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これから国立劇場へ、午前の部を観劇に行くという、アドルフと別れ、好敏はセーラと連れ立ち、宿へと足を向けた。
歩き出してすぐ、尾行に気付いた。
進行方向の、建物からさりげなく、一人の三十代半ば頃と思われる、スーツ姿の男が、ちらっとこちらを確認したのを、好敏は目の端で認めたのである。
素早い一瞥であったが、男は好敏の背後に、何やら合図を送ったようである。
好敏は、強いて無視を決め込む。
反対側の建物に嵌め込まれた窓硝子を見ると、確かに好敏の後から、目立たない、灰色の上下を身に着けた男が、忍び足に従いてくる。
腕を組んでいるセーラは、全然、気付いていない。
視線を前方に戻し、好敏は、口の端だけで、セーラに囁いた。
「尾行されている」
セーラがぎくりと強張り、後ろを振り返ろうとするのを、「振り返るな!」と、ぴしりと制する。
セーラは好敏の命令に、辛くも首を動かすのを、留めた。
「それで良い。真っ直ぐ、前を見ているんだ。普通にしていろよ」
「ど、どうしたら良いの……!」
囁き返す、セーラの語尾は、緊張に震えている。
「このまま、知らんぷりして歩くんだ! 俺は、ホテルには帰らない。途中で別れて、君は先にホテルへ戻れ」
「いやよ!」
好敏の指示に、セーラは憤然として拒否する。
好敏は、内心、呻いていた。
こうなるんじゃないか、と思っていた……。
俺を心配しているのだろうが、生憎と、セーラがピッタリくっついていては、お荷物である。
しかし、セーラは、組んだ腕をしっかりと抱え、一瞬でも離れようとはしない。
好敏は方針を変えた。
「判った。このまま、ホテルへ向かうぞ」
「でも、さっきは……」
「黙ってろ! 合図したら、走れ!」
口答えしようとするのを、おっ被せる。隣のセーラが、微かに怒気を発するのを感じるが、つべこべなど言わせない!
ホテルが見えてきた。
建物の脇に、好敏の二輪車が停まっている。
好敏は叫んだ。
「走れっ!」
ぱっと足を蹴り出し、猛然と走り出す。セーラも、好敏が叫んだ瞬間、弾かれたように足を挙げた。
背後で「あっ!」という、小さな叫び声を耳にする。やはり、尾行だったのだ!
走り出して、好敏はすぐ後悔した。
好敏はスーツの上下だが、セーラはドレスだ。たっぷりとしたスカートの裾が邪魔で、たくし上げても、早くは走れない。
ええい! 面倒だ!
さっとセーラの背後に回ると、そのまま腰を掬い上げ、抱き上げる。セーラは声も出せず、そのまま好敏の首に両手を回して、縋りついた。
たたたっ! と、通りを斜めに突っ切り、二輪車を目指す。
「乗れっ!」
抱き上げたセーラを、ぽいっ、と空中に放り投げた。
どすんっ、と大きな音を立て、セーラの尻が、二輪車の側車にすっぽりと嵌まり込む。
お見事!
ええと、こんな場合、何と言うのだったかな……?
そうだ、日本にいた時、愛読していた作家の押川春浪が、野球に夢中で、狙い通りに球を投げたとき、こう叫んでいたっけ。
ストライク!
いかん、馬鹿なこと、考えている場合じゃない!
好敏は、ひらりっ、と空中に飛び上がると、二輪車の座席に着地する。そのまま全体重を掛け、キック・ペダルを踏み込んだ。
ずばんっ! と快調な音を立て、二輪車の発動機は、一発で目覚める。
きっ、と背後に目をやる。
好敏の二輪車には、背後を確認する、側鏡は装備していない。そんなもの、必要ないと思っていたのだ。
さっきの灰色の男が、山高帽を目深に被り、まっしぐらに、こちらへ駈けてくる。懐から、何かを取り出した。
いけねえ! 拳銃だ!
好敏はアクセルを目一杯に噴かし、二輪車を発進させる。どどどっ、と逞しい音を立てて、二輪車の背後から、排気煙が吹き上がる。
「きゃあっ!」
セーラが悲鳴を上げ、側車で引っくり返る。両脚が天に向かって突き出し、スカートが捲り上がり、ズロースが剥き出しになる。
セーラは慌てて側車の手摺にしがみつき、怒りを込めて好敏を睨みつけた。
ぱんっ! と爆竹が弾けるような音がして、きゅーんっ、と甲高い音が、好敏の耳朶を突き刺した。
セーラは両目を目一杯、見開き、恐怖の表情を浮かべる。顔色が一瞬にして、青白くなる。俺だって、顔色を変えているはずだ。
背後を見ると、灰色の男は、片手を伸ばし、拳銃の筒先をこちらに向けている。筒先からは、紫煙が薄く、棚引いていた。空いた片方の手は、腰に当てている。
畜生っ、撃ちやがった!
あの構え……。片手を伸ばし、身体を横にするのは、前面投影面積を最小にして、撃ち返された時に、敵の弾に当たり難くする工夫である。
つまり、警察官……それも、特殊な任務に就く隊員の構えだ。
秘密警察……。
オーストリアには、そんな種類の、部署があると聞く。
灰色の男は、好敏が二輪車に跨ったの見て、さっと口に何かを咥えた。
ぴりりりりっ!
呼子だ。澄んだ音が、通りに響く。何かの合図か?
「どうすんのっ!」
セーラが叫ぶ。
しかし、好敏には、何の考えもない。衝動的に、追跡を振り切ろうと、二輪車に跨ったが、果たしてこれで良かったか、どうか。
進行方向を見ると、建物の路地から、一台の四輪車が飛び出してくるところだった。
好敏は、瞬時に、四輪車の特徴を捉えていた。
メルセデスの、一九〇九年製リムジン。マイバッハ六気筒発動機を搭載し、最高時速は八十㎞。塗装は闇のように黒く、座席には追跡してきた男と同じ、灰色の上下に、山高帽というお揃いのスタイルだ。
全員、顔の表情を隠すためか、黒々としたサングラスを嵌めている。
好敏は歯を食い縛り、アクセル全開のまま、体重を側車の反対に掛けた。
二輪車のハンドルを大きく右へ切る。急角度の旋回で、側車が一瞬、宙に浮く。
同時に後輪ブレーキを踏み込み、石畳の上でわざとスリップさせて、一瞬にして九十度方向転換を成し遂げていた。
そのまま、目の前にある路地へと飛び込んだ!
ウイーンの町並みで、二輪車と四輪車の追跡と逃走が始まった!




