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「徳川君、あれを見たまえ」
熊蔵が不意に話し掛けたので、好敏は、はっと顔を上げた。テーブルを挟んで、熊蔵が食堂の出入口を横目で睨んでいる。
好敏もまた、横目を使って、熊蔵の言う「あれ」を目にした。
食堂出入口の向こうには、広大なロシア平原が広がり、寒々とした景色が横たわっている。
四月半ばというのに、ロシアにはまだ春が近づいていないようで、木々は枯れ枝を寒風に揺らし、大地は黒々としている。が、白い雪はさすがに解け、空は高かった。
二人が食事のため休憩している食堂は、シベリア鉄道の一駅にある。明日はモスクワに入るという直前であった。
熊蔵の言う「あれ」とは、出入口近くに蹲っている、物乞いの親子であった。見るからに寒そうな、ぼろぼろの着衣に、足は裸足と来ている。
老人と思える男親に、伸び放題の金髪をした十歳くらいの男の子が、瞬きもせず、じっと食堂のテーブルの上に載せられた食事を見詰めている。
男親は六十代くらいと見えたが、実はまだ四十代にもなっていないはずだ。長年の飢えと、過酷な生活が、二十歳以上も歳を重ねさせている。
子供のほうは、十歳になったかならずか。だが、やはり飢えが子供の成長を阻み、恐らくは十五歳には達していると思えた。
「戦争には負けたくないものだな……」
熊蔵は、しみじみと呟いた。
日露戦争が終結したのは五年前。戦争は、日露両国に多大な戦費を消耗させたが、戦後の傷は、ロシア帝国に深刻な影響を残していた。
ロシア帝国が革命によって倒れ、ロマノフ王朝が歴史から姿を消すのは、この時点から七年後であるが、すでにロシアのあちこちに、予兆はあった。
好敏が堪らず、立ち上がろうとするのを、熊蔵は鋭く制した。
「徳川君。何をするつもりだ?」
言われて、好敏は押し黙った。無言で、握り拳を固める。
ゆっくりと椅子に座る好敏を、熊蔵は微かに哂って見詰めた。
「そうさ。施しをするのは、たやすい。しかし全ロシアに、あんな親子は五万といるだろう。一々同情して、片っ端から施ししていたら、幾ら軍費があっても追いつくまい……」
熊蔵の笑いには、嘲るような色があった。
時折ちらっと見せる、熊蔵が好敏に対する、挑発するような態度に、好敏は戸惑っていた。何らかの敵意……といって良いのか……。
好敏には、不可解な年上の同僚に対し、どう接するべきか、未だ、手探りの状態であった。
食堂の責任者らしき大男が、のしのしと横切り、鋭いロシア語の声調子で何か叫んだ。親子に「あっちへ行け!」とばかりに、身振りをする。親子は、大男の登場に、怯えたようにそそくさと、その場を立ち去った。
好敏は、親子の姿が視界から消えたので、ほっとした。途端に、自分の現在の感情に、一人で恥ずかしく思った。熊蔵が何と言おうと、自分はあの親子に施しをするべきだったと、今になって思ったのである。
テーブルに影が差し、柔らかなフランス語が耳に入った。
「日本のお方ですか……?」
見上げると、五十代半ばと思える、壮年の男が人の良い笑顔を見せている。身なりは質素であるが、フランス語を口にするところは、かなりの教養を思わせた。
ロシアの知的な階層にはフランス語、ラテン語、ギリシャ語などを解する人間が多い。男のフランス語には、ロシア訛りがあったが、好敏には充分に理解できた。好敏は今回のフランス留学のため、語学の特訓を受けていたのである。
熊蔵も同じだが、噂では八ヶ国語を解するとされている。
答えようとする好敏を、男は手の平で制し、ポケットから手帳と筆記具を取り出した。
「済みませんが、私は耳が悪く、聞くことは不便ですので、筆談でお願いできますか?」
好敏は頷き、男のために席を空けてやった。男は恭しい態度で、席に座った。相変わらず、にこやかな調子で口を開いた。
「不躾をお詫びいたします。私は教師をしておりまして、鉄道を利用する外国の方のお話を伺うのが楽しみなのですよ。ああ、申し遅れました。私の名前は、コンスタンチン・ツィオルコフスキーと申します」