第5話:退職願と世界地図
一瞬の静寂の後、ギルドのロビーは悲鳴ではなく、重苦しい沈黙に包まれた。
肉塊と化した鉄甲熊の残骸。
その上に優雅に佇む銀髪の美少女、グラム。
彼女は返り血ひとつ浴びていない白いドレスを翻し、退屈そうに欠伸を噛み殺している。
僕は震える手で、受付カウンターのルナに向かって羊皮紙を差し出した。
「と、いうわけで……ルナさん。これ、受理してもらえますか? 日付は今日付で」
ルナは、目の前で起きた現実離れした光景と、僕の日常的な事務連絡のギャップに脳の処理が追いついていないようだった。
彼女の瞳孔は開ききり、口はパクパクと金魚のように動いている。
「あ、あの、アルヴィンさん……? これ、熊……えっと、辞表……?」
「そう、辞表。一身上の都合により、勇者を辞めます。退職金はいらないから、すぐに受理印を」
「む、無理ですぅぅ!!」
ルナが涙目で叫んだ。
「こんなSランクモンスターを一撃で葬るような『何か』を連れた勇者様の辞表なんて、いち受付嬢の権限で受理できるわけないじゃないですかぁ! ギルド長! 誰かギルド長を呼んでぇ!」
彼女の悲痛な叫びに応えるように、ロビーの奥、重厚な扉が軋みを上げて開かれた。
「騒がしいぞ。昼寝の時間だと言っておいただろう」
現れたのは、全身に歴戦の古傷を刻んだ巨漢、ギルド長ガイウスだった。
彼は不機嫌そうに髭を撫でながら歩み寄ってきたが、床に散らばる鉄甲熊の残骸と、その中心にいるグラムを見た瞬間、その表情が一変した。
鋭い眼光が、グラムを射抜く。
「……ほう。伝説の再現か。まさか、その娘が『災厄級』指定の魔剣グラムか」
「あら、よく知ってるじゃない。でも、訂正してちょうだい。今は『アルヴィンの愛妻』よ」
グラムが冷然と言い放つと、ガイウスの放つ威圧感が一層強まった。
ロビーの空気が、肌を刺すような緊張感に支配される。
「勇者アルヴィンよ。貴様、何をしたか分かっているのか? それは単なる武器ではない。国の、いや大陸の勢力図を一晩で塗り替える『力』そのものだ。
それを個人が所有するなど、国際条約が許さん」
ガイウスの言葉は重かった。
これまで「セシリア王女との痴話喧嘩」や「突発的な結婚騒動」だと思っていた事態が、急速に世界規模の危機へと解像度を上げていく。
「辞表だと? 馬鹿を言うな。貴様は今、核を背負って歩いているようなものだ。ギルドとしても、王国としても、貴様を一般市民として野放しにするわけにはいかん。一生、監視付きで国に尽くしてもらう」
「……は?」
僕の中で、何かが切れた。
一生、監視付き? この押し掛け女房(魔剣)のご機嫌を取りながら、さらに国の顔色まで窺って生きろと?
「ふざけるな……! 俺はただ、平穏に暮らしたいだけなんだ!」
「アルヴィン?」
「グラム、走るぞ! ここはもうダメだ。手続きとか言ってる場合じゃない!」
僕はグラムの手を引くと、踵を返して出口へと駆け出した。
背後でガイウスの怒号が響くが、もう知ったことではない。
ギルドを飛び出し、僕たちは王都の西側に位置する巨大な石造りの橋、『レガリア大橋』へと向かった。
ここは王都と外の世界を繋ぐ唯一の陸路だ。
息を切らして橋の中央まで走り抜け、欄干に手をかける。
眼下には、遥か彼方まで続く荒野と、地平線に沈もうとしている巨大な太陽が広がっていた。
「わあ……綺麗な夕日ね、あなた」
グラムがうっとりと景色を眺める。
その横顔は、世界を揺るがす魔剣とは思えないほど無邪気だった。
「綺麗とか言ってる場合か。見ろよ、あの広さを」
僕は指差した。
王都の城壁の外に広がる、管理されていない野生の大地。
魔物も、未開の部族も、過酷な自然環境も待ち受けている『外の世界』だ。
「俺たちは今、国を敵に回した。もう王都には戻れないし、人の住む街に留まることも難しいだろう。これからは、あの何もない荒野を逃げ回りながら生きるしかないんだぞ」
絶望的な状況確認。
しかし、グラムは僕の腕にギュッと抱きつき、頬を擦り寄せてきた。
「素敵じゃない! 誰もいない荒野で、二人きりのサバイバル生活……夜は星空の下で愛を育むのね? やっぱりあなた、新婚旅行のプランニングも完璧だわ!」
「解釈がポジティブすぎるだろ!」
橋の向こうから、王国の騎士団の馬蹄の音が迫ってくる。
もはや後戻りはできない。
僕は覚悟を決めた。
辞表は受理されなかったが、実力行使で「退職」
するしかない。
「行くぞ、グラム! 目指すは国境越えだ!」
「はい、あなた! 地獄の果てまでお供するわ!」
こうして、元勇者と美少女化した魔剣の、世界を股にかけた逃避行が幕を開けた。
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【登場人物】
- ガイウス: 王立ギルド長 / 歴戦の巨漢
【場所】
- レガリア大橋: 王都の西側に位置する、外の世界へと続く巨大な石造りの橋。
- 外の世界(荒野): 王都の城壁の外に広がる未開の大地。
【アイテム・用語】
- 災厄級: 魔剣グラムのような、一国や大陸の均衡を崩すほどの力を持つ存在に対する危険度指定。




