あるラーメン屋の物語
あるラーメン屋の物語
宮瀬 和樹
「暇だなァ、一人も客が来やしねェ。こう暇だと、手持ち無沙汰でいけねェや」
いつからだろう? こんなに客が来なくなったのは……荘平は煙草をくわえながら、店内を見回した。天井の隅には二、三匹クモが巣を張っている。ビールのポスターが剥げかけて、風にパタパタ翻る。今日はまだ一人も客は来ていない。最後に来たのは、確かおとといだったか……はやっていた頃なら、たとえどんなに忙しくても、気がつけばすぐにクモの巣を払ったものだ。けれど客が来なくなり時間がいやというほどできた今、ほったらかしのまま、かえってぞんざいになってしまった。暇だなァ……
「おい、静江」
荘平は店の奥に向かって声をかける。
「ちょっと画鋲を持ってきてくれ」
しかし女房の返事はない。
「トイレか? 仕方ない」
自分で引き出しの中をかき分け画鋲を見つけると、剥がれたポスターを貼りなおす。水着を着た若い女が、ポスターの中でジョッキを持ちながらにっこり笑っている。
「お前は気楽でいいよな。そうやって笑っていりゃァいいんだから。何の心配もいらねェ」
荘平は愚痴をこぼすと、竹箒でクモの巣を払った。
いつからだろう……イスに腰かけ荘平は再び自問する。しかし同じ質問を何百回繰り返したところで、答えが今さら変わるわけがなかった。あのときからなのだから。原因は初めからはっきり分かっている。すべてはそう、あの忌々しいバイパスができたせいなのだ。今からちょうど五年前、大げさにもったいつけた開通式当日の様子を、ついこの間のことのように覚えている。
県庁から遠く離れた、静かな山間の集落だった。山の斜面やわずかな平地を利用して、田畑が点在していた。大きな働き場はなく、若者たちは仕事を探しに都会に出て行った。
戦後一時期、養蚕が盛んに行われた。あちこちの畑で桑が作られ、夏から秋にかけ青々と茂る葉の間につぶつぶの実がなって、子供たちは手や口のまわりを赤黒く染めながら摘んでは食べた。冬には枝を短く切り詰められた桑の木は、地面からげんこつのような姿を突き出し寒風に吹きつけられた。製糸工場が建てられ人が集まって活況を呈した。しかし勢いは長くつづかなかった。じき、ナイロンなどの合成繊維は普及するし、絹の需要は低迷するしで、養蚕は急速に衰退していった。工場は人員を削減しながら規模を縮小し、何とか操業をつづけようと模索したが、ある年とうとう閉鎖され取り壊されないまま廃墟となって無惨な姿をさらした。今ではかつての桑畑は荒れ果て、子供たちは、誰も実を摘んで食べることも蚕を見ることもなくなった。
役場は村おこしで広くアイデアを募った。寄せられたのは温泉センター、レジャーランドなどどれも似たり寄ったり、ありきたりな発想ばかりで、魅力に欠けていた。どこにでもあるありふれた施設では客は呼べない。斬新さが必要だったが、しかし村役場は村長を筆頭に全員が、寄せられたアイデアと同じくらいに凡庸な頭脳の持ち主ばかりだった。東京の企業からの出資を取り付け、原始人のテーマパークを作ろうという話になったが、運悪くバブルがはじけ計画は頓挫した。
そんなわけでどこの田舎とも同様に過疎化は進み年寄りが残った。けれどみんなあくせくしないでのんびりと暮らしていた。ゆっくりと時間が流れていった。
隣町には古くからそこそこ名の知れた温泉があり、一年を通じて少なからず観光客でにぎわっていた。温泉街に通じる道は一本しかなく、その街道に面した荘平のラーメン屋は、行き返りの客で、行列ができるほどとは言えないまでも、子供のいない夫婦二人で食べていくには充分な利益を上げていた。毎朝七時に起きラーメンの仕込みをし、十一時に店を開け、三時から五時まで一休みして、また五時から十時にのれんを下ろすまで、判で押したような仕事に精を出し励んだ。お茶をくみ客の注文を聞き、ねぎを刻んでラーメンを茹でる……それが生活だと思っていた。体が動く限り、そんな生活がつづくとぼんやり思っていた。
ところが、生活の一変する出来事が起こった。バイパスの建設であった。原始人のテーマパークの失敗で村長が交代してすぐのことだった。
最初その話を耳にしたとき、村の人々は期待で胸をふくらませこう語り合った。
「交通の便が良くなりゃ、人が増えるさ」
「これでまた昔みたいに景気が戻ってくるかね」
「そうに違いない」
一方、知り合いの中には自然が破壊される、騒々しくなる等々の理由を挙げて反対する者もいるにはいた。こう言った。
「何ばかなこと言ってる、道を作るってこたぁ、木を切ったり山削ったりすることだぜ。そんなことしてどうなるか分かっているのか?」
「だまされているだけだ」
「コンクリートとアスファルトで地面をおおって何がいいもんか」
「自然は人間だけのものじゃねえ」
彼らはたいていバードウォッチングであるとか、山野草の栽培、あるいは風景写真を趣味としていた。人付き合いが悪く変わり者が多かったので、そんな好事家の戯言に耳を傾ける者は誰もいなかった。町挙げての推進運動が盛り上がり、ごくごく少数派の反対意見はあっさり押し切られた。荘平も当然のことと思った。建設反対など不可能だった。
建設が始まると、大型ダンプが行き交い町はいっぺんに活気づいた。荘平のラーメン屋も例外ではなく、よそから来る多数の作業員たちで連日満員だった。目の回るような日がつづき、今までの数倍の売り上げがあった。
しかしそんな状況に、バードウォッチャーやアマチュアカメラマンたちは苦々しい思いで舌打ちした。
「長つづきはしないさ」
「自然破壊のつけがいつか必ず回ってくる」
彼らは皮肉と憎しみを込め言った。事実、散歩を日課としていた老人が一人、大型ダンプに引っかけられた。幸い大事には至らなかったものの、老人たちはおちおち散歩をすることもできなくなった。親は子供に、道路で遊んでは絶対だめ、と厳しく言いつけた。道端には投げ捨てられるごみが山とたまった。反対派はしたり顔で言った。
「ほら見たことか」
「言わんこっちゃねえ」
「これからもっとひどいことも起こるぞ」
しかし町の人々のほとんどは、それら陰の部分は見ないことにした。日向にばかり目を向けた。
開通式の式典には村長を始め、隣町の観光協会のお偉方が全員席を連ねた。村立小・中学校のマーチングバンドが繰り出し、華やかに盛大にとり行われた。列席者の顔つきに、彼らの欲深さのほどが窺い知れた。
確かにバイパスが開通したことで隣町への観光客は二十五パーセント増え、旅館の収益も二十パーセント増加したのは事実だった。旅館組合の理事たちは笑いが止まらず、毎週のように訪れる外車のセールスマンから高級車を買い、若い女を乗せて走り回った。
ところが、一人荘平のラーメン屋だけはバイパス開通の分け前にありつけなかった。ありつけないどころか、しっぺ返しを食わされた。観光客のほとんどすべてが新しくできた太く一直線のバイパスを飛ばし温泉を目指したことで、旧道になってしまった荘平の店の前を通る車は、ほぼ皆無になったのだ。売り上げ増を見込んだ彼の思惑は、完全に裏切られた。
荘平のラーメン屋にとってバイパスは、文字通りバイパスとなった。彼はその言葉の意味をそのときになり始めて知った。そして同時にその結果も痛感した。しかし知ったときにはすでに手遅れだった。冷静に考えてみれば当然のことで、もっと早くに気がつくべきだった。
今さら反対運動を始めたところで元には戻れない。あのとき、建設反対を唱えた好事家たちをばかにした愚かな自分が恨めしかった。影響をいっさい教えず、自分をないがしろにした行政当局が呪わしかった。
売り上げはいっぺんに十分の一にまで落ち込んだ。もちろん工事が終われば作業員たちは全員が引き上げ、のれんをくぐるのは時折、道を間違えた間抜けた湯治客くらいのものだった。道を尋ねるついでにラーメンを食べていってくれるのはいい方で、中には道さえ分かれば礼も言わずにさっさと立ち去る恩知らずもいた。荘平は愚痴をこぼした。世知辛い世の中になったものだ。昔は人の心に、もっと人情というものがあったのに。
荘平は、古き良き昔を思い出す。確か、こんなこともあったな。品の良さそうな両親と、大人しい姉妹の親子連れの客が来て、ラーメンを注文した。温泉からの帰り道らしかった。長年やっていれば聞かなくても行きか帰りかの区別はつく。食べ終わった後で、彼らは財布を落としたのに気がついた。ハンドバッグも車の中も、さんざん見つけたが結局見つからなかった。どこで落としたのかも分からない。あるいはすられたのだろうか。心配する子供の前で、母親があまりにおろおろするので気の毒に思い、荘平は全部無料にし、子供のジュース代にと言って少しばかりの金も貸してやった。それでは申し訳なさすぎる、と断る父親に、いつかまた来たときに返してくれればいいと見送った。返してもらえるのを期待したわけではなく、情けは人のためならずさ、と静江と話したものだったが、半年後すっかり忘れた頃になって一家揃って再び食べに来てくれた。貸した金と、それに手土産を持って。姉妹でお揃いのお下げ髪と、真っ赤なワンピース姿が記憶に残っている。あの子達はどうしているだろう。もうとっくに結婚して子供もいるに違いない。きっといいお母さんになったことだろう。昔は良かった。荘平は思い出にひたった。今は薄情だ。しかしもちろん、昔だって食い逃げされたことの二、三回はあった。ただ忘れているだけで。
湯治客ばかりではなかった。昔からの顔馴染みも初めのうちは気の毒に思い、様子を見に食べに来てくれていたが、それも、バイパス沿いに新しくできた大型のチェーン店が出すラーメンがうまいという評判が広がるにつれ、足が遠のいた。都会の洗練された大型店に、田舎の個人経営が、太刀打ちできるはずがなかった。洒落たきれいな店構え、広い駐車場、空調の利いた明るく清潔な店内、若く元気なウェイトレス、豊富なメニュー、若者好みの味付け、どれをとっても、比べることじたい土台無理だった。
どうしてこんなに客が来なくなっちまったんだ、荘平は何百回目かの質問を自らに向けて発した。
店の奥からは、テレビがボリュームを上げてお笑い番組を流している。
「また静江のやつ」
荘平が勢いつけて襖を開けると、女房は畳に寝転がってせんべいをかじっている。いつからこんなにだらしなくなっちまったんだ。昔はもっと働き者だったのに。女房のでっぷりとたるんだ背中を見降ろしながら、荘平は怒鳴りつける。
「仕事をしろ」
しかし女房は振り向くこと一つせず、せんべいを口に運んでは笑えないお笑い番組を見つづける……ボリボリボリ、ゲラゲラゲラ……
