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「喪が明けたら離縁する」はずの偽りの妻ですが、止まった時計の謎を解いて濡れ衣の辺境伯と継子を救ったら、いつの間にか手放せない家族になっていました

作者: 中身無男
掲載日:2026/06/16

「喪が明けるまで、俺の妻になってくれ。本物の妻は、いらん」


それが辺境の領主がノエルに告げた、最初の言葉だ。


死んだ人間の家から嘘を掘り出す。それがノエルの仕事だ。検財人と人は呼ぶ。揉めた相続、不審な破産、消えた遺産。誰かが隠した金の流れを帳簿と数字から掘り当てる。


人は嘘をつくが、数は嘘をつかない。ノエルはその数のほうだけを信じて生きてきた。家族も家も、何ひとつ持たずに。


そんな女に、領主は妻になれと言う。本物はいらない、借り物でいい、と。


屋敷の門前でノエルを迎えたのは当主その人だった。下働きのように門前に立つ領主に、ノエルはまず面食らった。歳は三十そこそこ。立派な身なりなのに、どこか借り着のように落ち着かない男だった。


「思っていたよりずいぶん身軽だな」


鞄ひとつで来たノエルを、男は値踏みするように見た。


「持って歩けるだけがわたしの荷物ですので」


「そうか」


男はふっと笑った。


「噂どおりだ。媚びない女だと行く先々で聞いた。『あの女は使える。だが頭は下げん』と」


「『使える』のほうだけ買っていただければ」


「いいや」


男は門を開けながら言った。


「頭を下げん女のほうを買った。下げられると、こっちが嘘をつきにくい」


ノエルはこの男を少し見直した。


「妻にと望んでおいて、ずいぶんな言い草ですね」


「妻が欲しいわけじゃない。欲しいのは嘘を暴ける人間だ。あんたの評判は聞いた。死んだ家から誰も見つけられん金の嘘を掘り出す女だと。だから呼んだ」


女を道具として雇おうとしていることを、この男は隠しもしない。下手な世辞よりよほど信用できた。


「事情を伺います」


「ひと月前、俺の兄が死んだ。この家の前当主だ。馬の事故ということになっている」


ユーグと名乗ったその男の目の奥が、一瞬だけ暗くなった。


「この領では、当主が死ぬと家は喪に服す。喪が明ける日に家督の審問が開かれる。その日まであと三十日。それがあんたとの契約の期限だ」


「家督はあなたが継ぐのでは」


「いや。この家も家督も本当はあの子のものだ。兄の遺児でリュカという。九つになる。だが幼すぎて当主は務まらん。父の遺言にこうあった。『子が成人するまで、子を養い家庭を持つ者が後見として家督を預かれ』と。つまり俺は、あの子が大人になるまでの預かりの当主にすぎん」


ユーグは屋敷を見上げた。


「審問で俺が後見にふさわしくないと判じられれば、預かりの座は別の親族に移る。そうなればリュカは財産も家も丸ごと毟られる。『家庭を持つ後見』という体裁を整えるために、形だけでも妻が要る。それが表向きの用件だ」


「では、本当の用件は」


「兄の死だ。あれは事故じゃない。俺はそう睨んでいる。だが俺には暴けん。動けば潰される。妻という形でなら、誰にも怪しまれずこの家の奥まで入れる。喪が明けるまでに兄の死に隠れた嘘を暴いてほしい。――それが本当の中身だ」



   * * *



屋敷に入ってノエルがまず気づいたのは、この家の主人がまるで客のように暮らしていることだった。


執務室の当主の椅子は、空いたままだった。ユーグはその立派な椅子に座らず、脇の小さな椅子で書類を見ていた。本当の主人がいつか帰ってくるのを待つように。


「その椅子はお使いにならないのですか」


「……座り心地が悪くてな」


嘘だ、とノエルは思った。隠れた嘘を掘るのが生業の女にはわかる。あれは座り心地の問題ではない。自分が座るべきではないと思っている椅子だ。


もとはと言えば兄のもので、いずれはリュカのもの。預かりの自分が座っていい椅子ではない。この男はそう思っている。


廊下の奥に、固く閉ざされた部屋があった。埃よけの布が扉の前にまで垂れている。


「兄の部屋だ」


ユーグはそれだけ言って口を閉じた。語れない、という顔だった。


自分の家なのに、他人の家のように暮らしている。この男は何ひとつ自分のものだと思っていない。ノエルはそう見て取った。けれど無理にこじ開けはしなかった。触れられない傷には触れない。



