成長記録と猫アレルギーの夕暮れ
キャットフードって美味しそうだよね
昨日の夜から、頭の中がずっとふわふわしている。
あの花火の下で――豪徳寺玲亜を助けた。
抱きしめた。
しかも、顔が真っ赤になって、息が荒くて……あれはもう、どう見てもそういう反応だった。
(……いやいやいや。ないない。たまたまだろ。花火の熱とか……そう、熱気だ)
そう言い聞かせてみても、頬がにやけるのは止まらない。
どうしても思い出してしまう。あの柔らかい感触と、甘いシャンプーの匂い。
それに、「猫さん!」って呼ばれたときの、あの必死な声。
ベッドの上で、枕に顔を押しつけた。
「……はぁぁぁ、やばい。思い出しただけで死ぬ……」
カーテンの隙間から朝の光が差し込む。
桃林市の朝は、今日も変わらず静かだ。
能力者が多い街だけど、みんながみんな派手なことをしてるわけじゃない。
火を灯せる人も、出勤前にはちゃんとガスコンロを使うし、風を操れる人も普通にドライヤーで髪を乾かす。
それが“日常”になってる。
俺も例外じゃない。
猫人――なんて聞くとすごそうに聞こえるけど、実際はただの変身能力者だ。
しかも変身できるのは猫限定。
犬にも虎にもなれない、猫オンリー。
変身すると、黒髪になって身長が少し伸び、耳としっぽが生える。
身体能力は上がるが、戦闘向きじゃない。
ただ、あの時みたいに――人を助ける時には、役に立つ。
(……キャットフード、買い足しとこ)
昨日の“変身トリガー”を思い出して、苦笑する。
まさか自分の人生で、キャットフードが命綱になるとは思わなかった。
◇
朝食を済ませ、制服に袖を通す。
鏡に映った自分の姿を見て、思わず首をかしげた。
「……こんな顔で、Aランクの人に恋してんのか、俺」
前髪が少し跳ねてる。整えようとしても、どうにも収まらない。
玲亜みたいに完璧にセットしてくる人とは違う。
そもそもAランク能力者なんて、見た目からして“別世界の人間”みたいだ。
昨日は偶然が重なって、助けることができただけ。
今日からまた、いつも通りの日常に戻る。
――そのはずなのに、胸の奥がやけにざわついていた。
(もしかして、今日……バイトに来たり、する?)
そんな淡い期待を抱きながら、俺は家を出た。
◇
桃林西高校――この街では中堅クラスの学校だ。
偏差値も能力値も“平均よりちょい上”。
入学時に全国能力データが照合されて、各ランクが自動で割り振られる。
Aランクが2人。
Bランクが25人。
Cランクが60人。
D〜Fがそれぞれ100人ずつ。
俺はその中のCランク。
中ではまあまあ上位の方で、瞬発力に関してはクラスで一番らしい。
けど、他の項目は並。
能力出力、応用力、耐久性……全部“平均点”だ。
(猫ってのは、瞬発と反応しか取り柄がねぇもんな)
自嘲気味に笑いながら、学校の坂を登る。
校門の前では、朝練帰りの風能力者が、スカートを押さえながら友達に文句を言っていた。
「だから! 風圧調整してって言ってるじゃん!」
「いやー、制御苦手でさー」
そんなやりとりも、もはや日常の一コマだ。
ここでは、能力を“使えるのが普通”。
ただし、発動は意識的に行わなきゃいけない。
怒っただけで火が出たり、くしゃみで風が吹いたりすることはない。
訓練でしか能力は動かないように、制御されている。
俺も同じだ。
キャットフードを食べて、変身を強く意識しない限り、猫の姿にはならない。
だから普段は、完全に“普通の高校生”でいられる。
「おはよう、凡平!」
「よ、八雲。今日も走ってきたのか?」
声をかけてきたのは八雲直。
俺の幼馴染で、Bランク能力者。
風を操るタイプで、学内ではちょっとした人気者だ。
「おう! 今朝のタイム更新だぜ。凡平も走っとけよ、体動かさないと猫になれねーぞ?」
「お前な……俺、猫になるために鍛えてるわけじゃねーし、つーか今日は能力テストだろ? お前またトップ狙うのか?」
「当然。お前も頑張れよ、“瞬発バカ一位”」
「誰がバカだ!」
笑い合いながら校舎に入る。
昇降口の前には、学年主任が立っていて、今日のテスト項目を掲示していた。
⸻
今日の能力評価項目
1.発動速度
2.能力出力
3.操作精度
⸻
(昨日のあれで、感覚は悪くない。反応速度、上がってる気がする)
彼女を助けた夜。
あの瞬間の集中と身体の軽さを、まだ体が覚えている。
もしかしたら、Cランクの中でも“ちょっと上”に行けるかもしれない。
そう思っただけで、少しだけ背筋が伸びた。
――それに。
