85 旅立ち
リクイがエルドリア共和国に向けて、発つ日が近づいていた。
西の国は遥か遠く、今、出発しなければ、医学学校の新学期に間に合わない。しかしハヤッタは怪我をしてから三ヵ月たっても、まだ意識が戻っていないのだった。
リクイはハヤッタが目覚めてから出発しようと決めていたので、医学学校に行くのを一年伸ばそうかと考えていた。
しかし、ハヤッタを診るためにたびたび宮廷を訪れているハニカ医師がこう言った。
「ハヤッタ様は手を握ると握り返すようになられた。意識が戻るのは間もなくだと思われる。もう心配しなくていいから、行きなさい」
「はい。でも」
「この私がそばで見ているからね、リクイくんは安心して学校に行きなさい。そして、一日でも早く多くの患者を救うことのできる医者になりなさい。それがきみのなすべきことではないのかい」
「……」
リクイは何度もためらったが、ハニカ医師に強く促されて、新学期に間に合うように発つことを決めたのだ。
出発する前に、リクイは数日間の予定で、荷物の整理のためにアカイ村に戻った。爺さまの本は数冊だけを持っていくことにし、残りは革の箱に入れて鍵をかけた。
伝書鳩や畑は手伝ってくれていた者に譲り、家とナツメヤシを見守ってくれるように頼んだ。
もしかしたら、ジェットが帰って来るかもしれないという望みは捨ててはいない。
だから、革の箱の上には、ジェット当ての手紙を残した。
その一行目には、こう書いた。
「ジェット兄さん、お帰りなさい。ずうっと待っていました」
*
旅立とうとする前夜、リクイはニニンドと宮廷の屋根の上にいた。
「この国を離れたら、これが一番懐かしく思う景色なんだろうな」
リクイが決心をした人の晴れ晴れしい顔で笑った。
「初めてこの屋根に登って来た時、こわくて、びくびくしてやって来たんだったよ」
「リクイは私を探して、ここまで来てくれたんだった」
「足が震えたのを覚えているよ」
「おれもあの時のことは、よく覚えている。リクイはおれがどのくらい授業が理解できているのかって、訊いたんだ」
「そうだった。きみは八十パーセント、わからないって言ってたよね」
「そうなんだ」
ニニンドが空に響くほど、大きく笑った。
「あれでも、サバを読んでいたんだ。本当は十パーセント以下だよ、わかったのなんか」
「それじゃ、ほとんどわかっていなかったということじゃないか」
リクイも大きく笑った。
「実は、そうなんだ」
「あれから授業の後も、一緒に勉強してくれるようになったんだった」
「ニニンドと一緒に勉強するのは、楽しかったなぁ。この屋根も、楽しかった」
「うん。高い所はいいよな。心が自由になる」
「ニニンドはよく言ってたけど、屋根に慣れてから、ようやく、その意味がわかるようになったよ」
「ところで、鳩は連れていかないのかい」
「遠すぎるよ。外国なんだから、迷子になってしまうだろ」
「たまには、手紙を書いてくれるかい」
「もちろんだよ。ニニンドもね。王太子は忙しいから、返事は無理しなくていいから」
「ははは。書くよ」
別れの言葉はそれだけで、ふたりの間では、申し合わせたようにお決まりの挨拶はない。
「ニニンドって、何でもできるよね」
「できないことは、リクイが一番よく知っているだろ」
「ニニンドは山賊で、座長で、子供の頃から、踊りで大勢を養ってきただろう。考えてみたら、それって、なかなかできないことだよ。いや、ニニンドにしかできない」
「そうかな。それが今度は王太子だよ。前は十六人の面倒を見ればよかったけど、今度は全国民だよ。どうする?」
「どうするの?」
リクイは眉間に皺を寄せて、その目でやさしく笑った。
どうしようか、とニニンドがくくくと鼻を抑えて笑った。
「国王が前に言われたんだ。その座に着くと、大きくなる者、小さくなる者、悪くなる者がいると。さて、私はどれなのだろうか」
「決まっているよ」
「どれ」
「あっちに決まっている」
ふたりはまた笑った。
「ねっ、ニニンド、これまで、大人達を引き連れて、どうやって生きてきたろうって、そのことはいつも訊きたいと思っていたんだ」
「うん。大したことはしていないよ。でも、こうしようと大きなところを決めたら、あとはあまりくよくよ考えないことにしていたんだ。目先のことだけに集中するってこと。そんなところかな。これからは、それでは済まされないとは思うけど」
「なるほどね。もっと早く訊いておけばよかった」
「リクイの方が将来を見据えて、ちゃんとやっているよ」
「ぼくは心配性で、先の先のことばかり考えて、目の前のことを見ていないことがあるからね。 助言、ありがとう」
「助言したつもりはないよ。リクイはいつもその真正直な行動で、おれに力をくれていた」
「そうかな」
「そうだよ。リクイと会えて、最高に運がよかった」
「ぼくも。世界のどこに行っても、ニニンドみたいな友達と出会うことはないだろうと思うよ」
ふたりは屋根の上で固く抱き合った。
明日になったら、夕方に、ふたりで並んでここに座ることはない。
でも、生きてさえいれば、また会えるだろう。
親友のよいところは、再会した時に、序章がいらないことだ。すぐに、本文に入っていける。
【ニニンドの巻】完了




