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意識が、水面からぽかっと、浮かび上がるように戻ると、最初に飛び込んで来たのは、上から覆い被さるセーラの心配顔だった。
セーラの目と、好敏の目が合うと、セーラの瞳に、大粒の涙が零れた。
「良かった……気がついた……」
途端に、側頭部に、錐で刺すような痛みが爆発する。思わず「つつつ……!」と悲鳴を上げると、セーラが慌てて好敏の頭を撫で擦る。
「痛む?」
当たり前だ……と、言おうとした。だが、セーラの顔を見て、ぐっと我慢する。無言で好敏は、首を擡げた。
どうやら、民家の一室らしい。斜めに窓の光が差し込んでいる。ということは、地下室ではない。
いや、良く見ると、窓は、ほぼ、地面と同じくらいの高さに空けられている。つまり、半地下というわけだ。
セーラは床に膝を折って座り、好敏の頭を載せている。
好敏は、痛みを堪えて立ち上がった。セーラも好敏に倣う。
背筋を伸ばすと、即座に、くらくらっと、眩暈が襲った。辛うじて、我慢する。暫く、痩せ我慢で、平気な顔を装い、室内を物色した。
「ここは、どこだ?」
質問してセーラの顔を見ると、首を横に振る。
「知らないのか?」
セーラは頷くと「目隠しされたから」と答えた。それでも、好敏のように、訓練を受けた者なら、目隠しでも、どちら向きに動いているか記憶して、後で地図で照合できるのだが、セーラには無理な話だ。
窓は高い。が、手が届かないほどではない。
伸び上がって、爪先を掛けた。ところが、窓には狭い鉄格子が嵌まっていた。どうやら抉じ開けるのは無理のようだ。
窓の反対側に、ドアがあったが、まず鍵が掛かっていると見て良い。好敏は、最初から検討のうちに入れていない。しかし、ドアは木製である。いよいよとなったら、体当たりすれば……。
周囲を見回すと、がらんとした室内には、ほとんど何もない。いや、木製の古い椅子が二脚に、小さな机。多分、尋問用だ。
床を見ると、そこ、かしこに、何かが置かれた跡が、白く残り、日が差し込んだ場所は黄ばんでいる。多分、地下倉庫だったのを、大急ぎで荷物を片付け、二人の牢獄に充てたのだ。
天井には、配管が何本か走っている。恐らく、ボイラーや、水道の配管だ。
ふと、耳を澄ませる。
窓から、微かな朗誦の声。耳慣れない音階で、言葉は判らない。それでも、判らないなりに、好敏は推測をつけていた。
回教徒の、祈りの時間を告げる詠唱{アザーン}なのだ。回教徒は、一日に、朝と夕方、必ずメッカに向かって祈りを捧げなくてはならない。近くにモスクがあれば、そこで決められた祈りを捧げる。
そういえば、ウイーンには、セルビア人が多数住むという。セルビア人には、回教徒が多い。モスクは、ウイーンの民家を充てているのだろう。
かちゃり……、とドア方向から音。さっと視線をやると、ノブが動いている!
はっ! と好敏は身構えたが、ドアが開いて、姿を現した灰色の男は、手に銃を持って立っている。相変わらず、黒眼鏡を架けて、表情を隠していた。
見覚えのある、太っちょである。身長は好敏と大して変わらないが、体重は遙に上回っている。しかも、肥満のせいではなく、鍛え抜かれた筋肉が、そう見せている。
侮れない、相手だ。
太っちょは、好敏の身構えた姿を目にして、ゆっくりと頷いた。
「そう……、馬鹿な考えは無駄だよ。君が飛び掛ってきた瞬間、私は銃を発射している」
好敏は身体の力を抜いた。太っちょは、またまた、ゆっくり頷いた。
「そうそう、それで良い。少し、話し合いと行きたいものだね」
軽く、銃口を振って、室内の椅子と机を指し示す。
「座りたまえ。立ち話は好きじゃない」
好敏は、じりじりと太っちょを睨みながら、椅子に近づき、腰を下ろした。太っちょも椅子を引いて、向かい側に腰を下ろす。その間、一瞬たりとも好敏から銃口は逸れない。
気がつくと、ドアの向こう側には、同じような灰色の上下を身につけた男たちが、油断なく身構えて、銃を構えている。
全く、隙というものが、欠片もない!