(もし今日のテスト、いい結果が出たら……玲亜さんに話しかける勇気、出るかもな)
口元が、自然と緩んだ。
誰にも気づかれないように、そっと息を吐く。
能力者の街、桃林。
火のように輝くAランクの彼女と、猫のように地味な俺。
それでも――ほんの少し、近づけたらいい。
そんな希望を胸に、教室のドアを開いた。
チャイムが鳴ると同時に、教室の空気が少しだけ緊張した。
今日は月に一度の「能力評価テスト」。
能力者の街・桃林市では、学生のうちから実力がデータ化される。
学校の成績よりも、この数値を気にするやつが多いくらいだ。
チャイムが鳴ると同時に、教室の空気が少しだけ緊張した。
今日は月に一度の「能力評価テスト」。
能力者の街・桃林市では、学生のうちから実力がデータ化される。
学校の成績よりも、この数値を気にするやつが多いくらいだ。
机の上には、銀色の小型端末が配られている。
腕時計型のそれを手首に装着すると、心拍数や能力出力が自動で記録される仕組みだ。
「はーい、みんな準備してー。最初は“発動速度”の測定からだぞー」
体育教師の古谷先生が声を張る。
能力値の高さがそのまま生活レベルに直結する時代。
先生自身もBランク能力者で、風属性の“加速”を使える。
彼の授業はスパルタで有名だった。
「風祭、準備はいいか?」
「……はい!」
テスト場は校舎裏のグラウンド。
能力で危険がないように、周囲には遮音壁とバリアフィールドが張られている。
順番に呼ばれて、指定の位置に立つ。
発動速度は、“能力を意識してから起動までの時間”を計測するテストだ。
俺の番が来た。
「スタートの合図で発動。いいな?」
「了解です!」
深呼吸。
脳裏に“変身”のイメージを浮かべる。
ただし、ここでは猫の姿にはならない。
発動の“きっかけ”だけを意識すればいい。
――カリッ、の感覚を思い出す。
キャットフードを噛んだあの瞬間。
熱が走り、筋肉が跳ねたあの感覚を、ただ思い出すだけで――
「発動!」
体が反応した。
わずかに耳鳴りがして、指先がぴくっと震える。
端末のディスプレイに数値が表示される。
反応時間:0.28秒
「お、速いな。クラスで五番目くらいだぞ」
古谷先生が眉を上げた。
思わずガッツポーズが出る。
(マジか……!)
心臓が跳ねた。
Cランクにしてはかなり上出来だ。
昨日の出来事が、体のどこかに残っている。
あの時の集中力――あれは、俺の中の“猫の本能”が引き出された結果なのかもしれない。
◇
次は能力出力。
純粋なパワーを数値化するテストだ。
Cランクはもともと「一般人よりちょい強い」レベル。
筋肉や身体能力に少しだけ補正がかかる。
猫人の力はジャンプ力と瞬発力に特化しているが、持続力は低い。
「風祭、ジャンプ台の前に立って」
「はい」
助走をつけて、全力で跳ぶ。
脚に力を込めると、筋肉が一瞬だけしなる。
――ふわり。
視界が一気に高くなり、空気の層が変わった気がした。
着地と同時に端末がピピッと音を立てる。
垂直跳躍:2.31メートル
「おおー! いいぞ風祭! 猫みてぇだな!」
「いや、猫だからな……」
クラスメイトの笑い声に混じって、少しだけ誇らしい気分になった。
◇
3種目目は操作精度。
これは能力の細かい制御を見るテストだ。
火なら温度調整、風なら速度、氷なら範囲。
俺の“変身能力”は基本的に単発だから、精度調整なんてほとんど意味がない。
(せめて変身時間の短縮くらいしか……)
試しに、猫の耳だけを意識して出そうとしてみる。
意識の集中点を頭部に絞り、イメージを固める。
――ぴくっ。
わずかに頭の上で何かが動いた感触。
周りがざわっとする。
「おい、耳出たぞ風祭!」
「やるじゃん猫耳!」
「静かに! ……へぇ、部分変身できるのか。こりゃ評価高いぞ」
先生の声が、わずかに楽しげだった。
(……やった。これ、初めて成功したかも)
頭の上でピクピク動くのがわかる。
すぐに意識を戻すと、耳はふっと消えた。
周りの視線が気恥ずかしくて、思わず顔を背ける。
でも、その恥ずかしさの裏に、少しだけ嬉しさがあった。
◇
昼休み、校舎の屋上で八雲が弁当を広げながら言った。
「いやー、お前今日すげぇじゃん。部分変身成功って、先生も驚いてたぞ」
「……たまたまだよ。昨日、ちょっと集中力の練習しただけ」
「練習? まさか夜中にキャットフード噛んでたりしてな」
「し、してねぇよ!」
焦って返すと、八雲は大笑いした。
でも笑いながらも、どこか真面目な目をして言った。
「でもさ、Cランクでも“磨き方”次第ではBランクも狙えるんだぜ?