   * * *



その子に会ったのはその晩だった。


階段の陰から刺すような目でこちらを窺う痩せた影。あの子だ、とノエルは思った。話に聞いた兄の遺児。


歓迎の目ではなかった。「またよそ者の大人が来た」という、九つにしては老成しすぎた警戒の目。


ノエルは膝を折り、目の高さを合わせた。そして隠さなかった。


「わたしは喪が明けるまでこの家にいる。あなたの母親のふりをしに来た。でも本物じゃない。喪が明けたら、いなくなる。借り物の母親。それを知っていてほしかった」


リュカは長いあいだ刺すような目で見ていた。それから低い声で言った。九つの子の声ではなかった。


「……いくらで雇われたの」


「報酬の額はあなたには関係ないわ」


「あるよ」


リュカは握りしめた拳を震わせた。胸元に鎖が見えた。その先に何か小さな細工物が下がっている。古い、銀の。


「みんなお金が目当てなんだ。ぼくに優しくする大人はみんな。ぼくの財産が欲しいんだ。あんたもそうなんだろう」


ノエルは立ち上がった。そして事務的な声で言った。


「そうよ。お金が目当て。期限が来たら消える。あなたの言うとおり」


リュカが虚を突かれた顔をした。否定されると思っていたのだ。「そんなことない、あなたを大事に思っている」と。そう言って取り入る大人を、この子は何人も見てきたのだろう。


「だから安心していい。わたしはあなたを好きになろうとも、好かれようとも思っていない。期限が来るまで仕事をするだけ。あなたも無理にわたしを信じなくていい」


リュカはぽかんとしていた。生まれて初めて大人に「信じなくていい」と言われた顔だった。


子供の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。



   * * *



リュカの警戒がなぜこれほど深いのか。その理由をノエルは翌日知った。


厨房の隅でリュカがぽつりと言ったのだ。


「……父さまを殺したの、ユーグなんだって。叔父さまが言ってた」


ノエルの手が止まった。


「あんたはそのユーグが連れてきた女だ。だから信じない。ぐるなんだ。父さまを殺して、ぼくの財産をぜんぶ取るつもりなんだ」


九つの子がたった一人で抱えてきた疑いだった。自分を引き取った男が父の仇かもしれない。その家で息をひそめ、誰も信じず胸の形見だけを握りしめて。


不自然だ、とノエルは思った。仇とされる男の家に、なぜ遺児が置かれている。普通なら別の親族が引き取る。


その不自然さに答えを出したのは、当の叔父――ベルトランだった。


叔父はノエルが屋敷に来て二日目に、様子を見に現れた。親族筆頭の肉づきのいいにこやかな男だった。


「ユーグはいい人を妻にしたものだ。あの子も父代わりと母代わりが揃って幸せだろう」


言葉は優しい。だが目が笑っていない。ノエルはすぐに見抜いた。この男がリュカをこの家に置いたのだ。父の仇とされる男と、その遺児をひとつ屋根の下に。


互いに憎ませて孤立させるためだ。二人が手を組めば叔父に対抗できる。けれど互いを憎んでいれば、ばらばらに操れる。


ユーグには濡れ衣で脅しを。リュカには「仇はユーグだ」と毒を。別々の鎖で縛りこの家を支配している。審問でユーグを後見の座から蹴落とせば、すべてが叔父のものになる。


叔父が帰った後、ノエルはユーグに尋ねた。


「お兄さまが亡くなった夜のことを聞かせてください」


ユーグはしばらく黙って、それから絞り出すように話した。


「あの夜、俺は兄と諍いをした。下らないことでな。別れて屋敷に戻った。その後、兄は一人で馬を駆って崖から落ちた。――叔父は言う。『お前が兄と争った直後に兄は死んだ。お前が突き落としたと噂を流すのは容易い』と。『逆らえばお前は兄殺しだ』と。だから俺は逆らえん。叔父がリュカを毟るのを見ているしかない。指一本動かせん」