荘平は腹を立てる。コタツの上の灰皿に思わず手を伸ばし振り上げる。誰かのどこかの土産物のその灰皿は分厚いガラス製でずっしり重く、充分な手応えがある。破壊力は相当なものだろう。思い切りぶつけてやろうか……でも、どこに?……後頭部は?……どんな音がするだろう?……ガキッ?……ボコッ?……ベコッ?……骨が折れ血が出るだろか?……怖いな。やめておいた方が良さそうだ。じゃあ、テレビ、テレビだったらどうだろう?……ブラウン管にぶつけたら、粉々に砕け火を噴くだろうか?……テレビがなくなったら、きっとせいせいするに違いない。下らないお笑い番組など見なくてすむようになる……でも、後片づけが大変だ。ガラスの破片をはき集めて、粗大ごみに出さなくてはならない。いや、今はリサイクル法で回収は有料になったのだったか。苦労して貯めた金で買ったテレビを自分でわざわざ壊して、しかも始末するのに金がかかるなど愚かしいのにも程がある。
荘平はこみ上げた怒りを飲み込んで思いとどまり、いったんは振り上げた灰皿だったがコタツに戻すと、代わりにリモコンを握りテレビのスイッチを消した。女房は肉のだぶついた顔を振り返らせ言った。
「何すんのさ?」
「何すんのさ、じゃないだろう。仕事中だぞ」
「仕事中? お客なんて来ないじゃない」
「来るさ」
「影も形も見えないわよ。だいたいいくら赤字がたまってんのか知ってんの? あんた」
「知ってるさ」
「じゃあラーメン屋なんかやめて、田中さんとこで働いたらどう。あたしも工場にパートに出るからさ」
「だめだ」
「だってこのままじゃ本当、食べられなくなっちゃうわよ。今はまだ貯金があるからいいけど、それもいつまでもつづくわけないし、せっかく田中さんが仕事を世話してくれるって言ってんだから。ここでこうしていたって時間の無駄だよ」
「無駄じゃない。商売はつづける」
「お客なんて、みんなバイパス通って行っちゃうんだもの、こっちに来やしないよ。バイパスにはでっかいラーメン屋ができちまうしさ。うまいって評判じゃないか。山田さんなんか週に二回は食べに行ってるって。それに先月にはトンカツ屋もできたし。知ってる? 今度は回転寿司ができるって話。斎藤さんの土地を貸してくれって不動産屋が頭下げに来たんだってさ。あたしらが今さら向こうに店出したって遅いし、このままこっちでつづけるよか、いっそのことこの辺できっぱりやめた方が利口だよ、あんた。それとも何かい、積極的に客引きでもしようってのかい?」
「客引き? どんな」
「だからさ、あたしがバニーガール姿で店の前に立つとか」
「気色悪いこと言うな」
「それともノーパンラーメンにするとか。あたしなら別にかまわないんだよ、ノーパンやったって」
「バカヤロー、冗談にも程がある。五十すぎたお前みたいなバアさんのノーパンなんて誰が見るか」
「やってみなきゃ分からないわよ」
「目が腐る。おぞましい。かえって客は寄りつかなくなっちまう」
「ハッ、どっちにしたってお客なんて来ないわよ」
「いや、そんなことしなくったって客なら来る」
「来る来るって、クルクルパーじゃあるまいし、いつ来るって言うの?」
「来週には、団体客が大型バスで押しかけて来る」
「そんな夢みたいなこと言って」
「本当だ」
「じゃあ、もし来なかったらどうするの?」
「そのときは俺も男だ、やめる」
「本当? 本当に本当? いやに潔いけど」
「ああ」
「約束する?」
「する」
「絶対?」
「絶対だ。その代わり、客が来たら商売はつづけるからな」
「いいとも、あたしも女だ」
「文句は言わせねえぞ」
「あんたもね」
話の行きがかり上、荘平はそう約束するしかなかった。しかし、ただの夢だけでないのもまた事実だった。彼にはある考えがあった。
夜眠れずに、どうしてこんなに客が来なくなってしまったのだろうと、何百回目かの問いを発したとき、その考えは頭に思い浮かんだ。すべてはあのバイパスのせいだ。あのバイパスさえなかったら……あのバイパスさえなかったら、観光客は店の前の道を往復し、行きに帰りにラーメンを食べに寄ってくれていた。そうすれば昔のままの毎日がつづいていたのだ。ラーメンの仕込みをし客の注文を聞き、ねぎを刻みどんぶりを洗う、代わり映えのない生活かもしれないが、平穏な暮らしが保障されていた。贅沢をしなければ生活するのに充分な収入があり、だいいち、女房といがみ合ったりあれこれ思い悩んだりする必要などなく、ただうまいラーメンを出すことだけ考えていればいいはずだったのに。なぜ、顔を合わせれば女房とケンカしなくちゃならない毎日になっちまった? 俺たちがいったいどんな悪いことをしたというんだ? いったい何のばちが当たって俺たちがこんな目にあわなけりゃならない? うまいラーメンを客に食べさせることがいけないことだとでも言うのか? バイパスができたばっかりに、俺たちだけがこんな辛い思いをしなけりゃならなくなった。すべてはあのバイパスのせいだ。ほかのみんなはバイパスのおかげでいい思いをしている。旅館組合の連中は、今度アメリカのラスベガスだとかに行ってくるそうだ。どうせ酒に博打に女に、羽目をはずし、しこたま金を使ってくるんだろう。それなのに、なぜまじめに働いていた俺たちだけがばかを見る? 誰のせいだ? きっと観光協会や土建屋たちが私腹を肥やすために、村長に賄賂を贈ってバイパスを作らせたのに違いない。とんでもない悪党どもだ。しかしどうして連中をもうけさせるために、俺一人がこんな貧乏くじを引かなくちゃならない? 俺は悪いことなど一つもしてない。税金だってちゃんと納めている。町内会の清掃だって毎月欠かさず参加している。なのになぜ俺だけこんな仕打ちを受けなければならない。連中に俺を苦しめる権利などあるはずがない。すべては連中の欲にまみれたあのバイパスのせいだ。あんなバイパスなどなくなってしまえばいい。考えれば考えるほど悔しい。バイパスなんかのために、暮らしを踏みにじられてたまるか。いっそのことぶっ壊してしまおうか。人を頼まず、自分の生活は自分で守らなければならない。ほうっておいてもなくならないのなら、そうだ、やってしまえ。俺のこの手でもって、爆破するのだ。
もちろん初めは一時の勢いに任せたただの思いつきで、実行などする気はなかった。そんな大それたことができるわけないのだから。テロなどニュースの中の出来事だ。自分で爆破などせず、できれば、手抜き工事かなんかで橋げたが崩落でもしてくれればいいのに。それだったら新聞にもよく出ているだろう。たとえば、新幹線のトンネルの壁面が剥げ落ちたなんて話が。だとすれば、あのバイパスだって、きっと同じような手抜き工事がされているに違いない。コンクリに、潮気をたっぷり含んだ海砂が使われ鉄筋がぼろぼろだとか、基礎の土台に飲み捨てられた空き缶やらごみやら、ホーキにチリトリやらまでが埋められているだとか、ボルトがはずれていたり半分しか締められていなかったりだとか。そのうちコンクリートが崩れるか、土台が沈下し傾くだとかするんじゃないか。多分そうだ、絶対そうなるに違いない。
どうせ欲にまみれた連中のすることだ、自分たちが金儲けさえできればそれでいい。手抜きできるだけ手抜きして、浮かした経費を懐に入れようってあくどい魂胆なんだ。後はどうなったって知ったこっちゃないんだろう。そのことでどんなに他人が迷惑をこうむろうが、自分には関係ないんだろう。むしろ他人の不幸が面白いんじゃないか。そんな人間どもの作った道路だ、絶対に潰れるに決まっている。
だったらその前に、俺がぶっ壊しちまっても早いか遅いかの違いだけでかまわないんじゃないか。何しろ俺には生活がかかっている。一刻を争う事態で急ぐのだから。一日だって早いほうがいい。自分の生活は自分の力で守ってみせる。バイパス建設の犠牲を強いられているのはこの俺だ。耐えつづけなければならないいわれはない。いつまでも被害者のままでいられるか。逆境をはね返してやる。遅かれ早かれ手抜き工事で崩れるのなら、俺の手で壊してやれ。開発に名を借りた悪徳政治家と業者の癒着を告発しなければならない。犠牲者であるからこそ俺にはその権利がある。俺は正義なのだ。やってしまえ。これができるのは俺しかいない。俺がやらないで誰がやる。これは俺の使命なのだ。
気の小さい子が、よその家の玄関先につながれた犬に吠えられるのを怖がり、同じ所を行こうか戻ろうか何度も行ったり来たりするように、荘平は同じ考えをさんざん繰り返し、あれこれ理由をこじつけた後、ようやく意を決する。店を閉めてから、一人部屋にこもりノートを広げペンを握る。計画書を作成し実行に移すのだ。自分に言い聞かせ鼓舞しながら。やるぞ、やってやる。今に見ていろ。
バイパス爆破計画書
目的 開発に名を借りた悪徳政治家と建設業者との癒着、および手抜き工事の告発、ならびに制裁。
方法 バイパス橋げたを時限装置つきダイナマイトで爆破する。
決行日時 ×月×日 午前二時零分
(静江との約束は一週間だ。決行はなるべく早い方がいいが、準備にはやはり時間がかかる。焦ってはいけない。慎重を期すべきだ。時刻はもちろん人目につかぬよう真夜中しかないだろう。いくら正義だとは言え、これはあくまで非合法活動なのだから。戦うべき相手は体制なのだ)
準備 一、ダイナマイトの入手
××建設の倉庫から調達
(以前、××建設で人手が足りなかったとき頼まれて一時、作業の手伝いをしたことがある。第一倉庫の奥にダイナマイトが保管されているのを俺は知っている。もちろん鍵はかかっているが、あそこの社長はどケチ野郎で警備員を置く金も惜しむくらいだ。どうせ防犯管理もいい加減で、盗むのは簡単だろう。それに陰で相当あくどいことをやっているという噂も聞く。産業廃棄物の不法投棄であるとか、土地ころがし、贈収賄に談合、おまけに脱税まで、叩けば埃の出る体ではダイナマイトが盗まれたって警察に届け出るようなまねもできまい。しかもそのダイナマイトでバイパスが爆破されたとなればなおさらだ。
そういえば、どケチ野郎の社長で思い出したが、作業の手伝いをしたときの賃金の一部をまだもらっていない。確か十万円のうち二、三万だったか。一度請求したが、そのうち払うと言ったきりうやむやになってしまっている。ちょうどいい、そのときの貸しをダイナマイトで返してもらうことにする)
準備 二、時限装置
(さすがに自分でダイナマイトに点火するのは危険極まりない。爆弾もろとも自爆テロをするつもりはないのだから。生活のための戦いであり、死は敗北を意味する。生き延びるために時限装置は絶対必要だ。目覚まし時計を改造すれば作れると、いつか何かの映画で聞いた覚えがある。明日にでも図書館に行って、文献を調べてみよう。あるいは、ホームセンターでおあつらえ向きのタイマーを売っているかもしれない)
