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佐藤領事から示唆された「アドルフ・ヒトラー」なる人物は、まだ二十代初めの、若い男らしい。
住所は、ウイーン第二十地区、メルデマン通り二十三番地にある、独身者寮だ。十八歳以上で、低所得のために生活に困難を来たしている男子を対象にした施設で、当然セーラは入室などできない。
好敏はセーラと共に、日本大使館向かいにある「オテル・ド・フランス」に投宿し、着替えなどを済ませて、アドルフ・ヒトラーという青年に「面会を求む」という内容の手紙を出した。
手紙には「ハンス・シュミット氏について教えを請う」と書いた。ハンス・シュミットというのが、件の情報屋の名前である。
あきらかに偽名くさい。日本人で言えば、「山田太郎」とか「田中一郎」と聞こえる、平凡極まりない名前である。英語なら「ジョン・スミス」か。
すぐ返事が来て、翌日、宿の近くにあるカフェで面会する段取りとなった。
翌朝、好敏はカフェで、セーラと共に、アドルフ・ヒトラーの出現を待った。
カフェといっても、日本の喫茶店とは違い、軽食屋に近い。食事も出すし、ワインや、ビールなどの酒も出す。セーラと共に、好敏は朝食を注文し、ついでに、チョコレートを頼んだ。
欧州に赴いてから、好敏はすっかりこの飲み物に目がなくなった。日本に帰ってしまえば、口にできなくなるのが残念だ。
もっとも、日本には一八九七年、好敏の時点からすると十三年前に輸入が始まっているが、一般的ではない。
待っていると、カフェの入口に、貧相な身体つきの若者が現れ、店内を覗き込んでいるのを、認めた。
あれがアドルフ・ヒトラーという、青年であろう。身なりはきちんとしているが、服装は古ぼけ、あちこち接ぎがされている。
細面の顔に、うっすらと口髭を生やしていた。肩から大きな布地のバッグを提げているため、右肩が重さで、がっくりと下がっている。
好敏が立ち上がると、入口の手前で躊躇っていた青年は、ようやく決心が固まったと見えて、緊張した面持ちで店内に足を踏み入れる。
身長は好敏よりも少し高く、五尺八寸(一七五㎝)。髪の毛は短く、さっぱりとさせていて、丹念に横に分けている。瞳は青く、生真面目そうな印象を与える。
全体に栄養不足のようで、顔色はあまり良くない。
「ヒトラーさんですね。よろしく! 私が手紙を差し上げた、徳川好敏です」
好敏は、つっかえつっかえ、ドイツ語で挨拶した。
欧州に来てから、フランス語以外に、ドイツ語も習っていたが、あまり流暢ではない。それでも、ドイツ語の語彙は、ヨーロッパ言語の中では、少ないほうなので、日常会話くらいなら、何とかなる。
歩み寄り、右手を差し出すと、おずおずとアドルフ青年は握手を返した。何だか、酷く怯えて見えた。気弱そうな笑みを浮かべると、小さな声で返事をする。
「どうぞ、アドルフと呼んでください。友達は皆、そう呼びますので」
席に案内すると、先に座っていたセーラの存在に、驚きの表情を見せた。女性の同席は予想していなかったと見える。
「セーラ・リリエンタール嬢は、私のドイツ語の拙い部分を補ってくれるため、同席を願っております。よろしいですか?」
セーラは、すい、と立ち上がり、右手をアドルフに向かって差し出す。アドルフは、即座に茹で上がったように、真っ赤になって、それでも指先だけで、セーラの手を取った。
離すときは、火傷したかのように、大慌てで引っ込める。どうやら、女性が、とことん苦手らしい。
席に着くなり、アドルフは全身で飛び込むように、せかせかと口を開いた。
「あ、あの……。シュミットさんについて、僕に何か尋ねたいと、手紙にはありましたが……。な、なぜ、シュミットさんを調べているんです?」
「その前に、何かお食べになりませんか? 奢りますよ」
好敏は、アドルフの気分を解すため、提案した。アドルフは、ぎょっとしたように、両目をぐりぐりと見開く。
「そ、それでは、お言葉に甘えて……」
アドルフの注文したのは、トーストとミルク、卵料理、それにサラダだった。肉は頼まない。
問い掛けるような好敏の表情に、アドルフは「僕は菜食主義なので」と説明した。
食事が来ると、アドルフは大急ぎで平らげた。かなりの空腹を堪えていたらしい。
アドルフの表情が和らいだのを見据え、好敏は質問に答えた。会話中、好敏の言い足りない所を、セーラが素早く補う。
「詳しい理由は明かせませんが、ハンス・シュミット氏が持ち込んだ情報に、日本軍は非常に興味を覚えております。言い忘れましたが、私は日本陸軍において、大尉を勤めております。シュミット氏が接触してから、不幸にも死去してしまい、我々は当惑しているのです。ですから、氏と懇意にしていたあなたに、事情を聞きたいと思いまして。御協力、いただけますか?」
好敏の説明に、アドルフはごくりと、唾を呑み込んだ。きょときょとと周囲を見回し、哀願するかのように、口を開いた。
「そ、その前に、場所を替えませんか?」
好敏が片方の眉を上げて見せると、耐え切らないといった様子で、言い添える。
「ぼ、僕は、煙草の煙が嫌いなんです! 胸が悪くなる……」
成る程、カフェには、好敏のほか、数人の男性客が腰を据えていたが、葉巻や、紙巻煙草を咥え、すっぱすっぱと、壮んに紫煙を吐き出している。そのため、店内は、薄く、煙が棚引いて見えた。
好敏は頷くと、立ち上がり、勘定を済ませた。
セーラは「私も、煙草の煙は大嫌い!」とアドルフに賛同する。
好敏は苦笑いした。好敏は愛煙家で、しばしばセーラに「禁煙しなさい!」と忠告されているのだ。




