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三十分だけの再会

――もう一度、あの笑顔に会いたい。


 昨日、玲亜さんが見せたあの微笑みが、頭から離れなかった。

 それがたとえ、猫人の俺に向けられたものだとしても。

 いや、だからこそもう一度、あの距離で言葉を交わしたいと思ったのかもしれない。


 洗面所の鏡に映る自分の顔は、妙に真剣だった。

 頬を叩く。ぺちん、と小さな音。

「……よし。今日も行くか」


 リビングでは、陽鞠がストローをくわえてジュースを飲んでいた。

 テーブルの上にはタブレット、隣にはトリートメント剤。

 完全に“休日モード”の妹が、俺を一瞥する。


「ふーん。その顔、完全に恋の病だね」

「うるさい。別にそういうんじゃ……」

「“別に”とか言う人に限って、表情に出てるの」


 陽鞠はわざとらしく溜め息をつき、ソファに寝転んだ。

「で、行くんでしょ? また猫の姿で」

「……うん。昨日、話せなかったことがあるんだ」

「話せなかった? って、告白でもすんの?」

「ちがう! お礼っていうか……ちゃんと、話がしたいだけ」


「ふぅん、“ちゃんと”ね」

 陽鞠がわずかに笑う。目はどこか優しい。

「まあいいけど、能力制御はもう安定してる?」

「たぶん。昨日の特訓でコツはつかめた」

「ほんとに? 猫耳ピクピクしてるけど」

「これは緊張してるだけだ!」


 妹はわざとらしく肩をすくめ、タブレットを操作しながら言った。

「制御限界は三十分。焦ると毛並みが乱れるから気をつけて」

「……毛並みって言うなって」

「事実でしょ。あと、人間形態に戻ったとき服装が乱れやすいから、下着ちゃんと確認しといてね」

「そういうこと言うな!!」


 笑いながら、陽鞠は冷蔵庫から小袋を取り出した。

「これ、特製サプリ。エネルギー消費をちょっとだけ抑えられる。

 あと、“好きな人の前ではなるべく深呼吸”」

「……それもSランク的アドバイス?」

「ううん、妹的アドバイス」


 その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。

「……ありがとな」

「どういたしまして。頑張ってきなよ」

 ストローの先をくわえたまま、陽鞠がにこりと笑う。

 軽い調子なのに、ちゃんと背中を押すような声だった。


 玄関に立ち、靴を履く。

 耳の奥で鼓動が早まるのが分かる。

 ――会いたい。ただ、それだけだ。

 “もしかしたら惚れられてるかも”なんて淡い期待も、否定できなかった。

 けどそれ以上に、あの銀の髪の人が見せた一瞬の笑顔を、もう一度見たかった。


 ポケットの中でスマホが小さく震えた。

 画面には、陽鞠からのメッセージ。


『三〇分勝負、いってらっしゃい。変身、乱すなよ。』


 苦笑しながら返信する。


『了解。結果は帰ってから報告。』


 玄関の扉を開けると、柔らかな昼の光が差し込んだ。

 そのまま一歩踏み出す。

 心臓が少し跳ねたが、足取りは軽かった。


 ――行こう。

 猫の姿でも、人間でも。

 俺はもう、逃げない。



 桃林市の午後は、雲の切れ間から光がこぼれていた。

 少し風が強く、春の匂いが混ざっている。

 街角を曲がるたび、心拍が少しずつ速くなる。


 胸ポケットの中で、陽鞠が作った小さなデバイスが震えた。

 【変身制限タイマー:30:00】


 指先を軽く鳴らすと、空気が揺らぐ。

 毛並みが生え、耳が伸びる。尻尾がふわりと揺れた。

 鏡越しではなく、今度は街の反射窓に映る自分を見て、小さく呟いた。


「――よし。今日こそ、ちゃんと話す」


 猫耳を立てて、風の中へ歩き出した。


 鏡の前で深呼吸を三回。

 耳、尻尾、声の高さ、全部チェック。

 今日は絶対に、ちゃんと話す。


 猫人の姿になった俺は、こっそりバイト先のカフェに入った。

 客として。

 ただの一客として、彼女と話したいだけだ。

 もう、助けた日の偶然には頼らない。


 夕方のカフェは空いていて、窓際の席に人影があった。

 銀色の髪。穏やかな横顔。

 ――豪徳寺玲亜。

 思わず、心臓が一拍ずれた。


 俺が席に近づいた瞬間、彼女がこちらを見上げる。

「……あなた、この前の猫人さん、ですよね?」

「あ、うん。覚えててくれたんだ」

「もちろん。あの日……本当に、助けてくれたから」


 彼女の声は、前よりも柔らかかった。

 俺は慌てて、少しだけ頭を下げる。

「いや、俺はその……たまたまで。大したことしてないよ」

「ふふ。たまたまで人を助けられる人って、なかなかいないと思いますけど?」

 軽く笑う。その微笑みに、胸が熱くなる。


 彼女が手を膝の上で組み、少し俯いた。

「本当は、あの日のうちにお礼を言いたかったんです。でも、気づいたらあなた、いなくて」

「……ごめん。ちょっと事情があって」

「いえ、私のほうこそ。あの後、少し混乱してて……それに、ちょっと体質的に……」