準備 三、セッティング
バイパス山下地区の東から数えて四本目の橋げたの基部に、時限装置を仕掛けたダイナマイトをセットする。
(下調べはすでに済んでいる。山下地区は最も谷が深く、道路から谷底の地面まで、ざっと見て二十メートル以上ある。あそこならば一番効果的だろう。それに人目にもつかず、作業もやりやすい。危険は最小限にとどめるべきだ)
計画が立てば次は実行に移す番だ。迷いをふっ切った荘平は爽快な気分でその晩、いつになくぐっすり眠り、翌日の午後、店の休み時間を利用して、さっそく隣町の図書館へ出かけることにする。
支度をする荘平に静江がいやみを言う。
「パチンコかい、あんた?」
「何?」
「パチンコにでも行こうっていうの? どうせお客なんて来ないから逃げ出すんでしょう。
あと六日でこの店も終わりだもんね」
「何言ってんだ、終わりなもんか」
勝ち誇ったように見下す女房の言葉に、荘平は反論する。
「あと六日でわんさか客は来るさ。見ていろ、そのときになってあわてるな、今から準備
しておけ」
「だったら何でパチンコなんか行くのさ?」
「誰がパチンコなんか行くって言った」
「違うの?」
「当たり前だ。俺は今から研究をしに行くんだ」
「研究?」
「ああ」
「何の?」
「だからジゲンソ……」
と言いかけたところで、あわてて荘平は口をつぐんだ。
「ジゲン? 何よそれ」
「……昔、中国で幻と言われたラーメンさ」
とっさの思いつきを口にする。
「聞いたことないわよ」
「だから幻なんだ。みんなが知っていたら幻でもなんでもない」
もう少しでばれるところだった、危ない危ない。どうにかごまかせた。たとえ女房であってもこの計画は伏せておかなければならない。自分は、言ってみれば秘密工作員なのだから。その自覚は荘平の心を少年のように躍らせた。
店を出て行く夫の背中を、静江はあきれた目で見送る。
「なに訳の分からないこと言ってんだか。またいつもの気紛れなんだから。ジゲンだかムゲンだか知らないけどさ、今さらどんなラーメンの研究したって無駄なだけよ。どうせあと六日でこの店もおしまいだもの、決まってる……」
静江は店を見回す。煤けた漆喰の壁に古びたイスやテーブル。何十年もの長い間見慣れた物たちがそこに並んでいる、二人で商売を始めたあの頃と同じように。
「何もかも終わりか……後始末が大変だわ……」
入り口わきの壁に、一枚の写真が貼られていた。茶色くくすんだ白黒写真には、まだ若い二人と、店を訪れた力士が笑って並んでいる。ひときわ大きな力士の隣で荘平は、いかにも小さい。
「いろいろなことがあったわね……」
独り言する静江の心の中を、過ぎ去った遠い日々が浮かび上がり駆け巡る。
「あん村の男と結婚するこたあ、ぜってえに許さね」
父が怒鳴りつける。
「お前だって、あん村んせえで、どれんほど俺たちが辛え目にあったか知ってえだろ」
それはもちろん、幼い頃から静江は聞かされてきた。しかし
「だって、そんなこと昔の話じゃない。それに、もう約束したんだし」
「親に隠れて約束なんど、断じて認めねえぞ」
「私はもう大人よ、結婚相手は自分で決めるわ」
「お前はいいようにだまされてんだ」
「荘平さんは嘘をつくような人じゃない」
「荘平ってゆうのか? そん男は」
「そうよ」
「ここ連れてこー。叩き殺してやる」
「ばかなこと言わないでよ」
「親に向かってばかとは何だ」
「ばかだからばかよ」
「口答えするつもりか。いつからそんなに偉くなった」
「私は、いつまでもお父さんの言いなりになるのは、いやなの」
「こいつめ。あげな村の男なんぞと付き合うから、そんなたわ言をぬかすようになんだ。二度と口答えできねよう、根性を入れけえてやっぞ」
父親の拳が静江の横面に当たる。悲鳴を上げて静江は倒れこむ。
翌朝、親に黙って、静江は荘平と手に手をとり汽車に飛び乗る。汽車は黒煙を吐きながら、まだ見ぬ遠い地に向かって走り出す。
知らない町に着いた。身寄りは一人もいない。小さいアパートを借り、暮らしていくためにがむしゃらに働いた。しかし二人でいられれば後は何もいらなかった。どんな苦労も苦労ではなかった。親に見つかり連れ戻されるのを恐れ、町から町へ住所を変え移り住んだ。さまざまな仕事を転々とした。
あっという間に十年が過ぎていた。たまたま入ったラーメン屋で古里の言葉を聞いた。店主が同郷の出身だと分かった。懐かしくて何回も通った。人伝で、父親が病に倒れたと聞いた。あんなに憎んだ父親なのに、無性に会いたくなった。荘平と相談して二人で様子を見に一度戻ってみることにした。
卒中だった。やつれて横になる父親に、かつての頑なな面影はなかった。すっかり老けこみ、小さくなっていた。結婚を許してもらった。アパートを引き払い故郷に戻って、身内だけで式を挙げた。
仕事で渡り歩いたそれぞれの土地で食べたラーメンのうまさが、忘れられなかった。きつかった暮らしの数少ない慰めだった。ラーメン屋を出したかった。ラーメンで、食べる人に励ましを与えたいと思った。
しかし、店を構えてもなかなか思うような味を出すことは難しかった。何度もくじけそうになった。荘平が弱音を吐いた。
「俺には才能がないのか」
静江は叱りつけるように言った。
「何言ってんの」
「やめて、ほかのことやった方がいいんじゃないかと思ってな」
「見損なったよ、あんた」
「だってな、これ以上お前に苦労はかけたくないんだ」
「苦労なもんか」
「店が終わってから、夜遅くまでパートに出てるじゃないか」
「あたしは辛いなんて思ったことは一度もないよ。あんたに立派なラーメン屋になってもらいたくって好きでやってんだ」
「でもな、体を壊しはしないかと思って心配なんだ」
「あの頃のきつさに比べたらなんでもない。あんた、もう忘れてしまったわけじゃないだろうね?」
「いや、もちろん覚えているさ。つい昨日のことのようにな」
「あの頃励まし支えてくれた人たちに、今度はあたしたちががんばって恩返しするんじゃなかったの?」
「ああ、そうだったな」
「だったら、あんたはよけいなことを考えずに、ただおいしいラーメン作ることだけ考えて打ち込んでおくれ。あたしにはそれが一番なんだ。あきらめるあんたなんか見たくないよ」
「すまんな、つい弱音を吐いちまって。分かった、もう一度やってみる」
「そう、その意気だ。やっぱりあたしがほれた男だけのことはある」
「二人して力を合わせて、うまいラーメンを出そう。そして食べてくれた人を力づけよう。それが俺たちにできる精一杯の恩返しだもんな」
(もちろん、静江の勝手な脚色も多いに含まれてはいるが、今の二人の姿からは想像もつかない過去があったのもまた、事実である)
まず荘平は、車で二十分ほどの町立図書館へ向かった。去年建て替えられたばかりの図書館は、落ち着いた茶色いレンガタイルの二階建てで、最新の設備が整えられている。しかしコンピューター画面の前に座って検索しても、時限装置に関する文献は一件も見つからない。冷静になって考えてみれば当たり前の話だった。反政府勢力の秘密アジトではあるまいし、公共の図書館に「テロリストのための爆弾製造教本」があるはずがない。カウンターの職員に尋ねるわけにもいかなかった。図書館はあきらめて、次にホームセンターに向かうことにした。
タイマーは何種類もが、ホームセンターの売り場に並べられていた。しかしどれも家庭用百ボルトの電源に使用するものばかりで、そのままでは役に立ちそうになかった。荘平は知恵を絞って考えを巡らす。
バイパスの橋げたまで百ボルトの家庭用電線を引っ張るのは無理だ。だったら、持ち運べる電源を使えばいい。自動車のバッテリー?……いや、重すぎる。もっと小さいもの……そうだ、乾電池がある。単一乾電池を数本つなぎ合わせたらどうか。それをニクロム線に接続して発熱させるのだ。ニクロム線だから、乾電池で充分足りるだろう。回路の途中にスイッチとしてタイマーをつないで時間をセットするのだ。たとえば一時間なら一時間にセットしておけば、時間が来て電気が流れニクロム線が真っ赤に発熱し、それでダイナマイトに火をつけることができるに違いない。製作してみよう。工作ならば子供のころ、模型を作って自信がある。勉強そっちのけで夢中になり、親によくしかられたものだが、学校の図工はいつも「五」だった。昔の趣味がこんなところで役に立つとは、芸は身を助くとはこのことか、などと荘平は一人悦に入った。ホームセンターの棚の前でタイマーを手に取りじっと立ちながらにたにたしている彼を、他の客が見たらどう思うかなど気づきもしないで。幸い、平日の昼過ぎのため客はまばらで、彼を不審に思う者は一人もいなかったが。
荘平は良さそうなタイマーを念のため二種類と単一乾電池十本、電気コード、ビニールテープ、それにニクロム線を買い求め、上機嫌で店を出た。ちょっとした金額だったが、散財だとは思わない。何しろ、失敗の許されない非常に重大な任務を遂行するのだから。むしろ誇らしい気分だ。大声で誰彼かまわず自慢したいくらいだったが、もちろん我慢して家に帰った。
店に戻ったときには、すでに夕方の営業時間になっていた。どうせ静江のやつテレビ見ているだろうと思っていたが、なぜか殊勝にも、白い割烹着で店番をしていた。
「お客はどうした?」
「見れば分かるだろう、一人も来やしないよ。それよか、ジゲンだかムゲンだかのラーメンの研究はうまくいったのかい?」
「ああ、ばっちりだ」
「うそばっかり」
「うそじゃない。ちゃんと図書館に行ってきた」
「じゃあ、その紙袋は何さ?」
荘平はあわてて、タイマーやら乾電池やらで重い紙袋を後ろに隠す。
「ほうら、やっぱりパチンコの景品じゃないか。お見通しなんだからね」
パチンコだと思われているのなら、いっそのこと、その方が都合がいい。下手に言い訳をして時限装置のことを悟られでもしたら、それこそ面倒だ。荘平はもうそれ以上何も言わずに奥へ入ると、紙袋を隠し、着替えて店に出た。
その晩静江が寝入ってから、荘平は起き出し時限装置を組み立てた。昔、模型作りで鍛えた腕は衰えていない。計画通り、タイマーをセットしたニクロム線は真っ赤に発熱した。それをダイナマイトに接続すれば好きな時間に爆発させられる。これで第一の難関は越えられた。次はいよいよ肝心要のダイナマイトの調達だ。明日の晩に決行しよう。
