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通りに出て、三人は歩きながら話した。
「僕が、独身者寮に住むようになる前、ウイーンで、放浪者用の救済施設に通っていたんですよ」
アドルフの告白に、好敏は驚いた。
「放浪者用の救済施設ですか。それは……、要するに収容所{ラーゲリ}ですか?」
収容所とはいえ、強制的に収容されるわけではなく、収入のない者が、夜間に宿泊するための施設である。であるから、昼間は追い出される。
アドルフは、好敏の問い掛けに、無感動に頷いた。
「ええ。僕は住む所もなく、ウイーンで放浪していました。野宿も経験しています。その時に知り合ったのが、シュミット氏なんです」
好敏は、改めて、アドルフという若者を見直した。ひ弱そうで、とても野宿など、できそうには見えない。
だが実際は、相当に過酷な生活を経験しているらしい。
ちらりと、通りを見渡すと、日溜りに、いかにも見窄らしそうな浮浪者が、絶望を顔に刻み込んで座り込んでいるのが見える。
そう言えば、ウイーンには、驚くほど浮浪者が目立つ。
オーストリア帝国が、ハンガリーと共同統治になってから、首都ウイーンには人口が流入した。これには、五年前の、日露戦争も影響している。
日露の戦いに負けたロシアは、関心を東亜細亜から、東欧諸国へと向けた。ロシアの圧迫により、バルト諸国から、オーストリアへと、人々が移動したのである。
ロシアの膨張に反発したのが、オーストリアであり、オスマン・トルコ帝国の革命騒ぎに乗じ、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合という事態を引き起こした。ドイツ皇帝ヴィルヘルムは、同じドイツ民族という誼で、オーストリア帝国を、背後から応援している。
バルカン半島は、ヨーロッパの火薬庫として、再び過熱し始めている。古くからの言い方に倣えば「暖炉には、充分な火が熾っていて、火掻き棒を突っ込むばかり」という状態になっていたのである。
リング通りを西へ歩き、ドナウ川沿いに広がるヴェトシュタイン公園で、三人は休息を摂った。
目の前にはドナウ川が駘蕩と流れ、日差しは暖かで、平和が満ち溢れている。しかし、ここでも、あちこちに浮浪者が虚ろな表情を浮かべて座り込んでいる。
木陰のベンチに座り、好敏は好奇心から、アドルフの身の上を聞き出した。会話を続けているうち、口調はつい、年下の相手に対する、ざっくばらんなものになる。が、アドルフは、全然気にしていないようで、好敏が軽い口調になると、会話も滑らかになった。
「いったい、君は、どうやって暮らしているんだい? 金は、どう稼ぐ?」
好敏の質問に、アドルフは、はにかんだような笑みを浮かべた。
「絵を売って生活しています。一つ、二クローネから、五クローネで売れます」
アドルフの答に、好敏は正直、驚いた。
なにしろ二クローネあれば、三食を満足に摂れる値段である。それなのに、見るからに飢えている様子なのが、全く解せない。
好敏が、その点を突くと、アドルフは昂然と胸を張った。
「国立劇場で、ワーグナーのオペラを観劇するためなんです。一番安い、立見席でも、二クローネしますからね。僕はワーグナーの作品を鑑賞するためなら、食事を抜いたって、平気です」
その時ばかりは、アドルフの態度は堂々として、人が変わったようだった。
セーラが、好奇心を剥き出して、口を開いた。
「あなたの絵、見せてくれない?」
「僕の、絵ですか?」
アドルフは全身で恥じらいを見せたが、それでもおずおずと、肩から提げている布袋を取り上げると、中から数枚の水彩画を取り出した。
明るい日差しに、好敏はアドルフの描いたという、絵を眺めた。
すべて風景画である。
緻密な筆致で、ウイーンに点在する名所旧跡が水彩画で描かれている。筆致は精細で、驚くほど克明に、煉瓦の一枚、一枚まで描かれている。
「写真みたい……」
セーラが感嘆の声を上げると、アドルフは頷いた。
「ええ、多くは、写真を参考にして、描いたんです。図書館で写真集を借りて、部屋で描いています」
好敏は首を捻った。
「しかし、絵描きってのは、写生のため、外でキャンバスなんかを広げるものじゃないのか?」
アドルフは頑なな態度になった。
「出掛ける暇は、ないんです。僕は図書館で、色々な本を読んで、勉強していますから」
好敏の好奇心が刺激された。
「勉強? どんな勉強なんだ」
「建築学です。僕は、建築家になるのが、夢なんです」
「へえ……」と、好敏は感心した。
「それじゃ、大学に通っているのか? 数学は、物理学はどのくらい進んでいる?」
建築家になるには、数学と、物理学の単位は必須である。好敏は工兵科として、それらの学科は学んでいた。
しかしアドルフは、不機嫌に首を横に振るばかりだった。
「そんな、まどろっこしいこと、僕はしません! 本で読めば、充分です! ほら、勉強の合間に、幾つか設計図を描いているんです」
アドルフは、慌しく、バッグから数枚の設計図と称する、図面を取り出し見せた。が、好敏の見るところ、設計図というより、空想上のスケッチとしか思えない。構造計算ひとつ、添付されていない設計図など、空虚な悪戯でしかない。
しかしアドルフの顔は、興奮に燃え上がっていた。夢見るような口調で、好敏に訴える。
「いつか、僕の設計で、故郷のリンツに新しい橋を架けるんだ!」
好敏は、アドルフのあまりの返答に、絶句してしまった。いったい、この青年は、どんな将来設計をしているのだろう?
アドルフの水彩画を、丹念に鑑賞していたセーラの手が止まった。
好敏の袖を引っ張り、注意を喚起する。
「これ……」
セーラの手許に目をやり、好敏は緊張した。
パリで、最初に手渡された写真と同じ、古城の風景が、描かれていたのである。