「体質?」

「いえ、なんでもないです」

 小さく首を振る。その動きに合わせて、銀髪がさらりと揺れた。


 沈黙。

 けれど、不思議と気まずくはなかった。

 彼女が先に口を開く。


「あなた、こうして見ると……話しやすい人なんですね」

「え?」

「猫なのに、なんだか落ち着いてるというか」

「猫なのに……って褒め言葉?」

「もちろん。私、動物は好きなんです。ただ……少し、苦手でもあって」

 そう言いながら、笑って見せた。

 けれど、その笑顔の端が、ほんの少し歪む。

 彼女の指先が、わずかに震えていた。


「……大丈夫?」

「だいじょ……ぶです。あの……あなたに、伝えたいことがあって」


 玲亜が深呼吸を一つして、まっすぐ俺を見る。

「この前、助けてくれてありがとうございました。本当に、怖かったんです。でもあなたが――あのとき笑ってくれたから、落ち着けました」

「そ、そんな大げさな……」

「大げさじゃないです」

 きっぱりと言われて、言葉が詰まった。

 そのまま、彼女の頬が少し赤くなる。

 まるで照れているように見えて、俺の胸が高鳴る。


 ――やっぱり、この姿なら、ちゃんと話せる。

 昨日まで届かなかった距離が、少しだけ近づいた気がした。


「……それでね、あなたに――」

 彼女の言葉が途中で止まる。

 目を細め、手で口元を押さえた。

「……っ」

「どうしたの!?」


「だ、大丈夫……。ごめんなさい、ちょっと鼻が……」


 くしゃみが一度、二度。

 彼女の目が赤くなり、涙がにじむ。

「本当に、ごめんなさい……少し空気が合わないみたいで……」

 そう言って、必死に笑顔を作る。

 俺は何もできず、ただ立ち上がりかけて――

 彼女は慌てて首を振った。


「ちがうの、あなたのせいじゃなくて。本当にありがとう。ちゃんと、伝えられてよかった」

 そう言って、椅子を押して立ち上がる。

 その瞳には、わずかに涙が光っていた。

「ごめんなさい……少しだけ、外に出ますね」


 カラン――。


 ドアベルの音がやけに遠く聞こえた。

 玲亜の姿が外に消えていく。

 俺はその背中を見送ることしかできなかった。


 心臓が、痛いくらいに鳴っている。

 けど、不思議と悲しくはなかった。


 ――照れて、逃げたのかな。


 そう呟くと、尻尾の先がふるりと揺れた。

 彼女の頬の赤み、涙の光。

 全部、そう見えてしまうくらいには、

 俺はきっと、単純なんだろう。


 ――帰り道、風が少し冷たかった。

 空は茜色で、どこかぼんやりしている。


 俺は歩きながら、スマホの画面をちらりと見た。

 「変身残り時間:00:04:12」

 その数字が、まるで現実へのカウントダウンみたいに見える。


 玲亜さんは、最後まで笑っていた。

 頬が赤く、涙がにじんでいて、言葉が少し震えていた。

 ――もしかして、照れてたのかもしれない。

 そう思ったら、少しだけ胸が熱くなった。


 猫人の俺なら、ちゃんと向き合える。

 人間の俺では届かない距離も、この姿なら少しは近づける。

 そんな勘違いを、俺は信じたまま、歩き続けた。


 風に揺れる尻尾が、静かに消えていく。

 今日もまた、変身は終わりを迎える。

 けれど、胸の奥だけは、まだ温かかった。



 玲亜は、店を出たあと、しばらく裏通りのベンチで深呼吸していた。

 マスクを外すと、ようやく空気が軽くなる。

 喉の奥が少しひりついて、目の縁も熱い。

 ――やっぱり、猫アレルギーはごまかせない。


 ポーチから小瓶を取り出し、薬を一粒飲み込む。

 喉を通る苦味と一緒に、緊張が少しだけほどけた。


 カフェのガラス越しに、まだ猫人の姿が見えた。

 彼は、不器用そうに立ち尽くしている。

 まるで、何かを言いそびれたみたいに。


「……ちゃんと伝えられた、よね」

 小さく呟く。

 感謝の言葉は、確かに言えた。

 あの日の借りは、これで終わり。


 そう思えば、少し胸が軽くなる。

 もう、会う理由もない。

 この街は広いし、偶然が重なることも、そうそうない。


 でも――

 頬に残る微かな熱が、完全には引かなかった。

 それがアレルギーのせいなのか、別の何かかは、自分でも分からない。


「……次は、練習しなきゃ」

 思い出したように、小さく笑う。

 近くに控えている学校行事――能力者交流会。

 そこではまた、人前で発言しなければならない。

 こんなふうに、誰かの前で話して顔を赤らめている場合じゃない。


 玲亜は立ち上がり、髪を耳にかけて歩き出す。

 もう一度、息を吸って。

 少しだけ残る甘い匂いを振り払うように、前を向いた。


 ――猫人さん。

 助けてくれて、ありがとう。

 でも、これでおしまい。


 彼女の足取りは軽く、

 その背に、沈みかけた夕陽が静かに差し込んでいた。


「……あの猫人さん、来ないといいな」

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