ユーグは顔を上げた。


「だが俺はずっと引っかかっている。叔父はなぜあんなに都合よく、その証言を握っていた。まるで兄が死ぬのを知っていたみたいに。――俺には暴けん。だからあんたを呼んだ」


ノエルはまっすぐに彼を見た。慰めは言わなかった。


「調べます。金の嘘なら数が暴く。死の嘘なら遺されたものが暴く。人は嘘をつきますが、遺されたものはつきません」


「……あんたは俺を、可哀想だと思わんのだな」


「思いません。可哀想がっても嘘は暴けません」


ユーグはふっと息を吐いた。誰かに荷を半分預けた者の息だった。



   * * *



屋敷での日々はしずかに過ぎていった。


ノエルは無理にリュカに近づこうとはしなかった。子供扱いもしなかった。ただ自分の仕事をした。帳簿を検め、書類を掘り、数字を追う。


ある日、その手元をリュカが戸の陰から覗いていた。例によって刺すような目で。


ノエルは顔も上げずに言った。


「あなたの財産がいくら抜かれているか、見たい?」


リュカがびくりとした。


「……ぼくの」


「そう。これは全部あなたのものよ。叔父上がいくら抜いたかここに書いてある。来なさい。自分の目で見ればいい」


狙っているなら隠すはずのものだった。財産を毟りたい大人が、その証拠を子供本人に見せるわけがない。リュカはそれがわかる歳だった。だからおそるおそる近づいてきた。


「ここ、この数字。叔父上は『預かっている』と言うけれど、預かったものは返さなきゃいけない。返した記録はどこにもない。これは預かりじゃなくて抜き取りよ」


「……ぼく、数がよくわからない」


「教えてあげる。数は嘘をつかないの。人は嘘をつくけど、数はつかない。だから数を読めるようになれば、嘘をつく大人が自分でわかる。あなたの財産を守るのは、いつかあなた自身よ」


その日からリュカは、ノエルの隣で数を覚えるようになった。


最初は口をきかなかった。ノエルも無理に喋らせなかった。


けれど数を数えているうちに、リュカのほうからぽつりぽつりと言葉がこぼれるようになった。父のこと。閉ざされた部屋のこと。叔父が来た日は決まって眠れないこと。


ノエルは聞いた。ただ聞いた。励まさず、急かさず。


審問の日が少しずつ近づいた。刺すようだったリュカの目から、いつのまにか棘が抜けていった。



   * * *



ノエルは兄の死を調べていた。


崖の検分書。事故の刻限。当夜、誰がどこにいたか。なかったことにされた紙を一枚ずつ掘り起こした。


帳簿のほうは割れた。叔父は後見の名目でリュカの財産を組織立てて毟っていた。古い記録の奥には、兄が死んだ前後、叔父が素性の知れぬ男にまとまった金を渡した跡もあった。男はまもなく領地を出ていた。