しかし翌日は、朝から天気がぐずついていた。夜までにはすっきり晴れてくれることを期待したが、昼過ぎから本降りになった。雨の晩はわざわざ外出する者も少なく、人目につきにくい。多少音を立てても雨に紛れて気づかれないという利点もあったが、極端に作業がしにくくなるという欠点の方が大きい。専門知識のない荘平には断言できないが、もし万一ダイナマイトを雨にぬらして使い物にならなくしてしまったら、元も子もない。大事をとって、やはり晴れるまで待った方が賢明だろう。はやる心を抑えじっと辛抱して、時が来るのを待つことにした。
所在無くしている荘平を、静江はからかった。
「どうしたの、ジゲンの研究は? 一日で終わりかい。本当はパチンコに行きたくてうずうずしてるんだろう」
荘平は気短そうに言った。
「そんなんじゃない。お前は黙っていろ」
「ハハハ、どうせお客なんて来ないんだし、もうじきこの店も閉めちゃうんだから、パチンコ行きたいんなら行っておいでよ」
「よけいなお世話だ」
「お客が来なくて、よっぽどいらいらしてると見えるね」
「いらいらしてるのは雨のせいだ」
「雨がどうかしたかい?」
「お前には関係ないって言ってるだろう」
「男のヒステリーはみっともないよ」
しかし翌日もまた雨だった。音を立てて降っている。今夜も上がりそうにない。何もしないでじっと時を待つことが、こんなにも辛いものだとは思ってもみなかった。静江が外をのぞきながら言った。
「それにしてもよく降るね。ますますお客は来そうもないし、あんたでなくても気が滅入っちゃうわね。でもさ、バイパスの方はだいぶ繁盛してるらしいよ。ミッちゃんが言ってたけど、猫の手も借りたいんだって。パートを探しているらしいから、今度私も行ってみようかね」
静江は試すように言い、反応をうかがう。
「何言ってんだ、お前。商売敵だぞ、あっちは」
「商売敵だって?」
「ああ、そうだ」
「商売敵っていうのは、いくらかでも勝ち目がある場合を言うんだよ。いくらこっちが張り合っているつもりだって、向こうは相手にさえしていないんだ。竹やり一本で爆撃機と戦うようなもんさ。笑われるよ」
「うるさい。お前はテレビでも見ていろ」
「へへー、仕事中にテレビなんか見ていいの? この前は見るなって言っておきながら、いったいどっちなんだろうね」
そういえば、最近静江はあまりテレビを見なくなっていた。その代わり店に出ている時間が増えた。テーブルを拭いたり、床を掃いたり。気がつくと時々はぼんやりと店の中を眺めていたりする。何か心境の変化でも起こったのだろうか。やる気を起こしてくれたのならけっこうなことなのだが、減らず口は以前にも増してしつこくなっている。
降りつづいた雨は、三日目の朝にようやく上がった。荘平の心も重しが取れたように、すがすがしく晴れ渡った。今夜、ダイナマイトの調達を決行しよう。早く日が暮れて夜になれ、昼の間そればかりを思った。何回時計を見たことか。しかし少しも針は進んでくれない。
「おい静江、今何時だ?」
「もう二時よ」
「まだ二時か」
「目の前に時計があるでしょ、見れば分かるじゃない。時計も見られないほどもうろくしちゃったの?」
「ばか言え。この時計遅れてんじゃないのか。電池切れだろう」
「この前交換したばかりじゃない」
「そうだったか?」
「やっぱりもうろくしたのよ」
「うるさい。そっちの時計は何時だ?」
「ここの目覚ましだって一時五十九分よ」
「二つとも遅れてんだ」
「そんなに気になるんだったら、一一七で聞いてみればいいでしょ」
「言われなくてもかけるところだ」
荘平は受話器を上げ、一一七をダイヤルする。女性の声がして時刻を告げる。
「ただ今より二時ちょうどをお知らせします……ピッ、ピッ、ピッ、ポーンッ……」
「クソッ、時報まで狂ってやがる」
「おかしいんじゃないの? あんた。狂ってんのはあんたの頭の方よ」
「日本国政府の陰謀だ」
「どうして政府がそんなことすんの? いちいち時報を狂わせたって何の役にも立たないじゃない」
「国民を操ろうって魂胆だ」
「バッカみたい。まさかあんた本気で言ってんじゃないでしょうね。最近少し変よ。もし本気で言ってんだったら、一度病院で診てもらった方がいいわよ。町にいい精神科のお医者さんがいるから行ってきなさいよ。森田さんちのお姉さん、ほら、頭おかしくなっちゃった人がいたでしょ。覚えてる? 角の床屋の長女でさ、理容師の免許とってあと継いだんだけど、突然笑いだしたりして、おかしいんじゃないかってみんなが噂しだしたら、カミソリで髭そっているとき、やっぱりお客さんの耳、切り落としちゃって、大騒ぎになったでしょ。あの人がその病院に入院したのよ……」
少しも時間は進まず、日は暮れない。
午後の休み、女房が買い物に出かけた留守に、荘平は押入れから時限装置を取り出しチェックする。タイマーを三十分後にセットして電池を接続する。時計とにらめっこし、二十九分四十秒後にスイッチが入ってニクロム線が真っ赤に発熱するのを確認する。目にまぶしい赤、決意の赤、そして革命の赤。そうだ、俺は革命を起こすんだ。
いくら時間の進むのが遅く感じられても、それでも地球は自転している。太陽は西に傾いて山の稜線に沈み、夕焼けて一番星が輝き、空は徐々に赤みを失いながら、深く濃い紺色から墨のような黒に変わった。満天に星が広がっている。荘平は夜空を見上げ雨の心配がないことを確かめると、のれんをしまう。十時をすぎるが、しかしまだ早い。焦りは禁物だ。人は起きている。行動は皆が寝静まってからだ。待ちきれない荘平は、勇む気持ちを抑えるために酒を飲む。少しくらいなら支障はないだろう。むしろ怖気づかずに大胆に行動できるはずだ。一升瓶のふたを開け、日本酒を冷でコップに二杯と、つまみにするめを少々。おそらく緊張のせいだろう、少しも味は分からず、酔いもしない。そして午前一時だ。満を持し、さあ、出発しよう。
闇夜に紛れ込めるよう黒色のジャージを着て、音を立てぬようスニーカーをはく。静江はいびきをかいて寝ている。そっと玄関を出る。
××建設で以前手伝いをしたとき、倉庫の鍵は実にぞんざいだったのを思い出す。人ごとながら、無用心すぎると思った。もっとも今は人ごとではなく、当事者としては無用心のおかげでうまくダイナマイトを調達できそうだ。感謝しよう。
もちろん荘平には泥棒の経験などあるわけなかったが、あんな鍵なら素人でもペンチに金槌くらいで充分開けられる。念のため鉄鋸もリュックに詰め、自転車にまたがる。倉庫まで歩くには遠すぎるが、車では出し入れのエンジン音で静江を起こしてしまう恐れがある。自転車ならその心配もなく身軽でいい。
荘平は満天に輝く星の下、自転車をこぐ。夜風が心地良い。冷酒だったため、今ごろ酔いが回り始める。スピードを上げると、所々の街灯に浮かび上がる夜景が左右に切り分けられ後方へと飛んでいく。道は山の中をはるか遠くまで延びている。このまま星空を背負い、どこまでも走っていけそうな気分だったが、サイクリングをしに来たわけではない、十五分ほどで××建設に到着する。走りつづけたい気持ちを我慢し自転車を降りる。
幸いここまで車一台すれ違わなかった。うまくことの運ぶ知らせに思える。きっと成功するに違いない。そう予感がする。何しろ俺は革命戦士なのだ、自信を持て。強気になろう。正義なのだ、悪びれてはいけない。
××建設の敷地は四方をぐるりと塀で囲まれている。塀といってもそれほど高くはなく、足場があれば簡単に乗り越えられるし、中に入ってしまえば後はもうこっちのもので、倉庫の鍵を開けるだけでいい。たわいもない。
辺りをうかがい荘平は乗ってきた自転車を塀に横づけし、荷台に足をかけてひらりと乗り越える、はずだったが、映画のようには格好良くいかなかった。前日まで降りつづいた雨のせいで地面はぬかるみ、荘平が片足を荷台にかけた瞬間に自転車はズルッと滑って、彼の体は自転車ごとひっくり返った。自分の体を支えるだけの体力は、若いころならあったろうが、もうこの歳では残っていなかった。しかもひっくり返った拍子に足首を捻挫したらしく、その捻挫した足の上に自転車が倒れこみ、体を起こすことさえできなくなっていた。計画はあえなく失敗に終わった。はたから見れば、さぞ無様な姿だったろう。スパイ映画の主人公にはなれないことがはっきりと分かった。
いてえ、いてえ、と身動きできずうめいているところへ、遠くから車の明かりが近づいてきて、闇の中に荘平を照らし出すと真後ろで止まった。男が降りてきて言った。
「誰かと思ったら、荘ちゃんじゃねえか。どうしたんだ? こんな所でひっくり返ったりして」
幼馴染の良吉だった。
「いてててて、良ちゃんか。すまないが助けてくれ。起き上がれねえんだ」
「ああ、ちょっと待ってろよ、今起こしてやっから」
良吉は自転車をどけると、荘平の体を抱きかかえた。
「すまん、足首をちょっとひねっちまった」
「なんでこんな時間にこんな所にいるんだ? 荘ちゃん」
荘平は適当な嘘でごまかした。
「いやぁなあに、このところずっと雨だったろう。久し振りに雨が上がって月がきれいだったから、ちょっとサイクリングでもしようかと思ってな。夜風があんまり気持ち良くってさ。それで小便でも垂れようかと塀に寄ったら、地面がぬかるんでいてこのざまだ」
「そりゃあ災難だったな、気の毒に。サイクリングか、きれいな星空だもんな。誰だって夜風に当たりたくはなるよな。俺はてっきり倉庫に忍び込んでダイナマイト盗んでさ、バイパスの橋げたをすっ飛ばすつもりだったんじゃないかと思ったがな」
そんなばかな。荘平は口をあんぐりと開けて言葉を失った。なぜ?……どうして、心を見抜ける?……知っているはずがない。どこで計画がもれた、誰がばらした? 静江か? しかし、もともと静江には教えていない……疑問ばかりが荘平の頭の中を駆け巡る。訳が分からず、何者かの悪意による妨害を感じ急に腹立たしくなってくってかかった。
「何てこと言うんだ。いくら良ちゃんだって、言っていいことと悪いことがあるぞ」
「すまんすまん。でも俺が言ったんじゃないんだ。勘弁してくれ」
「良ちゃんじゃなけりゃ、いったい誰なんだよ」
「誰って、みんなだよ」
「みんなって誰だ?」
「だから、町のみんなだよ」
「みんながそんなこと言ってるもんか」
「嘘じゃないよ、だって荘ちゃん、この前ホームセンターでタイマーとニクロム線と乾電池買ったろ。時限装置作って、後はダイナマイトだけじゃないか。ここに忍び込んでダイナマイトさえ手に入れば、バイパスすっ飛ばせるだろ」
「何で俺がそんなことしなくちゃなんねんだよ」
