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佐藤領事の言葉に、好敏は頷き、口を開いた。日露戦争当時、上海で情報任務に就いた経験から、好敏は事前に、オーストリア=ハンガリー帝国の政治情勢については、充分に把握していた。
「判っています。今のウイーンは、一触即発の状況にあるのでしょう?」
セーラは、好敏の真剣な口調に、顔を青褪めさせた。
「あのう……何を言ってるの?」
「継嗣問題だよ」
好敏は、セーラに向けて、言い聞かせるように説明を始めた。
むしろ、ここまで従いてきたセーラに対し、状況の深刻さを理解させたいという、願望が混じっている。できたら、このままパリへ帰還したいと思わせられたら、良いのだが。
「フランツ・ヨセフ一世の跡継ぎには、ルドルフ皇太子が決まっていた。ところが、謎の死を遂げた。暗殺説が流布されているくらいだが、真相は闇の中だ。替わって継嗣順位の一位に繰り上がったのが、甥のフェルディナント大公だ。しかし大公は、貴族ではなく、平民の娘と結婚したことにより、伯父、ヨセフ一世の不興を買っている。政治路線も、ヨセフ一世とは違い、親スラブで、ハンガリー嫌いと来ている」
オーストリア=ハンガリー帝国という呼び名の通り、帝国内のドイツ人の人口は四分の一以下に過ぎない。ドイツ系以外の他民族が力を持つに連れ、ドイツ系は特権的な地位を確保するため、ハンガリー(マジャル)人と手を組んで、政治的優位を確保した。
これが《アウスグライヒ》と呼ばれる体制で、次期国王と見做される大公が、ハンガリーに対して好意を持っていないというのが、ヨセフ一世にとって、実にまずい状況だったのである。
セーラは、好敏の説明に、ぽかんと口を開いたまま、まじまじと瞬きもせず、見つめ返している。
好敏はセーラが、まるっきり、理解していないのを悟った。
「つまり、伯父さんと、甥っ子の仲が悪い、ってことさ!」
ようやく、セーラは頷いた。
「ふーん……。それで、何が危ないの?」
そこで、佐藤領事が身を乗り出して、好敏の説明の補足に努める。
「つまりですな、お嬢さん。伯父さんと、甥っ子の仲の悪さを利用しようとする輩が、ウイーンで暗躍しているのですよ。皇帝一族はマジャル人と手を組んでいるのですが、ボヘミア人、スラブ人、ユダヤ人などは、反発を強めています。ウイーンでは、誰も信用できません。現に……」
佐藤領事が言い掛けたので、好敏は最も肝心な質問を思い出した。
「そうそう、日本に情報を提供していた人物が殺害された、と聞いていますが」
佐藤領事は顔を顰めた。唇がへの字に曲がり、大袈裟に眉が上がり、額に皺が寄る。
「殺害されたかどうか、まだ未定なのです。警察は、判断を保留しておりますからな」
好敏は首を傾げた。
「どういうことです?」
「捜査が進んでおらんのです。何やら、途中で妨害があったようで……」
「ふーむ……。それは面妖ですな!」
好敏は腕を組んだ。領事の口振りでは、まるで、すでに、迷宮入りしたかのような印象を与える。
「妨害とは、どのような?」
領事は、強く首を横に振った。
「言いたくありませんな!」
恐らく、上層部からのお達しなのだろう。誰か、タレコミ屋の捜査を邪魔したい、権力者がいるのだ。
それを、おおっぴらに口外すると、領事の立場が悪くなる、という構図だ。
好敏はゆっくり、頷いた。
「判りました。しかし、自分が独自の調査をするのは構いませんな? ああ、言いたいことは判ります!」
好敏は安心させるように、領事に向かって手を挙げた。
「佐藤領事閣下におかれては、知らぬ存ぜぬを通して頂ければ、よろしい! 自分は、単に、表敬訪問をしたに過ぎませぬ……」
領事は、正直に、心配そうな表情を浮かべた。
「気をつけてくださいよ。貴官が捜査をするのを、快く思わない連中がいるかもしれません」
セーラは不安そうな口調になった。
「好敏さんが、危ない目に遭うかもしれない――と言いたいんですの?」
佐藤領事が頷くと、ここぞとばかりに、好敏はセーラに忠告をする。
「俺一人なら、何とでもなる! なあ、セーラ。君は、やはり、パリに帰ったほうがいい。今なら、まだ間に合う。巻き込まれるぞ!」
セーラは、つん、と顎を上げた。
「いいもん! あたし、好敏さんが危険な目に遭うとき、のうのうと、パリになんかいたくないわ!」
やれやれ……。説得は無駄なようだ……。
好敏は両手を挙げて見せた。
二人の遣り取りを呆気に取られて見ていた佐藤領事は、何かを思い出した様子だった。
「徳川君の調査の件です。手懸りになるかどうか、判りませんが、問題の情報提供者は、懇意にしていた友人がいたそうです。まずは、その人物に接触を図っては?」
勢い込んで、好敏は領事に質問をした。
「その人物の名前は?」
佐藤領事は、ポケットから覚書を取り出し、眺めて答えた。
「アドルフ・ヒトラーという青年です」




