【3】
「考え事をする時にも、ここはいいところですよね」
スカイツリーのゲイン塔の天辺。
端に座り、脚をぶらぶらと空中に投げている。今日は昨夜とは違い快晴とまではいかなかった。さらに見上げた空の上には、あちこちに白く薄い雲が伸びている。子どもの頃は、雲は綿アメで出来ていて、甘くて美味しく、上に乗って遊べるものだと信じていた。
子ども……か。
幸輝は俺と紗代の子どもだった。
「口元と鼻はあなたにそっくりでしたね。あと、頭の形も。ご存知ですか? 頭の形も遺伝するんですよ」
なぜか得意そうなスズキは、ツタンカーメンの頭蓋骨の話を楽しそうに滔々としている。
「あのさ、なんで……会わせたの?」
古代エジプトの王家のなんちゃらにまで話が広がり始めたので、長くなりそうだと踏んで遮った。
スズキが俺を紗代のところに連れていったのは偶然じゃない。確信犯だという気がしていた。
「……私、名刺をお渡ししましたよね」
「『いつでも真心サービスの安心案内 あなたのお心に寄り添います』。っていう……」
「はい。そのとおりでございます。このままあなたを霊界までご案内しても、紗代さんと幸輝くんのことも浄玻璃の鏡で映し出されますから。そのときに知っても……何もできません。もう遅いですからね」
「もう遅い……」
口の中で繰り返す。今に知ったところで既に遅いんじゃないか、とも思う。俺は死んでしまった。ならば、もう何も出来ないのは変わらない……。
十年間。代わり映えのしない緩慢な日々を過ごしていた。その間に、紗代は幸輝を産み育てていた。
紗代に似たかわいい男の子。俺の……子ども。
二人はアパートからそう遠くはない地域に住んでいた。
ミニチュアのような下界と、風に流されて形を変えていく雲を交互に眺めて考える。
……今さらだけど。ふたりの為に出来ることなんてあるのだろうか?
それに……浄玻璃の鏡。そんなの本当にあるんだな。
「ありますよ。別に地獄にある訳じゃないですからね」
「スズキさん……あんた本当は俺の心を読んでるでしょ?」
スズキは肩を竦めただけだった。
そういえば……アレはどこにあるのだろう。
「必要な荷物はまとめてご実家に送られていますよ」
「実家か……」
蒸された空気に邪魔をされて霞んでいる、遠くに連なる山々の白っぽい灰色の影。その向こう側。
「あの、公序良俗に反しない限りは願いを叶えてもらえるんですよね?」
「まあ、ものによりますが、出来る限りは善処させていただきます」
「ちょっと……相談があるんですけど」
☆.・.★.・.☆
「よお……元気? 俺のこと、分かる?」
何と言っていいのか分からずに、重い空気を避けるべく軽めに声をかけてみた。
夢の中で再会した弟は、二重の切れ長の目元が母さんによく似ていた。細面な輪郭にすらっとした身体つきの、背は俺よりも若干高いくらいか? いい歳をした大人の男になっていた。二十二年ぶりに見たのだから当たり前の話だが、やはり驚く。昔の面影があるかどうかもよく判らない。
「……兄さん?」
「ああ」
「兄さん」。そう呼ばれるのも面映ゆく落ち着かない。「兄」らしいことは何ひとつもしてこなかった。その自覚があるだけに、こんなところにノコノコと出られたものじゃないことはよく理解している。
それにしても……よく俺のことが分かったもんだ。もし街ですれ違ったとしても、俺は絶対に弟には気が付かなかったことだろう。
「……」
真っ直ぐにじっと見つめてくるまま、弟は何も言わない。沈黙が気まずくて口を開く。
今さら図々しいとは解っていても……この為に来たのだから。
「あのさ、俺のアパートの部屋とか荷物とかの事後処分をありがとな。迷惑をかけてすまなかった」
深々と腰を折る。
仕事で忙しい中にわざわざ母さんと上京してくれたと、スズキから聞いた。疎遠だった「兄」の身元確認や葬儀の手配やら、暮らしていた部屋の解約手続きや荷物の処分、大家さんと職場への挨拶などなど。かなりしちめんどくさいことをやってもらったようだ。弟にとっては本当にいい迷惑だったことだろう。
「……」
「それでさ……こんなことを頼める義理じゃないのは重々承知の上で、さらに手数をかけて申し訳ないと思っているんだが、ひとつ頼まれて」
「なんでだよ?」
怒りを押し殺したような低い声に、途中で言葉が止まる。
そうだよな……。
これ以上のめんどう事を押し付けられるのは、心底迷惑以外のなにものでもない。俺もそう思う。
「あー……。本当に虫のいい話なんで、大変に申し訳ないと思ってる。先に謝っておく。すまない……。だけど、なんでと言われても、俺はもう死んでいるからお前に頼るしかなくて。母さんはもういい歳だし、な。今までのことを考えるとこんなことを頼めた義理でもないんだけど」
「なんの話をしてんだよ? 俺はなんで死んじまったのかを訊いてるんだよ!」
……?