「だって、バイパスができてからってもの、言っちゃ悪いけど荘ちゃんの店ぜんぜん客入ってないもんな。観光協会のみんなはバイパスのおかげでいい思いしてるって言うのによ。知ってるか? 博司のやろう女房に内緒で浮気してんだぜ。それもバイパスでもうけたからなんだ。いい気になりやがって。それにひきかえ荘ちゃんとこのラーメン屋は一人だけ被害者だもんな。バイパスを恨むのはもっともだよ。ふっ飛ばしたくなる気持ちは分かる。同情しちゃうもんな」
荘平はここまで気持ちを見透かされて何も言い返せなくなった。打ちのめされた気分だった。慰めて良吉は言った。
「俺ももし荘ちゃんの立場だったら、同じこと考えたかもしんねえな。何もかもバイパスのせいだもんな。バイパスさえできなけりゃ、今も昔みたいに客入ってたろうからな。気持ちは分かるよ。だけどさ、考えるのと実行するのとは別だぞ。悪いこと言わないから、もう物騒なことはやめろって。バイパスすっ飛ばしたりしたらどうなるかくらい、荘ちゃんだって子供じゃないんだから、分かるだろ。頭冷やせよ。刑務所行くくらいですめばいいけど、下手すりゃ死刑だぞ、走ってる車を何台も巻き添えにして、死人を出して。だからさ、これで終わりにしようよ。ダイナマイトさえ盗んだりしなければ、みんな、なかったことにして見逃してくれるよ。タイマーだって、ラーメンゆでる時間を計るのに買ったってことにしてくれるだろうしな。なっ、だから悪いことは言わないよ、これで全部終わりにしようぜ。けどな、もしこれでもあきらめないって言うんだったら、俺たちだって黙ってはいられないからな。おおっぴらにしなくちゃなんねえ。それだけは覚えておいてくれ」
そういえば……こんな状況でふと荘平は、良吉が昔からやけに勘の鋭かったことを思い出した。学校のテストで山が当たるのはしばしばだった。勉強が間に合わないときはいつも良吉の力を借りた。何とか落第しないで切り抜けることができた。良吉が就職するとき、東京の大手企業に縁故があり内定が決まりかけたことがあった。しかしそこには行かず隣町の小さい会社を選び就職した。みんながもったいながり不思議がった。どうして? と聞かれ、あそこは先が危ない、と答えた。すると案の定、数年後、会社ぐるみの不祥事が発覚し、それがもとで経営が破綻して倒産してしまった。残された社員たちはだいぶ苦労したそうだった。中には自殺者も出たと新聞は伝えていた。それに対し、良吉の会社は順調に業績を伸ばしている。彼の予言を覚えていた者は、さすがだ、と感心した。結婚のときもそうだった。いい見合い話が転がり込んだ。美人で資産家だった。みなうらやましがった。しかし断った。その女は教師と結婚したが、実のところ酒乱だったのを隠していたらしく、結婚後毎晩酒を飲んでは暴れ、夫とけんかが絶えず、とうとう他の男を作って家出し、最期身を持ち崩したという噂だった。良吉が結婚したのはお世辞にも美人とはいえなかったけれど、気立てのいい幼馴染で、今も仲良く暮らしている。
こんなこともあった。高校時代、友達何人かでテントを持って川原でキャンプした。渓流の小さい川だった。流れのすぐわきに平らな砂地があった。寝心地が良さそうだったので、そこでテントを張ろうとしたが良吉が反対した。
「そこはやめておいた方がいい」
「なぜ?」
一人が聞いた。良吉は答えた。
「いやな予感がする」
「だったらよそう」
みんな彼の勘の鋭さを信じていたので、あえて逆らう者はいなかった。寝心地は悪くなるが、川から離れた高い場所にテントを張った。
テントを張り終えると、川面に釣り糸を垂れ夕食の魚を釣った。たくさん釣れた。火を起こし、飯盒で飯を炊き魚を焼いて食べた。格別うまい食事だった。
日が暮れ暗くなり満腹だったのですぐに寝てしまった。その夜、上流で激しい雨が降り、川が増水した。朝起きて驚いた。テントのすぐ下まで水が押し寄せていた。最初にテントを張ろうとした砂地は完全に水に飲まれ、濁流が逆巻いていた。もし彼の予感がなかったら、おそらく全員川に押し流され死んでいるところだった。命の恩人だった。
月夜の晩、道端でひっくり返り足首を捻挫しながら、古く懐かしい記憶を辿って思い出している自分自身が、荘平には滑稽に思えてならなかった。
それはともかく、こうして荘平の革命戦士としての野望はあっけなくついえ去った。もし良吉の勘がこんなにも鋭くなければ、荘平のバイパス爆破計画は成功したのだろうか。あるいはまた、何らかの別の原因で同じ結果に終わったのか。早い段階で失敗して良かったのは、言うまでもないことなのだが。
翌日、くじいた足の痛みは湿布をしてもすぐにはひかなかった。夜中、トイレに立って転んだといって足を引きずり歩く荘平を、静江はあきれた顔で見ていた。静江に隠れて荘平は、こっそりと電話した。
「やあ、達っちゃん。俺だよ、荘平。折り入って頼みがある」
「何だい、改まっちゃって?」
「こんなことは達っちゃんにしか話せないんだけどさ」
「何でもいいから言ってみなよ。俺と荘ちゃんの仲じゃないか。遠慮なんかしないでよ」
「明日俺の店、特別サービスデーってことで全品二割引なんだよ」
「そうなの、知らなかった」
「今決めたんだ」
「何だ」
「それで景気づけに、誰か知り合いを何人か店に連れて来てほしいんだ」
「そんなことか、お安いご用だ。俺とそれに良ちゃんと、あと二、三人誘っていくよ」
「いや、直接の知り合いじゃだめなんだ。静江の知らない人間じゃないと」
「どうして?」
「いろいろあってな。訳はまた後で話す」
「そうか。事情が込み入ってるみたいだな」
「すまん」
「いいよ」
「それで、誰かいないかな、静江の知らない人」
「うーん、ちょっと待ってくれ。今思い出してみるから……そうだな……あっ、いた」
「誰?」
「俺の取引先の人、名前は宇賀神さんていうんだ」
「変わった名字だな」
「うん、俺も最初は読めなかった。その宇賀神さんがね、八人家族の大所帯でさ、両親だろ、それに宇賀神さん夫婦に子供が四人」
「うらやましいな。洗濯が大変そうだけど」
「一か月前にでっかい車を買ってね、毎週みんなして飯食いに出かけるんだそうだ。よっぽど八人揃って車に乗れるのがうれしいんだろうね。それで、俺にどっかいい所知らないかって聞くんだ。うってつけだろ」
「そういう人に来てもらいたいね」
「荘ちゃんのところ紹介してやるよ」
「ありがたい、恩にきる」
「なあに、礼には及ばないよ。さっそく今から電話してみる」
「今度、また一緒に釣りに行こう。おごるから」
「それはかえってすまんね」
「あと、このことは静江にも良ちゃんにも、くれぐれも内密に頼む」
「分かってるって、心配すんな」
「持つべきものは友だな」
サクラでも何でも、客が来ればいいのだ。
白い割烹着を着て、女房の静江は店を眺め回す。壁の写真に目をやって言う。
「いろんなことがあったけど、この店も明日いっぱいだね」
「何言ってやがる、やめてたまるか。まだまだつづけるんだ」
「約束の期限はあと一日だよ、本当に客なんて来るの。悪あがきはやめて、もういいかげんにあきらめなさいよ。往生際が悪いんだから」
「誰が往生なんてするもんか」
「知り合いを連れてくるのはなしだよ。知り合いの二、三人相手じゃ商売にはなんないんだからね」
「そんなことは分かってら」
荘平に頼まれ、達也は宇賀神さんに電話する。宇賀神さんは軽度の難聴だが、大きな声で話せば会話に支障はない。話を聞いて宇賀神さんは喜び、次の日の夜、仕事が終わったら一家揃って店を訪れてくれると返事する。達也からのその知らせに、荘平は一抹の後ろめたさを感じながらも、ひとまずは胸をなでおろす。手段はともあれ、首はつながった。
「今日も張り切ってるね」
社長は宇賀神さんの肩をぽんと叩く。
「あっ、社長。お早うございます」
「お早う。最近何かいいことあったみたいだね」
横合から、事務の渋井が大きな声で言う。
「宇賀神さん、車買い換えたんですよね。家族みんなで乗れる大きいのに」
「ほう、それはたいしたもんだね。ドライブなんか行ってるの?」
「そうなんです」
渋井が代わりに答える。
「この前の休みの日には川原でバーベキューをやって、その前は海を見に行って、そして今日は仕事が終わったらみんなして食事に出かけるんですよね。宇賀神さんて、家族思いだから」
宇賀神さんはニコニコして聞いている。社長もニコニコして言う。
「けっこう、けっこう、家族思いは大いにけっこう。みんな家族のことを思って一生懸命働いてくれ。家族あっての仕事、家族あっての会社だよ」
「はい、社長」
宇賀神さんはニコニコして仕事する。しかし社長と渋井が行ってしまうと、鈴木課長と佐藤係長代理は苦々しげに言う。
「うちの社長は人がよすぎますよね」
「まったくだ。社長の家に行ったことがあるか?」
「いいえ、ありません」
「行ったら驚くぞ」
「どうしてです?」
「猫屋敷って呼ばれている」
「化け猫でも出るんですか?」
「そうじゃない。猫だらけなんだ」
「そんなに社長は猫が好きなんですか?」
「ああ、それもあるだろうけどな、捨て猫を見ると、かわいそうでつい拾ってきちまうそうだ」
「それで猫がうじゃうじゃいて、猫屋敷なんですか」
「奥さんも困ってるって言ってたな」
「でしょうね」
「奥さんも困るだろうけど、俺たちも困るんだよな、温情だけであんな役立たずを雇われちゃ。迷惑するのはこっちなんだから」
「仕事も満足にできないで、ヘラヘラ笑ってばかりですもんね」
佐藤は露骨に宇賀神さんをにらむ、宇賀神さんはニコニコと書類を作る。
「用を言いつけるにしたって、いちいち大声出さなくちゃなんねえしな」
「あんなのは、便所掃除やらせておけばいいんですよね」
「ああいうやつのことを何ていうか、知ってるか?」
「何ていうんですか?」
「給料泥棒っていうんだ」
「なるほど、ぴったりですね。会社のお荷物だもんな」
「社長も、早いところくびにすりゃあいいんだ」
「代わりに若くてきれいな女子社員を雇ってくれた方が、ずっと会社のためですよね」
「やる気も出るしな」
「何のやる気でしょう?」
「あっちだよ」
「不倫しちゃいますか?」
「やりてえな」
「これで何人目ですか?」
「三人目」
「好きですね、本当に女が。課長は」
「俺のエネルギー源だからな。男は浮気もできなくなったらおしまいだ」
「でも課長、課長は婿養子でしょう。奥さんは大丈夫なんですか?」
「大丈夫、大丈夫。うちのやつは鈍いから何したって気がつきはしない」
「それにしても課長は大胆ですよね。この前の飲み会で、結婚指輪を『こんな物いつでも捨ててやる』なんて、女の子たちの前ではずして見せていたでしょう」
