52 黒煙
翌朝早く、ニニンドはハヤッタの部屋に行った。
「カヌン兄弟からの報告は届きましたか」
「いや、まだですが、そろそろ届くころです」
「帳簿はいかがでしたか」
「数字の上では、おかしなところはないのですが、実際の国庫と照らし合わせる必要があります。しかし、そちらの管理はマグナカリ殿下がなさっておられるので、……」
「はい。どのようにして、頼むかということですよね」
「とても難しいお方ですから、慎重に進めなければなりません」
「私が頼んでみましょうか」
「ありがたいのですが、それはちょっと待ってください。ことがもっとややこしくなるかもしれませんから」
十時を過ぎた頃、黒い煙が見えたとの報告があった。いくつの師団を経て、カヌンからの伝言が届いたのだ。
白い煙なら、国境の師団にジェットはいる。黒い煙なら、いない。上がったのは、黒煙だった。
「ジェットくんは駐屯地にはいない……」
ハヤッタの声には、隠しきれない震えがあった
「やはり姫といたのはリクイのお兄さんのようですね。何があったというのでしょうか」
「行って、確かめてくるしかない」
「現地に行って確かめる、という意味ですか」
「そうです」
「では、その役目は、私にやらせてください。私が行きます」
「いや。殿下はここにいてください」
ハヤッタは自らが国境の第七師団まで行くことを決め、部下を呼んで、馬車の準備を命令した。
「私も行きます。馬は得意です」
「いいや」
今度も、ハヤッタは首を振った。
「殿下はここに残り、鬼ヶ岳捜索のほうの指揮をとってください」
「わかりました。でも、殿下ではなくて、ニニンドと呼んでください」
「それはできません。ニニンド様はもう王太子なのですから、殿下と呼ばせていただきます」
「そすですか。では、詳しい指示をお願いします」
ニニンドはハヤッタの判断力、決断力、そして優秀な部下を育て抱えていることをそばで見て、学ぶことばかりである。
ニニンドは国王から王太子になってほしいと懇願されているが、実のところ、何をどうすればよいのかわからない。
しかし、ハヤッタの行動を見ていると、自分の混沌としている意識に、たとえばどんよりしている池に、石が投げられ、その石が水面の水苔を引き連れて沈み、澄んだ水になったような感じがするのだった。
彼を指針にすればよいのだ。自分も、彼のようになりたい。ならなくてはならないのだ。はたして、できるのだろうか。
リクイが報告を聞いて、部屋にやって来た。いつもよりも小さく見える。
リクイも兄の駐屯地に行きたいのだが、言い出すことができない。リクイは昨日も、崖から二度も滑り落ちて、捜索の手足まといになったことを恥じていた。
「リクイくん、きみは私と来るんだ」
ハヤッタが肩に手を置いた。
「いいえ。馬は得意ではないですから、ぼくはここで待ちます。鬼ヶ岳で、兄が見つかるかもしれませんから」
「そのことは殿下にまかせるんだ。兄さんが二年間過ごした場所を見たくはないのかい。馬で行くわけではない。馬車で行くのだから、心配はいらない」
「はい。その場所は見たいです。ぜひ連れて行ってください」
「ハヤッタ様は全然、休んでおられません。大丈夫なのですか」
とニニンドが言った。
「馬車の中で眠っていくから、私の心配はいらない。これはどうしても、私がやらなければならないことなのだから」
*
宮殿の前には、すでに六頭立ての馬車の支度ができていた。
先導するのは、僻地から戻ってきたばかりのカヌンの弟のほうのカワリである。彼は急を要する事態なのだと感じていて、自分は疲れ知らず、道を知っているからと先導すると自ら名乗り出たのだった。
部下の誰もがハヤッタを慕い、ハヤッタの身体を懸念していた。
馬車の中は席が取り除かれ、背の低い寝台が用意されていた。馬が走り出すと間もなく、ハヤッタは壁のほうを向いて、黒眼鏡をかけたまま寝てしまった。どれほどお疲れのことだろうとリクイは申し訳なく思った。
リクイはなかなか寝つかれない。
あんなに捜索をしても見つからないのだから、兄さんが無事で戻るということがあるとは思えない。
兄さんと二度と会えないかもしれないと思うと、今までこんなに悲しいことはなかったと胸がかきむしられる思いがする。想像するだけでもこんなに悲しいのに、それが事実だと知ったら、自分はどうなってしまうのかわからない。どうしてこんな辛いことが起きるのだろうか。
ぼくは弱い。
でも、ニニンドは強い。偉いなとリクイは今さら思う。
十歳で母親を亡くしたのに、年老いた仲間を引き連れて生きてきたのだ。
彼は言ってくれた。
「お兄さんがこの谷のどこかにいるのなら、おれが見つけてみせる。どこかに飛んで行ってないかぎりね。おれがこういう場所を走り回るのが得意だということを知っているだろ。なにせ昔は、あれだったんだからな」
ニニンド、ありがとう。
ああ、これが夢であればいいのに、そう思って無理に目を閉じて眠ろうとしたら、
「リクイ」とハヤッタが呼んだ。
「はい」
「サンクリ……」
ああ、寝言だった。
えっ。ハヤッタ様は何と言われたのだろうか。頭の中で、音をゆっくりと再現してみると、「サンクリカンド」、ではなかったか。
「サンクリカンド」
それはどこかで聞いたことのある名前だ。
そうだ、とリクイは思い出した。
あの鬼ヶ谷の樵がぼくのことを「サンクリカンド様ですか」と訊いたのだった。
サンクリカンドとは第二王子の名前だと、ニニンドが言っていた。
あの樵の額の真ん中には、大きなほくろがあったから、帰ったら、探してみよう。見つけられるかもしれない。
なぜぼくが亡くなった王子のサンクリカンドに間違われ、ハヤッタ様が夢の中でその名前を呼んだのだろうか。
ハヤッタ様が目覚めたら、すぐにでもその名前は何なのかと訊きたい気持ちはうずいている。早く起きてくれないかとじりじりする。
でも、樵から尋ねられたことも、ハヤッタ様の声を聞いたことも、うちに秘めておいたほうがよいと心の声が言っている。なぜだろうか。
カワリの先導する馬車はすさまじい勢いで、国境に向かっている。その後を十二人の精鋭部隊が続いている。明日の昼頃には第七師団に到着することだろう。兄が三年間兵士として働いていた場所を見られるのかと思うと、リクイは興奮して、眠ることができない。




