【5】
「三幸くん……。お久しぶり」
「うん。久しぶり……。元気そうでよかった」
紗代は驚いた様子も、拒絶する様子も見せなかった。かといって、嬉しそうな様子もない。
「うん。元気よ……。三幸くんのこと、弟さんから聞いたわ。なんて言ったらいいのか……。このたびは御愁……あ、ごめんなさい。本人を目の前にして……」
「いや、いいよ。かなり特殊な状況だし」
「……そうよね」
「あんまり、驚かないんだね」
「あのね、実は……この前から、羽が生えている人を見たって、幸輝がずっと言っていて。そのときに不思議なんだけど、なんだかすごく、あなたのことを思い出したの」
授業参観の日とか、この間の土曜日のことか。幸輝は……スズキのことが見える?
「そうしたら弟さんを名乗る人から電話をもらって……。先日はご家族の皆さまで幸輝に会いにきてくれて……」
紗代は目頭を押さえた。
「……私のことを怒っているわよね?」
「俺には怒る理由はないよ」
「私……何も言わないで、あなたの前から消えた。幸輝のことも知らせずに勝手に生んだ」
「それは……紗代のせいじゃないだろ。紗代は悪くない。……色々な責任から逃げていたのは俺だから……」
「うん……。だからそれが……一番つらかったの」
「……」
「昔、つき合っているときに……あなたは家族の話を避けてたよね。だから、何かあるんだろうなって思ってた。それとなく将来の話をふっても、気がつかないふりをしたり、黙りこんじゃったりしたから」
「ごめん……」
「ううん。責めてるわけじゃなくて。……だから、家族を持つのがイヤ……っていうか、怖いのかなって思ってた。だけどね……私なら、そんなあなたを変えられると思ってたの。今から考えると……とても傲慢よね。どこにそんな自信があったのかな……。でもね……いざ幸輝を妊娠していることが分かると……。急に怖くなっちゃって」
「……」
「あなたが私たちを拒絶して、どこかへ……ここからいなくなってしまうんじゃないかと思って。とても、怖かった」
「そんなことは……」
ない。とは、あの頃の俺には言えたのだろうか。幸輝を妊娠したことを知らされて紗代と結婚をしたとしても、当たり前のように、当たり前の家庭を築いて、ふたりを守っていくことは出来たのだろうか。
「傷つきたくなかったの。そうなったら私は……耐えられないと思った。だから自分から消えた。弱かったの。勝手よね」
「……」
「本当にごめんなさい」
身体の前におろした両手を合わせ、紗代は頭を下げる。
……なんで、紗代が謝る?
頭の中が真っ白になって、咄嗟に彼女よりも深く頭を下げた。
「紗代は何も悪くない。むしろ俺が悪い……! 俺は、紗代が愛想を尽かしたんだと思いたかったんだ。いなくなったのは紗代が決めたことだって。だから俺は今まで……なにも、なにも、考えてこなかった。今さら謝って済むことじゃないけど、それはわかってるけど、本当にごめんなさい。紗代がそんなことを考えていたなんて……そこまで思い詰めていたのに何も知らないで……知ろうともしなくて……俺のほうが……本当に最低で……ごめん! 今さら許してほしいとか、そういう図々しいことじゃなくて……紗代は謝る必要はないから……謝らないでほしい……」
自分でも何を口走っているのかと思うほど、感情のままに気持ちを吐き出してしまった。
しばらくそのままで頭を下げていた。顔を上げて紗代を見るのが怖かった。
「三幸くん……なんだか、十年前と雰囲気が変わったね。やわらかくなったというか……」
その穏やかな声に顔を上げる。
紗代は泣いているように微笑っていた。
「そう……かな?」
「うん」
「紗代はあの頃のままで……今でも……今のほうが……ずっと綺麗だ」
「ふふふっ。ありがとう。お世辞でもうれしいわ」
「お世辞なんか言えないのは、知ってるだろう?」
「そうだったかしら? 三幸くんて意外と外面はよかったから」
「そりゃ、営業をやってれば多少はさ……」
「冗談よ。わかってる」
目尻と一緒に眉毛も下がる、昔のままの笑顔に……安心する。
「……あのさ……それから幸」
「私ね、来月に結婚するの」
「……」
口に出しかけていた言葉は宙ぶらりんに喉の奥を塞いだ。
「仕事で知り合った人なんだけど、幸輝もよく懐いていてね。お父さんができるのが嬉しいみたいで。気が早いけど、もうパパって呼んでるのよ」
