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ウイーン市街に入ると、街路で、楽団がワルツを演奏しているのに出会った。世紀末から二十世紀にかけ、ウイーンではウインナ・ワルツが大流行を見せている。
街路で演奏している楽団も、有志の集まりで、街のあちこちで、同じような光景が繰り広げられている。
音楽を楽しむ市民は、様々な人種で構成されている。明るい金髪と、青い目のゲルマン系、高い鷲鼻を持つユダヤ系、アジア人と見紛う、スラブ系など。
ウイーンは、オーストリア=ハンガリー帝国各地から参入する様々な人種が集まる、国際都市であった。
一九一〇年の人口統計では、ウイーンの人口は二百三万人。堂々たる、大都会である。
愛用の二輪車を街路に停め、好敏はショッテントーア駅から、リング通り沿いにある、日本大使館に足を向けた。
「疲れたろう」
好敏が気遣いを見せると、セーラはそれまで被っていた飛行帽を脱いで、髪の乱れを気にしている。頬は火照り、好敏に向かって否定の意味で、首を横に振った。
「いいえ、ちっとも!」
元気良く答え、ニッコリと笑った。
さすがは女だてらに、ファルマン飛行学校に入学するくらいだ。好敏は、セーラのバイタリティに、正直かなり舌を巻いていた。
日本大使館の向かいには「オテル・ド・フランス」が聳えていた。世紀末洋式で建てられた、優美な建物である。大使館には、滞在のため、予約を頼んでいるから、今日からは「オテル・ド・フランス」が定宿となる。
大使館のドアを開け、好敏が内部に踏み込むと、受付の館員が顔を上げた。
四十がらみの、厳つい顔立ちをした中年男で、ばりっとしたスーツを着込み、薄い髪の毛をぴっちりと横に撫で付けている。
「何か?」
中腰になって、不審な表情を浮かべている。飛行帽に、革の上下、おまけに白人の娘を連れ立つという、好敏の姿を咎めている。
謹直な性格らしく、スーツでない好敏の格好に、忌々しげな視線を向けていた。
「帝国陸軍工兵連隊所属、徳川好敏大尉であります! 佐藤愛麿{よしまろ}領事閣下に面会の約束がありますので、参上いたしました!」
好敏が踵を打ち合わせ、さっと敬礼して高々と名乗りを上げると、がくりと館員の顎が下がった。
「そ、それは失礼……。す、すぐ、領事閣下に連絡いたしますので……」
慌てて立ち上がり、あたふたと奥へと消えた。
好敏の「徳川」という名乗りが効いたのだ。明治四十三年という時代でも、維新前の徳川家の威光は、重い意味を持つ。
再び先ほどの館員が戻ってきて、丁重に好敏とセーラを案内した。今度は、恭しいといっていい態度に豹変している。
長々と伸びた廊下には、所々ランプが点っている。廊下の天井や、柱には、重厚な装飾が施されていた。
館員は、廊下の突き当たりのドアの前で立ち止まった。
「ここで御座います」
好敏は礼を言って、ドアを押し開けた。
入ってすぐ、床に延べられた紺地の絨毯が目に入る。クリーム色の壁に、書類棚。天井にはシャンデリアが下がり、窓を背にして紫檀のテーブルがどっしりと据えられていた。
窓のカーテンは開け放たれ、背後の光を背にして、五十代半ばと思われる、男が書類に目をやっていた。これが佐藤領事であろう。
ちらっと目を上げ、書類から目を離し、領事はテーブルを回って好敏に近づいた。
「やあ、君が徳川大尉か。話は、本国から聞いている。大変な任務を仰せつかったものだな」
言葉には、ほんの僅か東北訛りがあった。安政四年の生まれというから、年齢は五十三歳となる。質朴な顔立ちに、人の良さそうな笑顔を溢れさせていた。
「徳川好敏大尉であります!」
好敏が再び敬礼をすると、佐藤領事は「まあまあ」と手を振って、まずセーラに向かって応接セットに手をやった。ちゃんと、レディ・ファーストを心得ている。
三人が向かい合わせに座ると、さっき好敏を案内してきた館員が、茶の用意を盆に捧げ持って入室してきた。
持ってきたのは、緑茶である。
好敏と佐藤領事の前に手早く茶碗を置くと、セーラの前でちょっと躊躇いを見せた。
「このお嬢さんは、緑茶も嗜む」
好敏が説明すると、館員はセーラの前にも茶碗を置いた。セーラは「有難う」と好敏から教わった日本語で礼を言うと、茶碗を手にして一口啜る。
館員は一礼をして引き下がる。
三人だけに戻ると、領事は好敏に向かって口を開いた。セーラが理解できるよう、フランス語だった。
「君、まずい時に、ウイーンに来たものだな」
佐藤領事の第一声は、好敏を緊張させた。