怪しい。限りなく怪しい。だが――決め手がない。


叔父の筋書きはこうだ。ユーグと兄が諍って別れた直後、兄は崖から落ちた。つまりユーグが手を下せる刻に死んだ。


この筋書きを崩すには、「兄が死んだのはユーグと別れたずっと後だ」と刻を証明するものが要る。


けれどその刻を示すものがどこにもなかった。検分書は死亡の刻を曖昧にぼかしてある。叔父が手を回したのだろう。証言も金で口を塞がれている。


ノエルは行き詰まった。審問の日はもう間近に迫っている。


叔父が黒幕だという心証はある。金の流れもある。けれど肝心の「いつ死んだか」が立証できない。それがなければユーグの濡れ衣は晴れない。



   * * *



その手詰まりを、叔父ベルトランは見抜いていた。


ある日、ノエルが一人でいるところへ叔父は再び現れた。今度はにこやかな仮面を半分脱いでいた。


「検財人どの。あなたが何を嗅ぎ回っているか見当はついている。だが無駄だ。何も出てこんよ」


叔父は紙片を一枚取り出した。


「それよりあなた自身のことを調べさせてもらった。生まれは――捨て子、だそうだな。家柄もない。一度所帯を持ったが夫は早くに死んだ。やっと持った家族を失って抜け殻になった女が、他人の死の後始末で食っている」


ノエルは動けなかった。誰にも触らせなかった核を、この男は平然と読み上げていた。


「喪明けの審問でこれを明かしたらどうなるかな。後見の妻が捨て子あがりの借り物の女だと。茶番だと誰もが思うだろう。ユーグの後見資格はそれだけで危うくなる。――悪いことは言わん。今すぐ出ていきなさい。あなたはしょせん借り物だ。借り物の家族など本物にはなれんよ」


その一言が、ノエルのいちばん柔らかいところに刺さった。


借り物の家族など、本物にはなれない。


それはノエル自身が自分に言い聞かせてきた言葉と寸分違わなかった。だから持たない。だから期限つきにする。叔父はノエルが自分に巻きつけた鎖をただ読み上げただけだった。


そしてノエルは気づいてしまった。自分がいつのまにかこの三人を――ユーグとリュカと自分を、「三人」と数えはじめていたことに。期限が来れば消えるはずの関係を、続くもののように思いはじめていたことに。


怖い、と思った。持てば失う。またあの何もない家に戻ることになる。


決め手はない。自分の過去は弱みになる。逃げる理由なら十分すぎるほど揃っていた。


「……出ていきます」


ノエルの声は自分でも驚くほど平坦だった。逃げ道ができたと思った。叔父に追い出されたのなら仕方がない。仕方がないと言えば自分の臆病を見ずに済む。


その夜、ノエルは鞄をまとめはじめた。



   * * *



出ていこうとするノエルに最初に気づいたのはリュカだった。


「……どこ、いくの」


広間で鞄を提げたノエルの前に、リュカが立っていた。あの刺すような目が――戻りかけていた。けれど棘の奥に怯えがあった。


「仕事が終わったの。少し早く。最初から言っていたでしょう。借り物の母親。期限が来たら、いなくなるって」


「まだ、行かないで」


リュカの声が震えていた。


「まだいなくならないって、思ってた。ぼく毎日数えてた。あんたがいる日を。あんた教えてくれたじゃないか。数は嘘をつかないって。なのに、なんで行くんだよ」


ノエルの胸が抉られた。この子は数えていたのだ。自分が教えた数で。一日でも長く、と。


「やっぱりお金だったんだ」


リュカが吐き捨てた。涙をこらえながら。


「叔父さんがお金を出したんだろ。だから出てくんだろ。みんなそうだ。みんなぼくを置いていく」


違う、と言えなかった。お金ではない。もっと卑怯な理由――自分が怖いから逃げるのだとは、九つの子に言えなかった。


ノエルは扉へ向かった。一歩、二歩。


背中に小さな足音が追ってきた。そして袖を強く引かれた。


振り向くとリュカが、胸元の鎖を引きちぎるように外していた。その先に下がった小さな銀の細工物を両手で差し出していた。


「これ」


リュカは声を絞り出した。


「父さまと母さまの形見。もとは母さまのもの。母さまが死んで、父さまがずっとつけてた。父さまも死んで、ぼくがつけてる。ふたりの、たった一つの、かたち。誰にも触らせなかった。叔父さんにもぜったい渡さなかった。ぼくの、いちばんのたからもの」


