4
どう言ったら、納得して貰えるのか……。
好敏は途方に暮れていた。
机の向こう側に、どっかりと座り込む、オーストリア王宮警護特別隊とか称する、秘密組織の男は、やたら頑固だった。好敏がハンス・シュミットについて、詳しい情報を知っているものと、頭から決め込んでいる。
好敏は話題を変えた。
「その前に、あんたの名前を聞かせてくれ。俺はまだ、そちらの氏名も聞かされてはいない。それとも、秘密かな?」
太っちょは、乾いた笑い声を上げた。
「肝っ玉の太い男だ! 逮捕されたというのに、平然と、名前を聞くとはね……。よろしい、教えて進ぜよう。私の名前はゴロス。ヴェルナール・フォン・ゴロスと、憶えておきたまえ。ああ、そうだ! ついでに教えておくが、私は少佐の階級を賜っている」
ゴロス、と名乗った太っちょの口調は、滑らかで、抑制の効いたものだった。相当に教養を感じさせ、時々、好敏のドイツ語レベルでは、理解しづらい単語が混じる。
「あ、あの……」
その時、それまで黙って突っ立っていたアドルフが、おずおずと口を開いた。
「ぼ、僕、どうして、連れて来られたんです? いきなり目隠しして、非道いじゃないですか! 今日の国立劇場での演目は、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』だったんですよ! どうしてくれるんです?」
ゴロスは、爆笑した。顔を真っ赤に染め、ひいひいと、喘ぐように笑っている。
「何と、ここにも大胆な若者がいた! こんな急場に、呑気にも、芝居を見損なったと抗議するとは! 実に愉快だ!」
好敏は口を開いた。
「そこの、アドルフ・ヒトラーという青年と会うのは、今日が初めてなんだ。俺は、あんたが持っている写真を渡され、調査をするよう命令された。ところが、ハンス・シュミットについては、丸っきり、情報がない! ウイーンにやってくるのも、昨日が初めてだ。あんたは、完全に、誤解している!」
ゴロスは、黒眼鏡を少しずらし、好敏を睨みつけた。笑いは、一瞬にして消えた。
スーツと同じ、灰色の瞳が覗く。ゴロスの目付きは、北海の氷山のように冷たく、厳しい。
「そんな与太が、信じられると思っているのか? 君はもう少し、ましな男だと評価していたのだが、当てが外れたね。それとも、情報部員らしく、手続きが必要かな?」
好敏の背中に。じんわりと冷や汗が流れた。
「何の手続きだ?」
「決まっているじゃないか? 拷問だよ!」
「ば、馬鹿な!」
好敏は情報部員などではない。陸軍大尉ではあるが、特に諜報について、訓練は受けていない。ゴロスが好敏に抱く、あまりの誤解に、好敏は絶句し、表情を変えることすら、できずにいた。
が、好敏の無表情は、さらなる誤解を、ゴロスに与えたようだ。
ゴロスは心得顔で、ゆっくりと顔を左右に振った。
「さすがだな! 拷問と聞いて、顔色も変えないとは! 確かに君に対し、苦痛を与えるのは時間の無駄だろう。しかし、自分が苦痛に耐えるのは平気だが、他人の苦痛を見て見ぬ振りは、できるかな?」
ゴロスは黒眼鏡を外し、ちらっと、部屋の隅に強張ったままのセーラを見た。
セーラは蒼白になった。
しかし、ゴロスの視線は、すっとセーラから外れる。新たに向けられた視線の先には、茫然と立ち竦むアドルフがいた。
アドルフは、ゴロスの視線に、がたがたと全身を震わせる。ゴロスの口許が嗜虐的に、にったりと笑み崩れた。
すっ、とアドルフの背後に、部下の一人が近づく。無言で、アドルフの腕を取った。アドルフは、触られると、感電したように、びくんと飛び上がった。
「い……厭だあ! 徳川さん、僕に、そんなこと、させないで下さいっ!」
ゴロスは好敏の顔を覗き込み、やんわりと話し掛けた。
「拷問について、知識はどの程度ある? 人間は、苦痛には驚くほど弱い。野生動物は、どんな酷い傷を負っても、悲鳴一つ上げず、黙って耐えるが、訓練を受けていない人間は、簡単に悲鳴を上げてしまう。それどころか、苦痛のために、ころっと死んでしまうことすら、あるのだ。たとえば……そうだな」
ゴロスは、たっぷりとした肉付きのいい、指先を立てて見せた。手入れの良い、爪先をしげしげと眺める。
「爪先に、ほんの少し、小さな針先を差し込む、などとはどうかな? 傷は目立たず、死にはしないが、信じられないほど酷い苦痛を与えられる。中々、優雅な方法だよ」
好敏は胸が悪くなった。
こいつは、真性の加虐性欲者{サディスト}だ! 拷問を語るゴロスの口調は生き生きとして、目には期待が煌いている。
アドルフを捕まえている灰色の部下が、腕を捻じり上げ、指先を無理矢理ぐいぐい開かせる。アドルフは、甲高い悲鳴を上げた。
「厭だ! やめてくれ! お願いします……僕、何にも知らないんだ……!」
ゴロスは「ちっ、ちっ!」と舌打ちして、眉を顰めた。
「全く、度し難い卑怯者だな! 私は少し、アドルフ・ヒトラーという若者についても調べたのだが、何と、奴は兵役拒否のために、浮浪者の中に混じっていたらしい……。何と言う、嘆かわしい話じゃないか。祖国への義務を、何と考えているんだ?」
ゴロスの言葉に、アドルフは猛然と抗議した。
「僕はオーストリアのために、兵役なんかに就きたくはない! 何がオーストリア=ハンガリー帝国だ! ドイツ人は、ドイツ人だけの国を作るべきだ! 今のウイーンを見ろ! ドイツ人は、ほんのちょっぴりしか住んでおらず、マジャル人、スラブ人、ユダヤ人がわさわさ、のさばっているだけじゃないか!」
ゴロスは答えず、部下に合図を送っただけだった。部下は無表情に、小さな針を取り出し、爪先に近付ける。
アドルフの顔が、見る間にびっしょりと汗で濡れた。




