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ウイーンを脱出し、ドイツへ向かうには、変装が必要だと、カシムは主張した。好敏は同意した。
しかし変装に必要な、カシムの提案は、とてもじゃないが、受け入れられないものだった。
「髭を剃りたまえ」とカシムは宣言した。
「髭を! 冗談じゃない!」
好敏は思い切り、渋面になった。拒否のために、首を何度も左右に大きく振った。が、カシムは、冷厳に説得を続ける。
「髭を剃らないと、変装できないぞ。そのままでは、人相書きで、すぐばれる」
隠れ家には、カシムの手下と称する、小柄な男がニヤニヤ笑いを浮かべて、好敏を見上げている。カシムは、小男を、変装術の達人と紹介した。
「まず、髭を剃り、皮膚の色を変えます。タタール人として通るでしょう」
「良いじゃないの。髭を剃れば、若く見えるわよ!」
セーラは無責任に、カシムの提案を後押しした。
好敏は窮した。
「さあ、どうする?」
カシムに迫られ、好敏は不機嫌に黙り込み、長椅子に腰を下ろした。こうなれば、自棄だ!
「えーい、やってくれ!」
憮然として、顎を突き上げ、小男を睨む。小男は、鼻唄を口ずさみながら、小さな剃刀を取り出し、淡々と好敏の髭を当たり始める。
しょりしょりと、微かな音がして、好敏の口髭が剃られてゆく。好敏は目を閉じた。
皮膚に、小男の掌がぺたぺたと、何かを塗ってゆく。皮膚の色を変えると、言っていたから、顔料の類なのだろう。
細い筆先が動いて、さっさっ、と、好敏の目尻、口許、頬などに線を描き込む感触があった。
「よろしい……」
声に、好敏は両目を開いた。小男が、小さな手鏡を差し出す。
覗き込み、好敏は息を呑み込んだ。
鏡の向こうから、今まで覚えのない、新たな顔が自分を覗き込んでくる。
好敏はどちらかというと、色白のほうだ。ところが、今は日焼けして、重たげな瞼と、深い口許の皺が、長年、草原で暮らしてきた遊牧民らしさを現している。
年齢は、一気に十歳は重ねている。
セーラは気味悪そうに、好敏の顔を見詰めていた。見知らぬ他人が、突然、好敏の代わりに存在するようだった。
「これを羽織って下さい」
渡されたのは、重たげな背広だった。裏地の、背中側が分厚い。羽織ってみると、自然に猫背になって、妙な具合だ。
小男は得々と講釈した。
「変装というのは、小手先では駄目で、全体の印象を一変させる必要があります。姿勢を変化させるのが、最も効果的なのです。あなたに渡した上着を着ていれば、自然と肩が下がり、一見しただけでは、見破れないでしょう。ああ、そうだ! 手にも、顔料を塗っておいてください。そのままでは、顔の色と、手の色が合わない!」
好敏は、小男に顔料を貰って、手の甲に塗り込んだ。小男は、セーラと、アドルフに向き直った。
「では、そちらのお嬢さんと、若い衆の番ですな!」
セーラの変装は、髪の毛を短くして、亜麻色の髪を黒髪に染めるものだった。さらに、縁無しの眼鏡を架けさせられる。
ただ、それだけなのに、セーラの印象は別人に一変した。
唇の色を変え、頬の赤みを消すと、セーラは男嫌いの、オールド・ミスといった感じに変貌する。最後の仕上げに、出っ張った前歯を装着させられた。もう、セーラの面影は、どこにも残っていない。
手鏡を覗き込んで、セーラは思い切り、顔を顰めた。
アドルフは、口の中に綿を含み、上着の下に、腹回りを太らせるために、綿を詰めた腹帯を締めさせられた。身につけた上着には、肩と背中に厚みがあり、全体で、肥満した感じになった。
小男はアドルフの両手を見て「ちっ、ちっ!」と舌打ちする。アドルフの指先は、細くて長い。外科医に向いた指先である。
「その指は、体型に合わないですな。よろしい! では、あなたは変装をしている間、手袋を着けていていてください。それなら、指を誤魔化せる」
好敏は、面白がって、にやついた顔つきのカシムを見た。
「あんたは、いいのか?」
カシムは肩を竦めた。
「俺は、ゴロス少佐には、面が割れていないからな」
「そうかよ! それは、良かったな!」
好敏はむっつりと、頷いた。