リュカはその細工物をノエルの手に押しつけた。


「だから、あんたにあげる。いちばん大事なもの渡したら――行かない、でしょ。お金より大事なもの渡したら。お願い。だから――行かないで」


誰も信じられなかった子が。両親の形見を握って、誰にも開かなかった手の子が。その手を、自分から開いた。


この日々、隣で数を数え、ぽつりぽつりと言葉を預けて、少しずつ、この女になら、と思いはじめていた。その積み重ねの果てに、守り続けた、たった一つの宝物を差し出した。


ノエルの手の中で、その銀の細工物が温かかった。ずっと握りしめられていたから。


ノエルはその場に膝を折った。鞄が床に落ちた。そして初めて、その形見を手のひらに載せた。


古い、銀の細工物。表には蔓草の彫り。一見、ただの飾り。けれど、その横に小さな留め金があった。


ノエルの指が止まった。検財人の手が、留め金をそっと押した。蓋が開いた。


中から現れたのは――文字盤だった。蓋の内に隠れた、小さな時計。そして、その針は――止まっていた。ある刻を指したまま。


ノエルの息が止まった。


「……これは」


「父さまが死んだとき、止まったんだって」


リュカが涙の中で言った。


「落ちたとき、ぶつかって。だからぼく、これだけはぜったい離さない。父さまと母さまの、止まった時間が、ここにあるから」


ノエルはその止まった針を見つめた。誰も知らなかった。叔父さえ知らなかった。ただの装飾品だと思って見過ごした。


葬儀の場で、遺児が泣いて握り込んだものを、衆目の前で奪えなかった。そして――中に時計が隠れていることを、知らなかった。


止まった刻。落ちた衝撃で止まった、父の最期の刻。それは――嘘をつかない。


ノエルが来る日も来る日も探して、どうしても見つからなかった、ただ一つの決め手。「兄が、いつ死んだか」。それを、この子がずっと握っていた。意味も知らず。ただ、父と母の、たった一つの繋がりとして。


「……ばか」


ノエルの声が震えた。


「こんな大事なもの、人に渡すものじゃない。これは、あなたのお父さまとお母さまよ」


ノエルは時計をそっとリュカの手に戻した。けれど、その小さな手は握ったまま、自分の両手で包んだ。


「でもね。あなたは、いま、とんでもないことをしたのよ。あなたが守ってきたこれが――あなたのお父さまの、本当のことを教えてくれる。ユーグは、あなたのお父さまを殺していない。この止まった時間が、それを証明してくれるの」


リュカの目が見開かれた。


「行かない理由なら、ほかにもある。わたしが怖がっていただけ。あなたを失うのが怖くて、失う前に逃げようとしただけ。あなたのせいじゃない。お金でもない。わたしが、臆病だっただけなの」


リュカがノエルの首にしがみついた。九つの子が、堰を切ったように泣いた。ずっと息をひそめてきた子が、初めて、子供みたいに声をあげて。


ノエルはその背を抱いた。仕事ではなく。報酬のためでもなく。借り物の母が、初めて、本物の腕で、子供を抱きしめた。



   * * *



階段の上から、ユーグが見ていた。ノエルが鞄をまとめたと聞いて、駆けつけたのだった。そして見た。出ていこうとしたノエルを、リュカが引き止めるのを。ノエルが膝を折って、兄の遺児を抱くのを。


ユーグは降りてきて、二人の前に片膝をついた。子供と同じ目の高さに。


「叔父に、何か言われたな。あんたの過去のことだろう。だから出ていこうとした」


ノエルは答えられなかった。


「俺はずっと、何も掴めずに生きてきた。この家も、この椅子も、全部、預かりものだと思っていた。兄の、いずれはリュカの。掴めば奪うことになる気がして。何ひとつ自分のものにできなかった。兄の死の真相も。怖くて、自分では暴けなかった」


彼はノエルの落とした鞄に手を伸ばし、それを脇へどけた。


「だが、行かないでくれ。報酬のためでも、契約のためでもない。あんたと、リュカと、この家で生きていきたい。借り物でいい。借り物の家族でも、俺たちは――もう、本物だ」