先生も言ってたろ、『卒業までにBに行けるといいな』って」
「……言ってたな」
「頑張れよ、“猫代表”」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
俺の力は地味だ。派手さもない。
でも、昨日の夜、あの人を助けられたのは間違いなくこの力のおかげだった。
(少しだけ、誇っていいのかもな)
遠くの空には、昼の光が滲む。
その眩しさの中で、銀髪の彼女の姿が一瞬、浮かんだ気がした。
(……今日も来るかもって言ってたよな?)
胸がどくん、と鳴る。
放課後、またバイト先で会える。
昨日と同じように――いや、今度は“俺として”ちゃんと話してみたい。
そう思いながら、空を見上げた。
◇
カフェ《アズーロ》の夜は、穏やかな照明と焙煎の香りに包まれていた。
昼間のテストを終えた疲労感も、ここに立つと不思議と消えていく。
いつもの制服、いつものマシンの音。
だが、胸の奥では少しだけ特別な鼓動がしていた。
昨日、俺は彼女を助けた。
玲亜はあのあと、何も言わずに炎の階段を駆け上がって行ったけれど――
今思えば、ちゃんと話しておけばよかった。
「実はあの猫人、俺なんです」って。
でもあの時は、そんな余裕なかったし……。
そんな考えが頭を巡るたび、胸の奥がむず痒くなる。
今夜、もしまた店に来たら、きっとちゃんと伝えよう。
「命を助けた恩人ですよ」なんて冗談っぽく。
彼女が笑ってくれたら、それだけで――
「凡平、ラテ三つ! あと抹茶ソイ!」
「了解です!」
スチームミルクの音が立つ。
白い泡の中に、小さく猫の顔を描く。
バイト仲間に「また猫か」と笑われても構わない。
だって、これは俺の“おまじない”だ。
このラテを出す頃、きっと彼女が――
「……っいらっしゃいませ!」
反射的に顔を上げる。
ドアの鈴が鳴り、銀髪が光を反射して揺れた。
豪徳寺玲亜。
昨日の夜と同じ、どこか儚げな表情で立っていた。
心臓が一拍、跳ねる。
「カフェラテ、お願いします」
その声を聞いた瞬間、昨日の記憶が蘇る。
水面すれすれで抱きしめた感触。
火の粉が散る中で見た、潤んだ瞳。
そして――あの、少し赤い頬。
(……やっぱり、来たんだ)
受け取ったオーダーをメモしながら、俺は勇気を振り絞る。
今日は伝えよう。
昨日のあの猫人が自分だったこと。
感謝の言葉なんていらない。ただ、少しでも彼女が安心してくれれば。
「えっと……昨日のフェス、見ましたよ。すごかったです!」
自然を装いながら話しかけると、玲亜は小さく瞬いた。
「……ありがと」
短く、淡々とした声。
特別な表情はない。
それでも会話の糸口ができたことが嬉しくて、俺は続ける。
「花火の演出、最後すごく綺麗で。あの……ちょっと危なかったですけど」
「……見てたんだ」
「え、ええ。あの、落ちそうになって――」
「……」
彼女の眉が、わずかに動く。
何かを思い出したように視線を伏せた。
口を開きかけて、けれど言葉が出てこない。
そして、小さく息を吐くと――
「……あれはちょっと、ミスだったの」
それだけ言って、静かにマグカップを受け取った。
(あ、あれ……?)