「あ……そう……なんだ」
「その人は私の事情もよく理解して……支えてくれてるの」
「そう……うん…………おめでとう」
喉の奥に引っ掛かったままの塊をなんとか端に寄せて、それとは別の言葉を搾り出す。
「ありがとう。そう言ってくれて……嬉しい。だから……ね、あなたが私と幸輝にって残してくれた通帳は受け取れない」
「……」
「十年前は、もしかしたら私たちを探してくれるかもなんて……。そんな甘い期待を少しは勝手にしていたの。でも……あれからもう十年が経った」
「うん……」
「こうやって……夢の中だとしてもあなたに会えて……よく解ったの。私たちはやっぱり、十年前に終わっていたんだって。幸輝を育てたのはね、私なの」
「それは……うん、あの……でもさ……大した金額じゃないんだ。金はあって困るものじゃないし……」
「それは身に染みて分かっているわ」
「……だったら、幸輝の将来のためにでも使ってくれれば……」
「ありがとう。その気持ちだけは受け取っておく。でもね……」
紗代はあの頃のように真っ直ぐに俺を見た。
「幸輝は、私とあの人とで育てたいの」
☆.・.★.・.☆
「いかがですか? そろそろ逝きましょうか?」
さらに高みの空を見上げながら陽気に言い放ったスズキと、スカイツリーのゲイン塔の天辺にいた。いつもと同じように端に座って、ぼんやりと都心の夜を眺めている。
スカイツリーのライトアップが終了した後にゲイン塔に点る灯りは、一昨日からは「宝石のルビーの赤ですよ」と、スズキが言った色に変わっていた。
「……」
「紗代さんの花嫁姿は綺麗でしたね。お相手の方も実に誠実そうでした」
目を閉じてうんうんと頷きながら微笑んでいる。式の光景でも思い出しているのだろう。
「……」
相手の地元の神社で執り行われたのは、こじんまりとした神前式だった。角隠しを被った白無垢姿の紗代は綺麗で……幸せにオーラがあるとするなら、そういったもので輝いていた。幸輝は三つ揃いのスーツを着ていた。嬉しくてたまらないという満面の笑顔を浮かべて、父親になる男と紗代に手を繋がれていた。見ているだけで胸の中からあたたかくなるような、本当に……いい式だった。
『幸輝は、私とあの人とで育てたいの』。そう言った紗代の表情は穏やかで晴れやかだった。今がとても幸せなのだと、よく解った。
紗代はその言葉のとおりに金は受け取らず、母さんたちに一言を添えて返した。「いつでも幸輝に会いに来てくださいね。私も……夢で逢えました」と。
母さんと義父さんなら……もし、いつか必要なときが来たら、幸輝のためにそれを使ってくれるだろう。紗代がそれを受け取るかどうかは分からないけど。それはまた、別の問題だから。
もう……大丈夫だ。俺が心配することは何もない。
「おや? 泣いているのですか?」
スズキがわざとらしく覗き込んでくる。軽く睨むと口角を上げてニヤリと笑った。
「紗代さんには、張り手以上の強烈な打撃を喰らってしまいましたね。いや、お見事でした」
スズキ、意外と性格が悪いな。
「そこはさ……放っておいてくれよ」
「いえいえ。私はいつでも真心サービスの安心案内、お心に寄り添う霊界ガイドですからね。……これでもお慰めしているのですよ」
どこがだよ。少しイラつく。
「あのさぁ……。同じ年代のおっさんに慰められても嬉しいわけがないからな」
「えっ!? 私はあなたよりも十歳以上は若いのですが?!」
衝撃の告白だった。
「ウソでしょ!? スズキさんいくつなの?」
「地上の年齢に換算すると、二十八歳でございます」
これで?! あまりにも……不憫だ。
「あ、なんですか? その表情は?」
「いや、なんでもない……」
「なんでもないという表情ではないですよね。それにですね、我々には基本的に性別はありませんから」
そう言ったかと思うと、目の前でポンと光が弾ける。眩しくて瞬間的に目を瞑った。
「ほら、これならどお?」
どこかで聞き覚えのある声がしたかと思うと、アイドルやタレントに疎い俺でも知っている、日本全国老若男女に大人気の「のあ」ちゃんがそこにいた。
舌足らずな喋り方で片目を瞑り、某レストランの少女マスコットのように舌を出して、ピースサインを作った手のひらを上に向けながら、その腕を前に伸ばしている。これ、ギャルピース……っていうんだっけ?