「もう二個もなくしている」
「ああやって口説いているんですか? よくできますよね、あんなことが」
「あのくらいはなんでもない」
「本気なんですか」
「女房と別れる気はさらさらないさ。別れちまったら、浮気じゃなくなるからな。本妻は必要だ」
「なるほど。言われてみればそのとおりですね」
「お前だって、二股かけているって噂じゃないか」
「二股だなんてとんでもない。ちょっと課長の真似して浮気してみただけですよ。そんなことより、あの宇賀神さんの奥さん見たことありますか?」
「いや、ないよ」
「すごいですよ」
「何が?」
「ブスで」
「だろうな。似合いじゃないのか」
「一度見たら二度と忘れません」
宇賀神さんはニコニコと書類を作る。
「それにしても何考えてんでしょうね。頭の中身、見てみたいですね」
「空っぽさ」
夕方、電話が鳴る。鈴木が出る。クレームらしい。
「請求書にですか……ミス?……計算ミス?……いえ、そんなはずはありません……」
佐藤は仕事の手を止め、心配そうに様子をうかがう。宇賀神さんはニコニコと書類を作る。
「お送りする前にですね、二度チェックを入れましたから……そうですか……いえ、とんでもありません……それは困ります……申し訳ございません……はい……いえ、それだけはご容赦ください……はい……ではさっそく確認してみます……申し訳ございません……折り返しお電話いたしますので……なにとぞよろしくお願いいたします……失礼します」
佐藤がおずおずと尋ねる。
「どうしました?」
「どうもこうもない」
鈴木は憤慨して言う。
「例の高橋興業のところの取引、担当は君だったね」
「はあ、そうですが……それが何か?」
「何か、じゃない。請求書にミスがあったと、先方は大変怒ってた」
「そんなはずありません。二回も見直ししたんですから」
「請求書の写しを見せなさい」
佐藤は書類棚からファイルを取り出す。鈴木は受け取り、ページをめくる。
「この千三百万に間違いはないんだな?」
「絶対にありません」
「じゃあ、見積書の控えは?」
「見積書、ですか?……」
「そうだ、先月作らせたろう」
「あっ、とってあります……確か、この辺に……」
机の上の書類の山をかき分ける。
「早くしなさい」
「すいません……高橋興業の見積書と……あった、これだ、どうぞ」
鈴木はひったくり目を走らせる。
「これはいったいどういうことだ?」
気色ばむ鈴木の声に、佐藤はびくついて言う。
「どこですか?……」
「ここだよ、百三十万になっているじゃないか」
「はあ……それは」
「説明しろ」
「ちょっと計算違いをしまして」
「ちょっと計算違いだと、千三百万をどうすると百三十万に間違えられる?」
「ですから、ゼロを一つ落としただけです」
「バカヤロー、それですむか。こんな物送って、お前いったい仕事を何だと思ってる」
「ですから、すぐに訂正しました、千三百万に」
「いつ?」
「次の日に、ファクスしました」
「そんな重大なミスをファクス一つで片づけるつもりだったのか」
「たかがゼロ一つじゃないですか」
「あほか。だったらお前、今月のお前の給料、ゼロを一つ引いておくぞ」
「ゼロを一つ引くって、どういうことですか? ゼロをいくら引いても変わらないじゃないですか」
「ゼロを引くというのはだな、桁を一桁小さくするということだ」
「ということはつまり……」
「十万だったら一万になる」
「私の給料が二十三万円だから……一桁小さくすると……ええと……二万三千……二万三千円? まさか、冗談でしょう、二万三千円なんて、アパート代だけでも四万なんですよ、家賃払えず追い出されちゃいます」
「だったらホームレスになるんだな。そうすれば家賃はただですむ。二万三千円あれば、食費くらいは出るだろう」
「車のローンだってあるし……」
「困るか?」
「困りますよ、もちろん」
「お前のしでかしたミスはそのくらい重大なんだぞ。なぜ私に相談しなかった?」
「ファクスすればすむと思ったんです……あれっ?……」
「どうした?」
「……ファクスしたっけかな?……」
「まさか、ファクスさえ送ってなかったなんて言うつもりじゃないだろうな」
「……どうだったか……」
「送ったのか、送らなかったのか、どっちなんだ?」
「……あっ、思い出した」
「で、送ったんだな?」
「いえ、その……実は……」
「実は、何だ?」
「送ろうと思ってたんですが……送ろうと思ったら、あの宇賀神がちょうどファクス使ってやがったんで、待って……そして、いつまでもずっと使ってやがるから……待っている間にお茶一杯飲もうと思って……飲んでいたら……送るの……忘れました……」
「救いがたいバカだな。じゃあ結局先方は、最初から間違った見積もりの百三十万のつもりでいたってことじゃないか」
「いえ、あの宇賀神のバカさえ、あのときファクスを使っていなければ送れたんです」
「小学生じゃあるまいし、そんな言い訳が通用すると思っているのか。いったいどうするつもりだ? もう機械の納入もすべて済んでしまったし、今さらあの金額は間違ってましたから千三百万をお支払いくださいとは言えんのだぞ。先方は百三十万以上、びた一文も払わんと言って、かんかんだ。裁判に訴えてもいいと言っていた。ここまで強く出るということは、下手をしたら、これを口実にあそこの社長は、うちをゆするつもりかもしれん」
「ゆするって?……」
「うちが詐欺をして見積もり以上の金額を後になってふんだくるとか何とか、あることないことそこいらじゅうに言いふらすぞ、言いふらされたくなかったら口止め料を払えって要求してくるかもしれん」
「そんなバカな」
「そんなもこんなも、すべてはお前のせいだろう。お前はそれだけのミスをしでかしたんだから、くびくらいは覚悟しておけ。とにかく千三百万との差額はお前に払ってもらうぞ」
「嘘でしょ……そんな大金ありませんよ」
「借金してでも払ってもらう。それとも体を売るか」
佐藤は泣きべそをかく。
「だって、私はちゃんとファクス送るつもりだったんですよ。それなのにあの宇賀神のバカがのろまくさくいつまでもファクス使ってるからいけないんです。あのバカさえいなければこんなことにならなかったのに……みんなあいつが悪いんです」
鈴木は腕組みして考える。
「うーん、宇賀神のせいか……そうだっ」
ポンッと手を打ち合わせて言う。
「いい考えがある。あいつのせいにすればいい」
佐藤は身を乗り出して言う。
「そんなことができるんですか?」
「できる」
「どうやって?」
「よく聞け」
「はい、聞いてます」
「みんなあの宇賀神が悪いんだな?」
「ええ、もちろんです。私のせいじゃありません」
「ならばこうしよう。お前は宇賀神に見積書の訂正を高橋興業にファクスするよう伝えておいたが、それを宇賀神は忘れてファクスしなかった。これでどうだ」
「素晴らしい、いい考えですね、さすが課長は違う。そうすればみんなあいつのせいになる。実際あいつが一番悪いんですから。あいつさえいなかったら、こんなことにはならなかった」
「あいつに責任を取らせよう」
「くびにしちゃいましょう」
「お払い箱にできる」
「せいせいする」
「じゃあ、その訂正した見積書に、高橋興業へファクスしてくれとメモをつけて、気づかれないように宇賀神の机に中に忍ばせておくんだ。メモにその日の日付を書いておくのを忘れんようにな」
「はい分かりました。こりゃ楽しみだな。わくわくする。これでとうとうあいつともおさらばできる。災い転じて福となすとはこのことですね」
宇賀神さんはニコニコと書類を作る。一段落したところでトイレに立つ。そのすきに佐藤は、メモをつけて見積書を宇賀神さんの机の引き出しに入れる。戻ってきたところで鈴木課長が大声で呼びつける。
「おい、宇賀神さん、ちょっと来てくれ」
「はい」
宇賀神さんはニコニコと返事をする。課長はにらみつけ、さらに大声で言う。
「さっき高橋興業から電話があってな、えらい剣幕で怒っていたぞ。あんた、まさか頼んでおいたファクスを忘れたんじゃあるまいな」
「はい?」
宇賀神さんには何のことだか分からない。課長はほとんど怒鳴りつけんばかりにして言う。
「ファクスだよ、ファクス。高橋興業への」
「ファクスですか? 何のでしょう?」
「だから高橋興業への見積もり訂正書だ。重要な書類だから、絶対に忘れるなと念を押しておいたろう。まさか忘れたんじゃあるまいな」
宇賀神さんは思い出そうと考える。課長は問い詰める。
「覚えていないのか?」
「はい、覚えていません」
「バカヤロー、やっぱり忘れていたんだな。どうしてくれるんだ。高橋興業はかんかんだぞ」
「申し訳ございませんが、どの訂正書でしょう?」
「とぼけるな。私が渡し忘れたとでも言うつもりか。お前、自分の失敗を他人に押しつけようってんだな。責任逃れは社会人として最低な振る舞いだ。素直に認めたらどうなんだ」
そばで聞いていた佐藤が口をはさむ。
「白を切るなんて、くずのすることですよね」
「半人前だと思って甘やかした私がバカだった」
「すいません、もしかしたら机の中に入れっぱなしで、私が忘れてしまったのかもしれません」
課長はニヤッと笑って言う。
「だったら今すぐ机の中を探してみろ」
宇賀神さんは困りきった顔で席に戻り、机の引き出しを開ける。一枚の書類を見つけて言う。
「ありました。これでしょうか?」
「ああ、そうだ。これですべてはっきりしたな。お前のせいだぞ」
佐藤がうかれて言う。
「こんな大事なファクスを忘れるなんて、どうしようもないですよね。やっぱり役立たずは何をやってもだめだな」
「申し訳ありませんでした。多分私が忘れてしまったようです」
「多分じゃない。間違いなくお前だ。どう責任をとるんだ?」
「できる限りのことはします」
「当たり前だ。今すぐ高橋興業へ行って謝ってこい。分かったな」
「はい。ご迷惑をおかけしてしまって申し訳ございません」
「謝ってすむ問題じゃありませんよね」
「ああ。お前みたいな社員がいて、本当に迷惑だ。高橋興業へは私の方から電話を入れ、事情を説明しておく。お前はすぐに出かけろ」
「分かりました」
佐藤が後ろではやし立てる。
「くびだろうな。損害は弁償に決まっているし」
宇賀神さんは地図で高橋興業の所在地を確かめる。それほど遠くはない。急げばみんなでラーメンを食べに行く約束の時間までには戻ってこられるかもしれないが、今はそれどころではない。後回しだ。自分の落ち度で迷惑をかけてしまったのだから、いくら時間が遅くなったとしても、心から謝ろう。それが自分にできる一番大切なことだ。課長は高橋興業に電話を入れる。