ユーグはノエルの手を両手で握った。生まれて初めて、この男が自分から、何かを掴みにいった。


「それに、一人で行かせるものか。あんたはもう、欠けたピースを見つけたんだろう。その顔に書いてある」


ノエルは手のひらの中の、リュカの手の、その先の形見を見た。


「……ええ。見つけました。叔父さまの嘘を崩す、ただ一つの決め手を。リュカが、ずっと守っていたんです」


リュカが二人のあいだから顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔で、しっかりと、ユーグの手とノエルの手の、両方を握った。


借り物の母と、預かりの当主の手を、兄の遺児が繋いだ。三人の手が、ひとつになった。



   * * *



そして、喪が明けた。


審問の広間に、親族たちが集まった。リュカの財産を毟ってきた者たちが、後見の資格を問う側に回る、白々しい構図だった。筆頭の叔父ベルトランは、勝ち誇った顔で中央にいた。


「では、始めよう。ユーグどのは、家庭を持つ者として後見の資格を主張しておられる。だが、その妻女なる者の素性は――捨て子あがりの、借り物の女。そのような者を妻と――」


「その前に、叔父上」


ノエルが立ち上がった。


「前当主さまの死について、お話があります。事故、とされています。けれど、わたしは検財人。隠された嘘を掘り出すのが生業です」


叔父の顔がわずかに歪んだ。


「叔父上の筋書きはこうです。ユーグさまと前当主さまが諍って別れた直後、前当主さまは崖から落ちた。つまり、ユーグさまが手を下せる刻に亡くなった。――そうですね」


「事実だ」


「では、伺います。前当主さまは、何刻に亡くなったのですか」


叔父は一瞬、言葉に詰まった。


「……検分書にある通りだ」


「検分書の刻はぼかされています。あなたが手を回したからでしょう。死の刻が曖昧なら、ユーグさまが手を下したことにできる。――けれど」


ノエルはリュカに目をやった。リュカが頷いた。そして胸元の形見を外し、ノエルに手渡した。皆の見ている、その前で。


ノエルはそれを掲げ、留め金を押した。蓋が開いた。


「これは、前当主さまの形見。一見、ただの首飾りです。けれど、中には時計が隠れている。前当主さまが落ちた衝撃で、止まったまま。――その刻を、ご覧ください」


ノエルは止まった針の指す刻を読み上げた。


広間がざわめいた。


「これは、ユーグさまが前当主さまと別れてから、ずっと後の刻です。その刻、ユーグさまはすでに屋敷に戻り、複数の使用人がその姿を見ています。つまり――前当主さまは、ユーグさまと別れた直後ではなく、ずっと後に亡くなった。ユーグさまには、手を下せません」


「ぼくが、証人です」


リュカが立ち上がった。九つの子が、大人たちの前で、まっすぐに。


「それは、ぼくがずっと持ってた。父さまの葬式のとき、ぼくが握って離さなかった。叔父さんは、父さまの遺品をぜんぶ持っていったけど、これだけは、みんなが見てる前だったから取れなかった。だから、止まった時間は、誰にもいじれてない。ほんとうの、父さまが死んだ時間だよ」


リュカは叔父をまっすぐに見た。


「叔父さんは、ぼくに言った。父さまを殺したのはユーグだって。ずっとそう信じさせてた。でも、嘘だった。ぼくの時計が教えてくれた。父さまを殺したのは、ユーグじゃない」


叔父は、それでも足掻いた。


「子供の戯言だ。装飾品の中の、壊れた針が、何の証拠になる。針など、後からいくらでも――」


「動かせる、と?」


ノエルが静かに遮った。


「ええ。針だけなら、証拠にはなりません。けれど――前当主さまが亡くなったその刻、あなたはどこにおられましたか。ちょうどその時期、あなたが素性の知れぬ男に渡した金が、帳簿に残っています。男はその後、領地を出た。針のずれと、金の流れ。二つが同じ刻を指している。たまたま一致することはありません。一致するのは、それが本当のことだからです」