だけど襟元が詰まったスーツとネクタイ、ロイド眼鏡はそのままだった。
いや、確かに「のあ」ちゃんは可愛い……可愛いよ。
スズキなりに……慰めてくれてるつもりなんだろう……けどさ、なにこれ?
「中身はスズキさん、なんだよね?」
「はい。もちろんでございます」
ぴしっと姿勢を正して眼鏡を直す。
「いや、うん……。気持ちだけは受け取っておくわ……」
「ええぇ! 嬉しくないのぉ? 喜んでくれるかと思ったのにぃ」
「あのさ「のあ」ちゃんは文句なしに可愛いよ。でも、中身はスズキさん……じゃん。可愛いなんて思ったら逆にヤバいでしょうよ。っていうか、中身知ってて可愛いなんて思えるわけがないし。逆に訊きたい。俺にどうしてほしかった?」
「そんな~! スズキ、恥ずかしかったけど、元気になってほしくって頑張ったのにぃ! もぉう、あなたって本当に乙女心が解らない人なんだからぁ~」
拗ねたように頬を膨らませる。……が、ちょっと待て。どう見てもノリノリで、恥ずかしがっている様子なんかまったくない。
「いやいやいや。それ、俺のことにかこつけて楽しんでるだけでしょ。それに乙女心って……草生えるわ」
「なんかひどい言い方~。そんなこと言っちゃうんだ。スズキ、泣いちゃうからね。あなたなんか、次に生まれ変わるときには『女性』を選んで、あなたみたいな人にひっかかっちゃえばいいのにぃ~!」
おいおい……今、それを言うか。
「あのさぁ。それは洒落になってない……マジで。傷口にハラペーニョどころかジョロキア。なんならキャロライナ・リーパーなんだけど」
「うーん、でもぉ。へんに優しい言葉を掛けられるよりもいいでしょ?」
「……」
「ね?」
頬に人差し指を充てて首を傾げ、上目遣いで俺を見るスズキタロウ。
……わかった。もう、いいや。スズキなりの気遣いを受け取って、中身は考えないことにしよう。
「それとさ、逝く前に……ちょっと訊きたいんだけど、いい?」
「お答えできる範囲ならいいですよぉ。どうぞ?」
「幸輝……スズキさんのこと、視えてたの?」
うーん、と唇に人差し指を充て考えている。なりきってんな……。
「そうですねぇ。はっきりとではないかも知れないけど。たまにね、小さい子どもにはいるんですよぉ。私たちを視える子が。大抵はある程度の年齢になっちゃうと、自然と視えなくなっていきますけどね」
そうか……じゃあ。
「俺のことはどう? 視えてた?」
「そうですねぇ。微妙なところかなぁ。影くらいは感じてたかも」
……そうか。
「まあ、年に一回、夏に里帰りのチャンスがありますからね。その時に期待しましょうね」
スズキは「ほかには?」と訊いてきたが、もういいかな。
「大丈夫ですかぁ? では……そろそろいい頃合いかと」
そう言いながら、バサリと二枚の白い翼を広げる。広げると意外と大きいんだよな。この翼。
「これからまず、門に向かいますね。ゆっくりと行きますから、迷子にならないようにしっかりと私の後ろからついてきてくださいね。途中に、今後の流れを色々とご説明しますから」
「なんか……大変なの?」
「いえいえ。そんなことはありませんよぅ。いつでも真心サービスの安心案内ですからね。なにも心配せずに、霊界ガイドのスズキタロウにお任せくださいね。快適な旅をお約束しますよ!」
そういえば……
「性別がないのに、なんであの姿と名前なの?」
「ああ! それはただの趣味ですよ」
趣味かよっ?!
「さあっ! それでは元気よく逝きますよぉ~!」
「へーい」
白い翼がバサリと大きく羽ばたいた。足を蹴って、ふわりとその後ろへと続く。
相変わらずに箱庭やミニチュアのようで、ビルの影は歪な茸の塊でゴマ粒のようだけど、足元に拡がるは無数の灯り。生活の灯火。
その灯りの中のひとつひとつに誰かがいて。あの中のどれかひとつに紗代や幸輝、母さんたちがいる。そう考えるともう、ムスカの気持ちは解らないな。
★.・.☆ END ☆.・.★
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
応援してくださった皆さま、タイトルを開いてくださった皆さまに感謝します。