「ずいぶんと勝手じゃないか! 出て行ったきり自分からは連絡も何もしてこなくて! 一度も家に帰ってこなくて! 挙げ句の果てに勝手に死にやがって! 俺たちがどんな気持ちだったのか考えたことはあるのかよっ!?」
顔を真っ赤にして目を充血させて睨んでくる。
母さんとその旦那と異父弟の気持ち……なんか考えてみたこともなかった。居心地の悪いこの場所を早く棄てたかった。ただ、それだけのことだった。それに……。
「俺みたいな異物はいないほうが、家族水入らずで仲良くできるだろ?」
「……んだよ、それ……」
もの凄い形相でつかつかと距離を詰めてきたと思ったら、拳を振り上げた。あ、マズイと思ったときには既に遅く、襟元を掴まれて左の頬を殴られた。そこまで痛さは感じなかったが、殴られた瞬間には、目の前にキラキラとした白い星が散った。
「兄さんは……大馬鹿野郎だ」
絞り出すように言う。
「父さんは……あんまり口には出さなかったけど、ずっと兄さんのことを気にしてた。俺だって……」
「……」
「兄さんは知らないだろうけど、母さんと俺は東京まで何回か様子を見に行ったよ」
「……そうなのか」
まったく知らなかった。
「声はかけなかったから。母さんも……再婚して俺を産んで……。兄さんがどこか馴染めないでいるのを解っていたから。負い目を感じてたと思う。怖かったんだろうな……。下手に踏み込んですべてを拒絶されるくらいなら……今の距離でいたかったんだと思うけど」
「……」
「それなのに……言いたいことも言わせないで……言わないで……勝手に死んじまいやがって」
大馬鹿野郎……。しっくりとくるな。俺は確かに、そうなのだろう。
紗代が消えたとき。単に俺に愛想を尽かしただけなのだと思いたかった。すべてをなかった事にして消えた彼女のほうこそが、無責任だと思いたかった。
棄てられたのは俺だ。そんなふうにして被害者ぶっておけば、可哀想な俺にしておけば、狡くて自分勝手な振る舞いからは目を逸らすことができる。つまり、自分のことしか考えていなかった。
紗代の性格をよく考えるのならば……よほどのことがない限り、黙っていなくなることなどない。幸輝を身籠ったから姿を消した。独りで産み育てることを選んだのだ。
俺は……怖かったから。
「なに笑ってんだよ?」
「これは……自嘲ってやつだよ」
殴られた左側の口角を親指で拭う。
「はあ? 意味わかんねーし!」
「だよな……」
結局のところ、俺は自分が動いて傷つくのが怖い小心な臆病者に過ぎない。
父親みたいには絶対になりたくないと思っていた。無責任で弱くて、挙げ句の果てに逃げた男なんかに。でも現実はどうだった? 俺は同じ轍を踏んでしまった。
もう……同じことは繰り返さなくてもいいだろ?
