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偽の顔と偽の身分で、好敏らは、隠れ家から中央駅へと向かった。
旧市街から中央駅へは、路面電車{トラム}が走っている。一同を案内するカシムは、秘密警察の目が光っていないか、周囲に気を配っているのが、態度からも判る。
当然、好敏も緊張していた。
セーラ、アドルフも、表情を強張らせ、黙り込んで電車に乗り込んでいる。
中央駅に行き着き、切符を手に入れ、ホームに辿り着くと、カシムはやや、緊張を緩めた。
ホームで待つと、ほどなくミュンヘン行きの汽車が入ってくる。たちまち辺りは、機関車の巻き上げる蒸汽で真っ白に煙る。
渡された切符の、個室{コンパートメント}番号を確かめ、四人は車内に進んだ。
個室に落ち着くと、列車が動き出す。
車窓から、全員、ホームが遠ざかるのを、食い入るように見詰めている。まるで、今すぐにも、ゴロス少佐が部下たちを引き連れ、車内に踏み込んで来るかと、怯えているかのようだ。
完全に駅が遠ざかると、車窓の風景がウイーン市街から、郊外の穀倉地帯へと変わっていく。
そこでようやく、一同に和んだ空気が流れた。
「これで、僕たち、ゴロス少佐の追跡を逃れたんですね?」
口に含んだ綿を吐き出し、変装を解きながら、アドルフがカシムに話し掛ける。
カシムは苦い表情になって、頭を振った。
「まだ安心は一切できんぞ! ゴロス少佐の遣り口は、こちらを安心させて、実は長い腕をドイツ国内へ伸ばしているかもしれん!」
アドルフが変装を解いているのを見て、好敏も、つい顔に塗られた顔料を拭き取っているところだった。手を止め、好敏はカシムに尋ねた。
「ミュンヘンに待ち伏せがある、とあんたは言うのか?」
「判らん。あまりに簡単すぎる! 俺の予想では、駅に着くまで、何らかの妨害があると確信していたのだ。本当に奴らは、俺たちを見逃したのか、それとも、わざと泳がせているのか……」
全員、カシムの言葉に、粛然となった。
ただ一人、アドルフだけが陽気である。
「まるで僕たち、『ニーベリングの指輪』を、探すために出掛けているみたいですね!」
ウキウキとした調子で、話し掛けられ、好敏は眉を顰めた。
「なんだ、その、何たらリングの指輪というのは?」
好敏の質問に、アドルフは「信じられない!」とでも言いたそうに、首を何度も横に振った。
「徳川さん、知らないんですか?」
アドルフの口調は、まるで非難するかのようだ。自分が知っている知識は、当然、他人も知っているものと決め付けている。
好敏は憮然となった。段々、アドルフの態度が、鼻につき始めている。
セーラが突然、口を挟んだ。
「リヒャルト・ワーグナーの、有名なオペラの題名よ。『ニーベリングの指輪』というのは、地下に住むニーベリングという侏儒{こびと}が持つ指輪で、世界を支配する力を持っているの」
「へえ……」と、好敏はセーラの顔を見詰めた。意外な知識を、セーラは披露する。見詰められ、セーラは顔を赤らめた。
アドルフは、好奇心を剥き出しに、セーラに向き直った。
「セーラさん、『ニーベリングの指輪』を、観たんですか?」
セーラは肩を竦めた。
「序曲だけよ。何しろ、全編を通しで演奏すると、六日間ぶっ通しなんてオペラだもん。とてもじゃないけど、付き合いきれないわ」
アドルフは、心底、羨ましげな表情になった。
「良いなあ! 僕は、観たい、観たいと切望していたんですが、遂に観損なってしまっているんですよ! セーラさんの言うとおり、『ニーベリングの指輪』は、ワーグナーが作曲した最長の作品で、あまりの大作に、劇場で演じられる機会は、そうそう、ないんです……」
好敏の、心中に蟠る疑問が、ぐい、と頭を擡げた。
アドルフは、どうやら、熱狂的なワーグナーの崇拝者らしい。そのアドルフが、観たいと切望していて、未だに未見のオペラを、セーラは観劇しているという。
どこで観劇したのか知らないが、セーラは思ったより、良い家柄の出かもしれない。そうでなくては、席を取る機会すら、与えられないではないか?
好敏は、セーラへの疑いを、必死に押し殺した。
迷いは敵だ! 今は、セーラが自分に向ける愛情を、愚直に信じるべきではないか。
だが──。
セーラは、好敏の懊悩に、まるで気付かぬように、ぼんやりと車窓の風景を眺めていた。




