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荷車は、じれったいほど、ゆるゆると通りを進む。満載されている残飯の臭いで、鼻が曲がりそうなのを、好敏は必死に堪えた。
耳を澄ませていると、周囲の会話が、ドイツ語から、耳にした覚えのない言語が混じるようになった。閉じ込められていた時、微かに聞こえてきた、回教徒の祈りの言葉に、響きは似ている。
残飯の臭気に、強い香辛料の匂いが混じる。
ようやく、荷車が停まった。
「もう、いいぞ!」と声を掛けられ、好敏、セーラ、アドルフの三人は、ごそごそと荷車の底から這い出す。
好敏は、立ち上がり、周囲を素早く見回した。
ウイーンの旧市街らしい。建物は古ぼけ、通りは狭く、ごみごみとしている。
すぐ横で、好敏を救い出したグループのリーダーが、明らかに緊張を解いた様子で、壁に背中をくっつけ、紙巻煙草を取り出して口に咥えていた。
荷車を御した部下は、リーダーに一つ頷くと、ぴしりと鞭を鳴らし、驢馬を急き立て、大通りへと消えた。
好敏たちは、思わずお互いの顔を見合わせた。セーラはドレスの乱れを気にしている。アドルフは不安そうで、怯えたような眼差しを辺りに向けている。
火を点けた煙草を咥えたまま、リーダーは「こっちだ!」と頭をちょっと傾げ、好敏たちを案内する。最小限の言葉しか、口にしない主義らしい。
案内されたのは、裏通りに面した、三階建ての建物だった。見るからにオンボロで、壁の漆喰は剥がれ、古い煉瓦塀が、所々で剥き出しになっている。
狭い入口を抜けると、二階へと続く階段になっている。階段は木製で、踏むとギシギシと軋んだ。
通されたのは、五角形の、妙な間取りの角部屋だった。建物の形が、狭い通りに押し込められているように建てられているので、こんな不思議な形の部屋になったらしい。
床は、掃除が長い間、されていないようで、踏み込むと砂埃で、靴底がじゃりじゃり音を鳴らした。
細長い窓側に、鉄製のベッドが置かれ、向かい側に木製の長椅子があった。リーダーはベッドに腰を下ろし、じろじろと好敏たちを観察した。
好敏は、ついに口火を切った。
「助けて貰って、感謝の限りだが、お互い、自己紹介といかないか?」
リーダーは、にやっと笑った。
「そうだな。俺はカシムと名乗っている。あんたらも、そう呼んでくれれば良い。俺は、ある組織の長を務めている。その組織は……まあ、今更この期に及んで奇麗事を言っても始まらない。要するに、反政府組織だ。もちろん、オーストリア=ハンガリー帝国への、反政府活動だがね!」
反政府組織という言葉に、好敏の隣で茫然と立ち竦んでいたアドルフが、びくっ、と身を震わせた。口許がぴくぴくと痙攣し、身内から湧き上がる戦慄を必死に耐えている。
好敏は質問を投げ掛けた。
「なぜ、我々を助けた?」
カシムと名乗った若者は、挑戦的な目つきになった。
「奇妙な噂が流れている。ハンス・シュミットという、情報組織の一員が殺され、残された写真を手懸りに、さまざまな組織が動き出している──。そんな噂だ。そんな時に、シュミットが接触した、日本政府から一人の軍人がウイーンに派遣され、調査を始めたらしい……。すると、オーストリア王宮警護特別隊のゴロス少佐が、あんたらを街のど真ん中で逮捕し、連れ去った。さてこそ! と俺たちは色めき立った。それで、あんたらを救出することにしたのだ」
好敏は肩を竦めた。
「なんだか、皆、シュミットに振り回されているな。俺はシュミットという御仁に、顔を合わせたこともないのに、ゴロス少佐は俺がシュミットと連絡を取り合っていると、誤解している始末だ!」
カシムは薄ら笑いを浮かべた。
「そんな与太話を信じろ、と言うのかね? 少佐が、あんなに血眼になって、あんたらを誘拐したというのに」
好敏は、むっとなって、黙り込んだ。
すると、それまで黙り込んでいたアドルフが、堪りかねたように口を開く。
「反政府組織って、どんな組織なんです? あなたがたは、どの国の組織なんですか? オーストリア帝国に対立する国は、沢山あるけど、あなたがたもそんな国から、ウイーンに来たのですか?」
カシムの眼差しが、怒りに燃える。
「推測は、ついているんじゃないのか? 俺たちは、セルビア独立運動の闘士だ! オーストリアに奪われた、ボスニア・ヘルツェゴビナを奪い返すまで、俺たちの戦いは続く……だが」
言葉を切り、カシムは笑いを浮かべて、好敏を見詰めた。
「なぜ、あんたを、危険を冒して救出したか、説明しよう。古くから、こう言われているだろう? つまり〝敵の敵は味方〟とね! ゴロス少佐に誘拐され、あんたらはオーストリア王族と敵対関係になった。すなわち、俺たちにとっては、新たな友人というわけだ」
好敏は「ふん!」と鼻を鳴らす。
「嘘つきめ……。あんたは、嘘をついている。俺は、相手が嘘をついているときは、目で判るんだ!」
好敏と、カシムの間に、一瞬、鋭い緊張が張り詰めた。最初に、カシムは緊張を解き、頷いた。
「まあな。だが、丸っきり嘘、というわけでもないぜ。手を晒すと、ハンス・シュミットが日本政府に漏らした『新兵器』ってやつに、俺たちも興味を持っているんだ」
「やはり、そうか!」
カシムはゆっくりと、立ち上がった。
「俺たち、セルビア独立同盟。オーストリア帝国、ロシア、ドイツ。その、どの情報組織も、シュミットの言う『新兵器』についちゃ、神経を尖らせている。本当にそんなものがあるかどうかさえ、確かじゃない。だが、もし存在するなら、由々しき事態だ。もし『新兵器』がオーストリアに渡ったら……」
背後で、息を呑む気配に、好敏は目の端でアドルフの様子を盗み見た。
アドルフは、全身に力を込め、何か自分だけの考えに沈んでいるようだった。
好敏は、ゴロス少佐に対し、アドルフが示した反応を思い返していた。アドルフは、オーストリアの現状に、酷く不満を感じているようだった。
まさか、妙な考えを弄んでいるんじゃないだろうな?
好敏はアドルフに対し「決して目を離さないようにしよう!」と決意していた。
そのアドルフは、顔を挙げ、好敏に目を向けた。
唇に、微かに笑いが浮かんでいる。
「あのう……」
おずおずと、好敏とカシムの間に話しかけるように、曖昧に手を泳がせる。
「僕、思い出したんです」
ぐいっ、とカシムが上体を折り曲げるようにして、アドルフに注目する。
「何を、思い出したんだね?」
「ハンス・シュミット氏が、撮影した、写真の場所を……」
「何っ!」
好敏と、カシムは同時に叫んでいた。