「先程はまことに申し訳ございませんでした。当方の手違いで、見積もりの訂正書を一ヶ月前にファクスでお送りするべきところを、担当の者が耳が聞こえなくてですね、忘れてしまいまして。ひとまずその者をうかがわせましてお詫び申し上げさせます。大変ご迷惑をおかけしてしまって、その者に責任はとらせますので……」
宇賀神さんは事務所を出る。課長の電話する声は聞こえない。しかし宇賀神さんには、人に聞こえる声は聞こえなくても、人には聞こえない声が聞こえる。声は宇賀神さんに言う。
「浩一、人様に迷惑をかけてはいけないよ。お前はふだんからお世話になっているんだからね」
その声はいつも、宇賀神さんの内側から聞こえてくる。辛いとき、いつも励まし導いてくれる。
「浩一、がんばるんだよ」
宇賀神さんは車で高橋興業に向かう。心配や不安や悩みや迷いがあっても、内側で声が支えてくれる。
「浩一、くじけてはいけないよ」
宇賀神さんは声に支えられて、車を走らせる。
自分の落ち度で大変な迷惑をかけてしまった。先方にも、会社にも。自分の不注意のせいだ。申し訳なさが胸いっぱいに込み上げてくる。雇ってくれた社長の顔が目に浮かぶ。どこに行ってもまともに相手にしてもらえなかった自分に、仕事を与えてくれた。恩に報いなければならない。謝ろう。心から、社長にも、先方の会社にも。それが自分にできる精一杯のことだ。
宇賀神さんは決して制限速度をオーバーしない。安全運転を心がける。直後を走る暴走車の運転手がクラクションをけたたましく鳴らしても、それは変わらない。気持ちを落ち着かせてハンドルを握る。いらいらした若い運転手が、無理やり追い越しをかけていく。しかし対向車が来て、暴走車はあわてて左車線に戻る。後輪が、宇賀神さんの車と接触しそうになる。宇賀神さんはブレーキをかけハンドルを左に切る。しかし切りすぎて歩道に乗り上げ、電信柱にぶつかる。車は激しく壊れる。暴走車は知らん顔でそのまま走り去る。宇賀神さんは気が遠くなる。遠くなっていく意識の中で、子供のころの記憶が思い出される。熱を出して布団に寝ている。母親がつきっきりで看病する。ひどい高熱にうなされる。何日も熱はひかない。食べ物も喉を通らない。意識はもうろうとして薄らぐ。母親は湿らせたタオルで額の汗をぬぐう。母親にできるのは、汗を拭き言葉をかけてやることだけ。
「浩一、がんばるんだよ。いっしょにいてやるからね」
高熱はしかし、容赦なく幼い脳の細胞を侵していく。外の物音が遠ざかっていく。母親の声が遠ざかっていく。幼い子供は一人、孤独の中に取り残される。高熱により聴覚のほとんどを奪われる。
「浩一、くじけるんじゃないよ」
声は遠ざかっていく。しかし、遠ざかる直前の最後の言葉たちは、しっかりと幼い子供の心の内に刻み込まれる。
「お母さん」
うなされる宇賀神さんの口から、かすかな声がもれる。
「お母さん、苦しいよ」
「がんばるんだよ、浩一。母さんはずっとお前といっしょにいるからね」
「お母さん」
運転席でぐったりする宇賀神さんの口から、かすかに声がもれる。
「お母さん」
もうろうとする意識で、宇賀神さんは助けを求める。誰にも聞こえない声が聞こえてくる。心の中で声がする。力を与えてくれる。
「浩一、がんばるんだよ」
救急車のサイレンが近づく。
荘平はやきもきして時計を見る。八時五分。遅い。閉店まであと二時間を切った。早く来てくれ。なぜ来ない。残業でも入ったんだろうか? それとも、来る途中で道に迷っているのだろうか? ちゃんと連絡はついているはずだ。達っちゃんは信頼できる男だ。去年の新年会にだって、先約があったのを早く切り上げてまで顔を出してくれた。でも……不安になってくる。道順を正確に伝えなかったんじゃなかろうか? 町から来る途中、一ヶ所紛らわしい曲がり角がある。それ以外はほとんど一本道なのだが、あの曲がり角は、初めての人は直進してしまいがちだ。まっすぐ進むと、とんでもない所に出る。山の反対側に通じているのだ。そうなったら、なかなか引き返して戻ってくるのは難しい。たった一本の角を曲がりきれずに直進したため、俺の店に辿り着けずに、その結果、俺はこの店をたたまなければならないはめになる……そんな……達っちゃんに電話してみようか。でも、静江のやつがさっきから俺のことをじっと監視するみたいに見てやがる。うかつに電話してばれちまったら台無しだ。きっとあいつのことだから、サクラを頼んだことを卑劣だとか何とか、さんざんこき下ろすのに違いない。想像するだけでも真っ平ごめんだ。電話はよそう。仕方ない、俺も男だ。運を天に任せるぞ。もし来ないなら来ないで、それが運命だとあきらめて結果を受け入れるしかない。潔さが必要だな。腹を決めた。でも、店をたたむとなると、やっぱり静江の言うとおり、田中さんのところで世話になるしかなくなるんだろうかな。気が重いな。どうも俺は人に使われるのが苦手な性分だ。あれをしろ、これをしておけと、いちいち指図されるのが嫌いなんだ。つい、だったら自分でやったらどうだ、なん言い返したくなっちまう。ああ、早く来てくれないかな。荘平はやきもきして時計を見上げる。女房が言う。
「八時半だよ。お前さんが、この店の主人でいられるのも、あと一時間だね。どうだい、感想は?」
「ああ……」
「あれっ、やけに神妙な顔をしてるじゃないか」
「俺も男だからな、覚悟を決めたんだが、働きに出るようになるのかと思うと、気が重くてな」
「あれまあ、しおらしいことを言うじゃないか。もっと悪あがきするのかと思っていたら」
「ばか言え。みっともねえ泣き言なんか言えるか」
「へえー、感心だね。見直したよ。そういう謙虚な態度でいるなら、もしかして神様も助けてくれるかもしれないよ」
「どういう意味だ?」
「だからさ、商売つづけてもいいよって、言ってくれるかもしれないじゃないか」
「誰が?」
「神様が」
「どんな?」
「とってもきれいで偉い女の神様」
「幸運の女神か、だったらいいんだけどな」
とそのとき、店の外で車の止まる音がし、バタンバタンとドアが閉まる。
「ほら」
女房が振り向いて言う。
「来たか?」
二人は身を乗り出す。ガラガラと戸が開いて客が入ってくる。やった。とうとう来てくれた。のれんをかき分け、一人、二人、三人、四人……
「いらっしゃいませ」
女房はいそいそと茶の支度をする。荘平は客の数を数える。五人。五人? それも男ばかり。外をうかがっても誰もいない。最後の客が戸を閉める。荘平は尋ねる。
「八人じゃ?……」
「五人だよ」
客は答える。女房がお茶を出して聞く。
「八人がどうしたの?」
「いや、なんでもない」
変だな……でも、まあいいか。お客が来てくれたのに変わりはない。きっと多分、子供が熱を出してそれで宇賀神さんは知り合いを急いで集めて連れて来てくれたんだ。遅くなった理由が納得できた。ありがたいことだ。どの人が宇賀神さんかは分からないが、熱を出した子供を家に残してまで約束を守り来てくれるなんて。さすが、仏の達っちゃんの紹介だけのことはある。やはり彼に頼んで良かった。決して人を裏切らない男だ。荘平は柱の陰で頭を下げた。
「さあ、腕によりをかけてとびっきりの料理を出すぞ」
「やったじゃないか、お前さん。五人もだなんて」
「当たり前だ。俺には初めから分かってたんだ」
「やっぱり神様が、覚悟を決めたお前さんを助けてくれたんだわ。悔しいけれど、今回は私の負けね」
「約束だから、商売はつづけるぞ」
「約束だもんね」
「そうと決まれば、一生懸命働け」
「お前さんもね」
「もちろんだ、注文とってこい」
「あいよ」
女房は元気に返事をする。荘平は包丁を水で濡らす。
「味噌ラーメン二つ、チャーシューメン一つ、タンメン一つ、チャーハン一つ、それにギョーザ五人前」
「はい」
威勢のいい声が厨房に響きあう。
のれんを取り込みどんぶりを洗い終えると、二人は茶の間に腰を降ろして伸びをする。
「やっぱり、お客が入るのはいいわね、あんた」
「ああ、そうだな」
静江は自分の肩をぽんぽんと叩く。
「疲れはしても、気持ちに張りがでるもの」
「心も体も引き締まる」
腹の贅肉をさすって静江は言う。
「この辺をもっと引き締めなくちゃ」
「仕事に精を出せば、すぐ引っ込む」
「考えたんだけどね、あんた」
「何だ?」
「もしかしたらお客が来なくなっちゃったのは、あたしらのせいだったんじゃないのかね」
「どういうことだ?」
「バイパスができたのが悪いって、全部バイパスのせいにしてたろ」
「事実だから仕方ないじゃないか」
「そう、その気持ちがいけないんじゃないかと思うのよ。自分たちが悪いんじゃない、全部人のせいだ、自分たちは被害者だから仕方ないっていう気持ちが、あたしたちをだらしなくさせて、それでお客が来なくなっちゃったんじゃないかと思うの。たとえバイパスができたって、あたしたち自身がしっかりした気持ちでおいしい食事を出すぞってがんばっていれば、来てくれるお客さんは必ずいるんじゃないかしら」
「お前、いいこと言うようになったな。そのとおりかもしれん」
「でしょう。だらしなくなっちゃだめなのよ。気張ってやらなくちゃ」
「お前がそんな立派なこと言うんじゃあ、俺も負けていられねえな」
「そうだよ、あんた。あんた、この店の主人なんだから張り切っておくれよ。商売つづけるって決まったんだからさ」
「そこで考えがあるんだ」
「何の?」
「うちでしか出せないようなラーメンを作る」
「そんなすごいラーメンあんの?」
「ああ、あるとも。一口食べたら爆発するようなやつだ」
「爆弾でも入れるのかい?」
「名前はもう考えてある、ジゲンてな」
「あら、あれかい。この前言ってた。あれは本当の話だったの?」
「当たり前だ」
「なんだかわくわくしてきたわ」
「俺もだ」
「きっとお客さんたくさん来るわよ。あたしたちさえ気合を入れていればね」
「行列のできるラーメン屋にしてみせる」
「その意気だよ」
静江は立ち上がると、店から酒を持ってきて言う。
「さあ、祝杯をあげようよ」
「いいな」
「再出発に、乾杯」
「乾杯」
「どんどん飲んでおくれ。今夜はあたしのおごりだから」
「そいつはすまねえ、ごちになる。ハッハッハッ」
荘平と女房はいかにも愉快そうに笑った。うまい酒だった。こんなにうまい酒は、記憶にないくらいうまい酒だった。愉快な気持ちのまま二人とも、後片づけもしないうちに寝入ってしまった。ぐっすりと寝て、その夜中、宇賀神さんの事故を知らせようとする達也からの電話のベルにも気づかなかった。しかし気づかなかったのはベルの音だけではなかった。