叔父の顔から血の気が引いた。


ユーグが立ち上がった。


彼は当主の机の――ずっと座れずにいた、主人の椅子の傍らにいた。そして初めて、その椅子に手をかけた。


「叔父上。あなたは俺に、兄殺しの濡れ衣を着せて縛り、リュカには、仇は俺だと吹き込んだ。二人を憎ませて、ばらばらに操ってきた。その間、この家を食い物にして。――兄を殺したのは、あなただ」


ユーグはゆっくりと、その椅子に座った。背筋を伸ばして。預かりものだと思って座れなかった、その椅子に。


「リュカが成人するまで。この家を、たしかに預かる。あなたの好きにはさせん。――これは、借り物の当主の言葉じゃない。あの子の、後見の言葉だ」


叔父ベルトランに、もう、切る札は残っていなかった。



   * * *



叔父の罪は裁かれた。雇われた男も、やがて見つかった。ユーグの濡れ衣は晴れた。この家に巣食っていた嘘が、すべて掘り出された。


リュカの財産は戻った。そしてリュカは知った。自分を引き取った男が、父の仇ではなかったことを。むしろ、共に父の仇を討った仲間だったことを。


審問が終わり、幾日かが過ぎた、ある朝。


三人は、廊下の奥の、あの扉の前に立っていた。ずっと閉ざされていた、兄の部屋。埃よけの布が扉の前にまで垂れた、誰も触れられなかった部屋。ユーグが、語れない、という顔で口を閉じた、あの部屋。


「開けよう」


ユーグが言った。もう、その声に迷いはなかった。


布を払い、軋む扉を押し開ける。長く澱んでいた空気の中へ、三人で入った。ユーグが窓を開け放つと、朝の光と風がどっと流れ込んだ。止まっていたものが、息を吹き返すように。


リュカが部屋を見回した。父が生きていた場所を。それから、胸元の形見の蓋を開けた。止まった針を、そっと撫でた。


「ねえ、ノエル」


リュカが言った。


「これ、もう、本当のこと、教えてくれた。役目はおしまい。だから――直してほしいんだ。動くように」


「いいの? 止まった時間は、お父さまとお母さまの時間でしょう。直したら、消えてしまう」


リュカは首を振った。


「父さまも母さまも、ぼくが覚えてるから、消えない。時計が止まってなくても、覚えてる。それより、ぼく――時間に、また動いてほしいんだ。止まったまま、じゃなくて」


リュカはノエルを見た。それから、ユーグを見た。


「ぼくたち、みんな、止まってたでしょ。父さまが死んでから。ユーグも、椅子に座れなくて。この部屋も、閉まってて。ノエルも、家族つくらなくて。ぼくも、誰も信じなくて。みんなの時間、止まってた。だから、いっしょに動かしたい」


ノエルはしばらく、その小さな顔を見つめていた。検財人の、細かいものを扱う手で、止まった時計をそっと包んだ。


「……直すわ」


声が震えた。


「ちゃんと動くように、直す。あなたと、ユーグと、わたしの、止まっていた時間も、いっしょに」


リュカが笑った。ノエルがこの家に来てから、初めて見る、九つの子らしい、屈託のない笑いだった。


開け放たれた窓から、光が差し込んでいた。長く閉ざされていた部屋が、明るんでいく。三人で、その光の中に立っていた。これから、また動き出す時間の中に。



   * * *



借り物から始まった家族だった。


暴くために雇われた女と、罪を着せられた当主と、誰も信じられなかった遺児。血の繋がりも、由緒も、何ひとつない三人。本物の家族など、最初からどこにもいなかった。


けれど、あのひと月を、三人で過ごした。互いを守り、互いの止まった時間を、動かし合った。捨て子だった女が、母になった。濡れ衣の当主が、家の主になった。父の仇を恐れていた子が、人を信じた。


ノエルはもう、隠された嘘ばかりを暴かなくてよくなった。


今度は、暴かなくていいもののただなかにいる。そのまま信じていい家族を、ようやく見つけたのだった。


借り物だと思っていたものが、いつのまにか、誰よりも本物になっていた。


返さなくていい借り物だって、この世には、ちゃんとある。

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