思っていた反応と違う。
照れ笑いとか、驚きとか、そんなものを期待していたわけじゃないけど。
でも、あまりにも普通すぎて――いや、少し冷たくすら感じた。
「いつも通り、窓際で」
「……はい」
玲亜はそれだけ言って、視線を外した。
どこか遠い目で窓の外を見つめる。
昨日の夜、俺を見たときの彼女とはまるで違う。
その落差が、胸の奥に妙なざらつきを残した。
◇
休憩時間、カウンター裏でマグカップを洗いながら、俺は深く息を吐く。
――完全に空回りした。
(やっぱり……猫人の俺じゃないと、駄目なのか?)
そんなことを思う自分が情けない。
でも、昨日のあの反応を見たあとでは、そう考えずにいられなかった。
あの時の彼女は確かに、頬を赤くして、息を乱して――
少なくとも“俺”を見て動揺していた。
それが“助けられたショック”じゃなく、“何か特別な感情”だったら。
――いや、違う。
あの時の俺は“猫人”。
姿も声も、今とは全然違う。
そりゃ、気づくはずもない。
彼女にとっては、ただの通りすがりの救助者だ。
洗ったマグカップを棚に戻しながら、ため息をつく。
背後でドアベルが鳴った。
玲亜が帰るところだった。
結局、今日は名前を呼ばれることはなく、笑顔もなかった。
残り香のように残る甘い匂いだけが、俺の周りを漂っていた。
◇
閉店後。
レジを締めながら、八雲からメッセージが届いた。
《お前、今日テンション高かったな。なんかいいことあった?》
スマホの画面を見て、少しだけ笑う。
“いいこと”があったのかどうかは、正直わからない。
でも――
少なくとも、彼女の顔を見れた。それだけで今日は充分だった。
窓の外では、風が静かに吹いていた。
街灯の光が路面に反射して、猫の瞳のように煌めく。
ポケットの中のキャットフードが、カサッと音を立てた。
(……次、もしチャンスがあれば)
俺は小さく笑って、店の明かりを落とした。
◇
(……凡平くんに、やな対応しちゃったかなぁ)
カフェ《アズーロ》を出たあと、街の夕焼けを見上げながら、玲亜は小さくつぶやいた。
空はオレンジ色に染まり、風がやわらかく頬を撫でていく。
その風が、さっきまでいた店の香りを連れてきた気がして、胸の奥が少しくすぐったくなる。
――注文を受けてくれたときの笑顔。
丁寧な言葉遣い。
それなのに、自分は、どうしてあんなに素っ気なくしてしまったんだろう。
(別に、嫌いとかじゃないのに)
むしろ逆だ。
あの店員の柔らかい雰囲気が、心地いいと思っている。
背伸びしないで話せる人って、案外少ない。
でも――気づいたら、少し冷たく返してしまっていた。
「……ちょっとは笑えばよかったのに、私」
自分でも呆れて、苦笑する。
周りからはクールだとか、大人っぽいとか言われるけど、
こうして後で反省してる時点で、格好つかない。
◇
人通りの少ない帰り道。
川沿いの歩道を歩いていると、昨日の夜の風景がふとよみがえった。
――夜空。
――川面に映る花火。
――足が滑って、空が逆さまになった瞬間。
そして、腕に感じたあの温かさ。
(猫さん……一度くらい、ちゃんとお礼言いたいな)
そう思いながら、ポケットの中でマッチ箱を握りしめる。
昨日、橋の上で灯そうとして落とした、火の道具。
拾ってくれたのも、あの猫人だ。
これを返しがてら、お礼だけでも言えたら――。
でも、鼻がムズムズする未来が容易に想像できる。
きっと、話す前に涙目になる。
それなら、やっぱり――。
「……手紙、でも書こうかな」
ぽつりと呟く。
自分らしくない提案に、思わず笑ってしまった。
でも、それくらいしかできない。
感謝を伝えるだけでいい。
それくらいじゃないと目と鼻が限界を迎えちゃうと思うから。
◇
夕暮れの風が吹き抜ける。
川面に映る光が、ゆらりと揺れた。
遠くで猫の鳴き声がして、玲亜は一瞬だけ立ち止まる。
心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。
そして、鼻がムズムズした。
「……やっぱり無理」
苦笑して、歩き出す。
でもその頬には、少しだけ笑みが浮かんでいた。
(猫人さん、本当にありがとう。……できれば、もう会わないで済みますように)
そう願いながら、玲亜は暮れゆく桃林市の街を歩いていった。
(だって……猫だったんだもん)
ブクマありがとうございます!!
大変励みになります!次回もお楽しみに!