まだ夜の明けないうちだった。不吉な予感に胸騒ぎを覚え(しかし実際には歳のせいでトイレの近くなっていた)二人は、ほぼ同時に目が覚めた。目が覚めてみると、なんだかきな臭く煙っぽかった。襖の向こうでパチパチと炎のはじける音がした。まさか……もしかしたら……荘平は思った。火の始末……風呂に入ろうとして火をつけたのを思い出した。しかし消したろうか? 消したような、消さずにそのまま眠ってしまったような……そうだ、消していなかった。
静江は思った。まさか……もしかしたら、つまみにしようと思ってスルメを火にあぶったまま、消さずに眠ってしまったような……そうだ、火を消していなかった。夢うつつから、二人はいっぺんに現実へと引き戻された。
「あんた」
静江は布団をがばっとはねのけ飛び起きた。
「コンロの火を消すのを忘れていたよ」
荘平も同時に飛び起き叫んだ。
「しまった、風呂の火を消すのを忘れていた。火事だ」
襖を開けるとそこは一面火の海だった。炎が踊り狂っていた。
「消さなけりゃ」
二人はバケツに水を汲みに台所へ回ろうとしたが、廊下はもう真っ赤な炎に包まれ、とうてい進めそうになかった。立っているだけで顔が焼けそうに熱い。息が苦しい。
「だめだ、逃げろ」
火の手はすでに家全体に広がり、消火しようがなかった。たったいま襖を開けたばかりだというのに、座敷にも燃え移ってきていた。襖はあっという間に燃え上がり、布団も煙を上げ始めた。廊下からは逃げられない。火を消すどころではなく、自分たちの命さえ危ない。荘平は四方を見回した。窓だ、窓がある。幸いここは一階で助かった。力任せに窓を開けると裸足のまま庭に飛び降りた。足が何かにぶつかったが、痛みを感じている余裕もない。女房を呼んだ。
「おい静江、こっちだ、早く来い。何してる?」
「ちょっと待って、お前さん。財布と通帳が」
「そんなもんいいから。命とどっちが大切だ」
「だって」
「バカヤロー」
怒鳴りつけられて静江は窓から身を乗り出す。荘平は静江の体を支えて庭に降ろす。間一髪だった。二人が逃げ出すのを待つようにして、目の前で窓から炎が噴き出した。二人は後ずさるしか、なす術を知らなかった。命だけが助かった。
消防車が帰ったのは、日が昇った後だった。屋根も柱も壁も、黒焦げて立っていた。山間の一軒家のため、延焼がなかったことだけがせめてもの救いだった。スズメがチュンチュン鳴く声で、ようやく静江は我に返り言った。
「ごめんよ、あんた」
「お前のせいじゃないさ」
荘平は慰めた。
「火の始末をしないで寝ちまったのは二人とも同じなんだから」
「そうじゃなくて……こんなことになったのは、元はと言えばあたしのせいなんだよ」
「どうして?」
震えのおさまらない声で静江は告白した。
「人を頼んだのよ」
「人?」
「そう」
「何のことだ?」
「五人お客が来たろう」
「ああ」
「あの五人のお客は、小学校の同級生に頼んで、連れて来てもらったんだよ」
「そんなことあるもんか、あの人たちは宇賀……」
言いかけて荘平はやめた。
「うが?……うががどうしたの?」
「いや、何でもない……本当にお前が頼んだのか?」
「そうだよ。ごめんよ、よけいなことをして」
じゃあ、宇賀神さんはどうしたんだ? あの五人のお客は女房が頼んだのだとすると、やはり宇賀神さんは道に迷いでもして来られなかったのか……けれど、どうして? どうして女房がそんなことをわざわざ人に頼んだりしたのだ?
「だってお前、お前は店をやめたがっていたじゃないか。そのお前がどうして人を頼んだりした。そんなことしたら、やめられなくなるだろう。どういうことだ?」
「それはね……」
女房は着たままだった割烹着のポケットに手を入れた。
「これだよ、この写真さ」
ポケットからは古ぼけた一枚の写真が出てきた。荘平と静江が写っている。
「火事の中からよくそんな写真持ち出せたな。店の壁に貼ってあったやつだろう」
「似てるけど、これは別のだよ。あたしのタンスの中にしまってあったものさ」
「なんだ、そうか」
「この頃のことを覚えているかい?」
「ずいぶんと二人とも若いな」
「店を始めて二年目くらいに撮ったんだよ」
「そうだったかもしれんな。入り口の松の木がまだ小さい」
「三日前の晩、とうとうこの店を閉めるのかと思ってね、懐かしいからアルバムを開いて見ていたらこの写真が出てきたんだよ。見ているうちに、いろんなことが思い出されて、なんだか急に気が変わったのさ」
「どんなふうに?」
「寂しくってね。あの頃はまだ若くてさ、やる気いっぱいでさ、二人とも張り切っていたじゃないか」
「そうだったな。お前はスマートで顔にまだしわなんかなかった」
「あんただって髪の毛ふさふさしていた」
「二人とも変わっちまったな」
「ああ、体もそうだけど、気持ちもね。あの頃は毎日毎日、おいしいラーメン作って食べてもらおうと打ち込んでいたよね。貧乏だったけど夢だけはいっぱいで、先のことなんか心配しないでさ。でも、最近じゃ、すごくいい加減になっちまった。このまま店がなくなったら、今までやってきたことが全部無駄に終わって何もあたしらには残らないように感じて、生きてきた意味がなくて、そうしたら、急に胸の中が空っぽになっちゃうようで、寂しくて怖くてさ、それで人を頼んだんだよ」
「お前……」
「ごめんよ、あんた。あたしがよけいなことをしたばっかりに、こんなことになっちまってさ。もし人を頼んだりしなかったら、火事になんかならずにすんだんだ。この程度の人生だって、初めから素直にあきらめておけば良かったんだね。身の程をわきまえて、悪あがきなんかしないでね。夢なんか見るもんじゃないのよ。あたしがばかだった」
荘平は女房の言葉をじっと聞いていた。聞き終わってもしばらく腕組みをして何事かを考えていたが、一言もしゃべらず一人、焼け跡に歩み入り、燃え尽きた木材をかき集め始めた。
「どうしたんだい? あんた。何してんの?」
燃えかすをかき分けながら荘平は振り向いて答える。
「使える鍋や釜は残ってないかと思ってな」
「そんな物、今さらどうすんのさ?」
「決まってんだろ、ラーメンを作るんだ」
「ラーメンを作るって……作ってどうするの?」
「客に出す」
「店はもうないのよ」
「建てればいい」
「建てればいいなんて簡単に言うけどさ……あんた、まさか火事のせいで頭がおかしくなっちまったんじゃないだろうね。気は確かかい?」
「気が狂ったみたいな言い方するな」
「だって」
「俺は確かさ、今までにないくらい確かだ」
「だったらそんな無駄なことおよしよ」
「無駄じゃない。今はっきり分かったんだ」
「何が?」
「俺たちに本当に必要なことが何か」
「何?」
「やる気、だよ」
「だってもう何もかもなくなっちまったんだよ」
「店はなくなっても、やる気だけは残ってる。あのときと同じようにな」
「あのとき?」
「そうさ。俺たちが商売を始めたあの頃だ」
「大昔の話じゃないか」
「気持ちは変わらねえ」
「あの頃はまだ二人とも若かったしさ」
「金も経験も何もなかったけど、やる気だけは人一倍あった。お前だってゆうべ言ってたじゃねえか」
「何を?」
「客が来なくなったのはバイパスができたせいじゃなくて、俺たちの気持ちがだらけていたからだ、俺たちががんばってさえいれば客はきっと来るって、な。俺ははっきりと覚えているぞ」
「言ったには言ったけど」
「あれは嘘だったのか?」
「店がまだあったからで……」
「言い訳するな、大切なのはやる気だ」
「……」
静江が口を開きかけたとき、一台の車が並木のカーブを曲がり走ってきて駐車場に止まった。男が二人降りて言う。
「どうしちまったんだい、これはいったい? 静ちゃん、大丈夫か?」
「良吉さん、達也さん、来てくれたの。あたしは大丈夫だけど、ご覧のとおり店は丸焼けよ」
「ひでえもんだな」
焼け跡の中で荘平は振り向き自嘲する。
「ばちが当たったのさ」
「ばちって何の?」
良吉が尋ねる。荘平は答える。
「自分たちがやる気を失くしているのを棚に上げて、商売がうまくいかないのはみんな人のせいだなんて逆恨みしたから、ばちが当たってこのざまだ」
静江が言う。
「賭けなんてやらなきゃ良かったのにね」
荘平は瓦の下から鍋を一つ見つけ、掘り出して言う。
「ほうら、あったぞ。この鍋はまだ使えそうだ。でも賭けをしたおかげで、俺たちに本当に必要なものが何だったのか、はっきり分かったじゃないか」
「何だい? それは」
達也が尋ねる。
「本当に必要なのは、がんばるぞっていうやる気だよ。お客さんにおいしいラーメンを作って食べてもらいたいっていう気持ちだよ。そうじゃないか、静江」
「そうだね、あんた」
「良ちゃん、達っちゃん、見ていてくれ、俺たちはまたラーメン屋やり直すよ。ここに店が建つまで、どこか別の場所借りてもいいし、屋台を引いたってかまわない。新しい店の名はもう決めてあるんだ」
「何て?」
「ジゲン。このままじゃ死ねねえもんな」
「その意気だ」
「応援するぜ」
「へこたれてたまるか」
「またゼロから出発だね。あのときと同じに」
「ああ、同じさ。あのときだって焼け跡だった。良ちゃん、達っちゃん、ラーメン作るから食べていってくれ」
「そういやぁ腹ペコペコだ」
「うまいラーメン頼むぜ」
「ああ、任せておけ」
静江は後ろを向いて小さく安堵する。
「怒られないで良かった」
「今何か言ったか?」
「ううん、何も」
「そうか?」
焼け跡を見回しながら達也が尋ねる。
「でも、どうやってラーメンなんか作るんだ?」
「だからこうして今、材料を探してんじゃないか」
「あんのか? 麺だとかスープだとか」
「もちろんあるさ。昨日まではあったんだから」
「真っ黒だろう」
「もしかしてそっちのほうがうまいかもな」
「まさか」
「いっしょに探してくれや」
「よしきた」
良吉と達也は焼け跡の中へ分け入り、瓦礫の下から食材を掘り出す。
「あったぞ」
「どこ?」
「ここだ」
「食えそうか?」
「分からん」
四人はレンガやブロックでかまどをこしらえ、乾いた木材を拾い集めて火を起こす。まるでキャンプに来た少年のように、はしゃいで料理する。
「さあできたぞ、おまちどうさま。ジゲン第一号の焼け跡ラーメンだ。食ってくれ」
「ということは、俺たちがジゲン第一号の客ってわけか」
「焼け跡ラーメンとはまた、しゃれた名だな」
「いただきます」
「うまいか? 焼け跡ラーメン」
「食ってみろよ」
味がどうだったかは、分からない。
(了)