「さて!」と、太っちょは椅子に腰掛け、少し背中を反らすようにして、腕組みをして笑いかけた。
「外交官特権とは、言ったものだね。君は確かに、日本政府の訓令を受けて、フランスへ留学しているが、正式の武官ではない。単なる、学生だ。外交官特権など、駄法螺もいいところじゃないか?」
「どこで、俺のことを知った?」
ようやく、好敏は、絞り出すように質問を投げ掛けた。太っちょは、わざとらしく、肩を竦めた。
「何、大使館に照会をしただけだ。ウイーンに滞在する、日本人について、正式に照会すれば、教えてくれる。当たり前じゃないか?」
好敏は食いついた。
「正式に? それじゃ、あんたらは、オーストリアの正規な部署だというのか。参考のため、聞かせて貰いたい」
太っちょは、あっさりと正体を明かした。
「王宮警護特別隊! それが我々だ。皇帝陛下の、宸襟を悩ます総ての相手を、我々が処理するのが、役目だ」
好敏は首を捻った。
「王宮警護特別隊など、聞いた覚えがないぞ。本当に、そんなものがあるのか?」
太っちょは、愛想良く頷いた。
「まあね……。一般には知られていないが、そういう部署があるというのは、君にもわかるだろう? 何でも、君は、本国では近衛隊とかに所属するそうじゃないか? 我々と、そう立場は違わないはずだ」
好敏は、この会話に虚しさを感じ始めた。顎を挙げ、両手をだらりと垂らして、物憂げに口を開く。
「俺に、何の話があるんだ? なぜ、腕尽くで、こんな所に連れ込んだ?」
「そうそう! 忘れていた!」
にこにこと零れんばかりに笑顔を溢れさせ、太っちょは拳銃を握っていないほうの手で、ポケットから一枚の写真を取り出した。
「これについて、君に尋ねたい」
太っちょの差し出したのは、好敏が肌身離さず、身につけていた古城の写真だった!
慌てて懐を探るが、当然、空っぽである。
「ハンス・シュミットについて、質問したいのだ。奴は、どこだ?」
太っちょの質問に、好敏は茫然となっていた。
「奴は、死んだはずだぞ! 俺は、そう、聞いている! なぜ、あんたらがハンス・シュミットを探している?」
太っちょの口許が、引き締まった。
「死んだ? 馬鹿な! そう、見せ掛けているだけだ! 我々の情報では、君と一緒に欧州へ来ていた日野熊蔵という男が、密かに接触しているはずだ。当然、君も、シュミットの情報を手にしている。この、写真が証拠だ! 隠すと、為にならんぞ!」
ばん! と大きな手の平で、太っちょは机を叩く。好敏を睨んだまま、片手の指を動かし、背後に合図を送る。
ドアの方向に動きがあって、好敏は視線をやった。
驚きに、好敏は弾かれたように椅子から立ち上がった。
おずおずと、背後の男たちから強いられ、室内に一人の若者が姿を現した。
痩せた、貧相な身体つき。蒼白な顔色に、青い瞳が、不安そうにきょときょとと、落ち着きなく視線を彷徨わせている。
姿を現したのは、アドルフ・ヒトラーだった!
太っちょは、冷然と告げた。
「この、アドルフ・ヒトラーという青年がシュミットの手先なのは、判り切っている。そのヒトラーと、君が接触したのだ。当然、君はシュミットについて、何か情報を握っているに違いない。これは論理的帰結というものだ! さあ、言うのだ! シュミットは、どこに隠れている?」
太っちょは、ドイツ系らしく、極めて論理的であった。が、その論理の前提は、完全に間違っている!
好敏は窮していた。