深く呼吸をはき出す。
「よしっ! 分かった! 言いたいことを全部言ってくれ。全部聴く!」
「はあっ?! ますます意味わかんねーし!」
「まあ、そう言うなよ。これで……本当に最後なんだから。なっ?」
「……分かった。全部洗いざらい言ってやるからな! そっちも言いたいことは言えよ!」
一瞬、複雑そうな表情を見せもしたが、それでも睨みながらも凄んでくる。そのことに頼もしさを感じる一方で、ストレートに気持ちをぶつけることが出来る強さを羨ましいとも感じた。
気が付くと……子どもの頃に近所の友だちと遊んだ公園のベンチに二人で腰を掛けていた。
長くなることを見据えて、殺風景な空間から背景を変えてくれたらしい。スズキの気遣いだろう。
それからかなり長いこと愚痴や恨み節を聴いた。驚いたことに、十も歳の離れた兄は憧れだったらしい。それなのに、自分には関心がないように振る舞われて傷ついていたこと。物が分かってくる歳になると、家に漂う微妙な空気に気がついたこと。俺に気を使う父親や母さんに、もどかしさを覚えていたことなど。
一通りを喋り終えると「次は兄さんだ」と促された。
「……母さんを盗られたと思ってた。とんだマザコンだよな。正直に言うと、自分の気持ち以外は……誰の気持ちも、何も考えてなかった」
「そうか……」
呆れたような落胆したような、なんだか力の抜けたような声だった。
そうだろうなぁ……。言葉にして口に出すと、我ながら子どもじみている理由だった。自分でも呆れる。
「だけど……俺がもし、兄さんの立場だったら……」
母さんによく似た目元が哀し気に下がっていた。
「……同じだったのかもしれない」
思わず弟の顔をまじまじと見る。
「それでさ、どういう状況だったわけ? 一応警察からは事故の説明はされたけど……兄さん本人の口から聞きたい」
視線を逸らして、わざとらしく大きな声を出すと話題を変えてきた。
「……ああ、あのな……」
スズキから聞いていた話をそのまま繰り返して伝える。「なんで……?」と、神妙な様子でさらに問われる。
「なんで助けようなんて思ったの? トラックの前にわざわざ飛び出すなんて、どう考えたってヤバいでしょ」
普通に考えたら、そうだよな。
「俺さ、事故当時の記憶がないんだよね」
まだ、その時の記憶だけは思い出してはいなかった。だけどそれはそれでいいと思っている。わざわざそんなゾッとする瞬間を思い出したくもないしな。
「そうなの?」
「どうも事故の衝撃で覚えていないらしくってさ。だけどな、思い当たる理由がない訳でもなくて……」
モク。仔犬のときに棄てられていたのを拾った中型の雑種犬だ。
母さんが再婚する前の家で飼っていた。
長めの毛並みは白色で、所々に薄い茶色が混じっていた。人懐こくて、いつも尻尾を一生懸命に振って「遊んで!」と甘えてきた。
毛並みに埋もれていた首輪がきつそうに思えて緩めたその夜に、モクは首輪から抜け出して道路に飛び出した。
散歩に行くために早朝に玄関を開けると、紐に繋がれた首輪だけがドーナツの穴のように残されていた。
モクの名前を呼びながら住宅街を歩いた。表通りに出ると、歩道の脇の街路樹の根元に白い塊が見えた。慌てて走り寄ると、それはやはりモクだった。ペタンと平たくなった耳から流れ出た血は土にも染み込んで、くすんだ色に変わって固まりかけていた。
震える手で抱き上げるとずっしりと重くて、長めの毛に覆われていた体は、それ越しに伝わるほどに既に氷のように冷たくなっていた。瞼は閉じていた。
モクを家まで連れて帰り、母さんと庭に埋めた。ふと手のひらを見ると、赤黒く変色したモクの血が土と一緒になってこびりついていた。
モクの首輪を緩めたのは俺だった。
「罪滅ぼしじゃないけど……。咄嗟にとか、たぶん、そんな理由だったんじゃねぇかなぁ」
実際は仔ダヌキだったらしいけど。助かったなら、どちらでもいい。
「……」
膝の上に肘を載せ、組んだ両手に額を置いたまま、弟は何も言わなかった。
この話をしたのも、こんなに長く話したのも初めてだったが……悪くはないと思えた。
そのまましばらく二人で公園のベンチに座っていると「そろそろですよ」と、後ろからスズキの声がした。
「あのさ……最初で最後のお願いがあるんだ」
弟にそれを託す。「頼む」と、深く深く頭を下げる。
驚きながらも真摯な表情で頷いた弟はそれから、「俺からもお願いがある」と言った。




