日常の破壊
実質本編1話目です。
「よっしゃー!今日も完食!」
環輪はどんぶりの底に残ったスープを一滴残らず飲み干すと、満足げに息を吐いた。彼の目の前には、空になったラーメンどんぶりが無数に積み上げられている。ここは環輪が部長を務める「ラーメン部」の聖地と呼ぶべき場所だ。
環輪、高校3年生。彼の所属するラーメン部は、一般的な運動部とも文化部とも一線を画す異色の存在だった。部員は環輪の他に、2年生の男子部員が1人と、紅一点の1年生女子部員が1人の計3人。活動内容はシンプルだ。「うまいラーメン」を調査し、食べに行くこと。そして、もう一つ重要なのが「末長くラーメンとの人生を歩むためラーメンで得るカロリー以上の運動をこなす」こと。つまり、運動と文化活動が融合した、まさにハイブリッドな部活動なのだ。
「部長、今日のラーメンも最高でしたね!」
2年生の男子部員が目を輝かせながら話しかけてくる。環輪は「だろー?」と得意げに笑った。しかし、その笑顔の裏には、どこか寂しさが滲んでいた。隣では、1年生の女子部員がまだどんぶりと格闘している。
「さてと、皆。大事な話があるんだ。」
いつもの陽気な声とは違う、少しだけトーンの低い環輪の声に、部員たちのざわめきが止まる。環輪はゆっくりと立ち上がり、部員たちを見渡した。
「俺、環輪は、今日でラーメン部を引退します!」
部室に静寂が訪れる。誰もが言葉を失い、環輪の顔を凝視した。無理もない。これまでラーメン部を牽引してきたのは、紛れもなく環輪だったからだ。
「え、部長、嘘でしょ!?」
1年生の女子部員が驚きの声を上げた。2年生の男子部員も、信じられないといった表情で環輪を見つめている。
「受験生だからな。さすがに、ここからは受験勉強に専念しないと、志望校に受からない。ラーメン部の活動は、みんなに任せるよ。」
環輪は努めて明るく振る舞ったが、その声は微かに震えていた。ラーメンは、彼にとってただの食べ物ではなかった。仲間との絆であり、青春そのものだったのだ。
環輪は、ラーメン部の部室を後にした。背中には、やり切った充実感と、仲間との別れを惜しむ寂しさが同居していた。2年生と1年生の後輩たちが、名残惜しそうに彼を見送る。
「部長、いつでも顔出しに来てくださいね!」
「引退しても、ラーメンの情報交換はしましょうね!」
そんな声が聞こえてくる。環輪は手を上げて振り返り、笑顔で応えた。
「おう!お前らも、ラーメン道に精進しろよ!」
部室のドアが閉まる音を聞きながら、環輪は深く息を吐いた。彼の高校生活は、このラーメン部を中心に回っていたと言っても過言ではない。入学当初、特にやりたいことも見つからず、なんとなく入部したラーメン部。それが、いつの間にか彼の生活の一部となり、かけがえのない仲間たちとの出会いの場となった。
ラーメンを食べるために何キロも歩いたり、食べ過ぎた分を消費するために深夜までランニングしたり。時には、新しい味を求めて遠征したりもした。ラーメンを通じて得た経験は、彼を大きく成長させてくれた。体力だけでなく、どんなに困難な状況でも「美味いラーメン」という目標に向かって努力する精神力も培われた。
しかし、高校3年生の夏が近づき、受験という現実が目の前に立ちはだかった。志望校合格のためには、これまでのように部活動に時間を費やすわけにはいかない。それは、ラーメン部の仲間たちも理解してくれていた。
少し湿っぽい気持ちを抱えながら、環輪は慣れた道を歩く。夕暮れの空が、部活動引退という彼の人生の節目を、静かに見守っているようだった。家に着くまで、彼はぼんやりと今日のラーメンの味を反芻していた。豚骨の濃厚なコク、麺の歯ごたえ、トッピングのチャーシューの柔らかさ……。そして、ふと、ラーメン部の活動がない明日からの生活に、少しだけ空虚さを感じた。
「ま、なんとかなるか。受験も、ラーメン道と同じだろ。目標に向かって突き進むだけだ!」
そう呟き、商店街の喧騒に目をやる。買い物帰りのおばちゃんや、友達と笑い合う学生たち、焼き鳥屋の煙と香りが漂ってくる。いつもの夕方で、いつもの賑わい。なのに、なぜか胸の奥に妙なざわつきがある。
「ん? なんだ、この感じ…?」
急に背筋がゾクッとした。空気が急に重くなったような、変な圧迫感。気のせいか? 周りを見回す。商店街はいつも通りだ。子供が母親の手を引いて歩き、八百屋のおっちゃんが大声で野菜の値段を叫んでる。誰も変なことには気づいてないみたいだ。
「気のせいか…?」
そう呟いた瞬間、上空で異様な音がした。ビリビリッ、という、布が裂けるような鋭い音。見上げると、夕暮れのオレンジ色の空に、まるで空間が割れたような黒い裂け目が現れる。ギザギザの隙間が広がり、まるで誰かが空を無理やり引き裂いたみたいだ。
「何だ、あれ…!?」
心臓がドクンと跳ねる。周りの人たちも気づいたらしく、商店街が一瞬でざわめきに包まれる。子供が母親の服を掴み、買い物袋を持ったおばさんが立ち止まって空を見上げる。誰かが「何!?」と叫ぶ声が聞こえる。嫌な予感が全身を駆け巡る。
次の瞬間、その裂け目から何かが出てきた。
ドン!
地面が震え、商店街の喧騒が悲鳴に変わる。裂け目から現れたのは、動物園で見たライオンよりも一回り大きい、黒い化け物だった。全身が漆黒で、まるで影が生き物になったような姿。赤い瞳が血のように光り、鋭い牙と爪からは凶暴さが一目で伝わってくる。低く唸る声が空気を震わせ、俺の足が一瞬すくむ。
「なんだよ、こいつ…!?」
心の中で叫ぶ。こんな化け物、見たことねえ。映画やゲームの中ならともかく、こんな普通の商店街に現れるなんてあり得ないだろ! 頭が混乱する。でも、近くにいた小さな女の子が泣き叫んでるのを見た瞬間、体が勝手に動いた。
「危ない!」
俺は咄嗟にその子を抱きかかえ、地面を転がるようにして化け物の爪の軌道から逃れる。アスファルトに肩を打ちつけ、痛みが走るけど、そんなの気にしてる場合じゃない。女の子が震えながら俺の服を掴む。
「大丈夫、怖くないからな!」
俺はそう言いながら、女の子を近くの母親らしき人に預ける。化け物が咆哮を上げ、商店街の地面を爪で引き裂く。アスファルトが砕け、近くの屋台が倒れる。悲鳴が響き、人々が逃げ惑う。子供たちが泣き、誰かが「逃げろ!」と叫ぶ。
「くそっ、どうすりゃいいんだ…!?」
心の中で叫ぶ。武器も何もない。こんな化け物にどうやって立ち向かうんだ? でも、さっき体が勝手に動いたみたいに、なんか…逃げるって選択肢が頭にない。商店街の人たちがパニックになってる中、俺は拳を握り、化け物を見据える。
「お前、何者だよ!?」
心の中で叫びながら、俺は化け物と向き合う。どうやって戦うかなんて分からない。
「どうすりゃいいんだよ!?」
ラーメン最高