれば、それしか考えられない!」
カシムは、好敏の返答に、考え直したようだった。
「そうか……。そうかもな……。しかし!」
ぎろりと、カシムは再び怒りの視線をアドルフに向けた。
さっと、銃口を、アドルフに向ける。
「この馬鹿野郎は、生かしちゃおけねえ! 銃声を聞かれたって、構うもんか!」
目の隅に動きを感じ、好敏は素早く目玉を動かした。
何と、セーラが、壁にある照明のスイッチに手を伸ばしている。
止める間もなく、セーラはスイッチを倒していた。
照明が消えた! 部屋は真っ暗になる。
カシムの喚き声が響き、好敏の目の前に、ぱっとオレンジ色の火花が燃え上がる。
ぱあんっ! という銃声が轟いた。同時に、ドアが開かれ、さっと室内に廊下の照明が差し込んだ。
どたどたどたっ! と足音がして、アドルフの痩せた身体が、廊下に飛び出していく。
「くそおっ!」
カシムは呻くと、アドルフを追って、廊下に飛び出した。
好敏も、自分でも訳の判らない罵り声を上げて、外へ飛び出した。
廊下を、あたふたとアドルフが駈けて行く。アドルフを追いかけるカシム。アドルフの姿が、廊下の角に消えると、入れ替わりに、すらりとした上背のある男が姿を現した。
ぱりっとした金の掛かったスーツに、念入りに整えた髪形をした、年齢四十絡みと思える男性である。口許には、カイゼル髭を蓄えている。
男の登場に、カシムは、ぴたりと足を止めた。男は素手であり、何も武器は持っていない。しかし、男の迫力は、カシムの足を留めるには充分であった。
「銃声が聞こえたようだが……」
男の視線が、カシムに向かった。カシムは喚き返した。
「それが、どうしたっ! お前に、何の関係があるっ? どけっ!」
「あの若者は、放っておきなさい。私は、そこの、日本人に話があるのだ」
「何だと……」
男は、好敏に向かって笑い掛けた。
「あなたが、徳川好敏大尉ですな。お初にお目に掛かる。私は、フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒと申す者です。あなたがウイーンから、ミュンヘンに向かったと報告を受け、追い掛けて来たのです」
長ったらしい自己紹介に、好敏の記憶が刺激された。
フランツ・フェルディナント……だと?
「あんた、まさか!」
フランツは頷いた。
「そうです。予が、皇位継承者である、フェルディナント大公である!」
フランツ大公は、ちらっと、好敏の背後に目をやった。
振り返ると、セーラがドアから半身を覗かせ、凍り付いている。
大公の顔が驚きに弾けた。
「エイラ! そこで、何をしている?」
エイラ、と呼び掛けられたセーラは、小声で呟いた。
「伯父様……」
好敏はセーラを見詰めた。
「伯父様だって? それじゃ、君は……。セーラ・リリエンタールというのは……?」
大公は顔を顰めた。
「セーラ・リリエンタール? そんな変名を使っているのか! いいや、そこの娘は、セーラなんて名前じゃない。エリーザベト・フランツィスカ・フォン・エスターライヒというのが、正式な名乗りである。私たちは、エイラと呼んでいるがね」




