【2】
「雨ですとね、低い雲に遮られて~」という台詞の後に、交通事故の文章があります。数行ですが、苦手な方はご注意ください。飛ばしていただいても、そんなには支障はない……と思います。
スカイツリーのゲイン塔の天辺に座って、眼下に拡がっている東京の夜をぼんやりと眺めていた。
高層ビルやタワーマンションの窓に灯る明かり。首都高を走る車のヘッドライトやテールランプ。街灯や店舗のネオン看板などは、氾濫する他の灯りに飲み込まれて融けている。地上の光と光が途切れる間に横たわる黒く長い線は、隅田川や荒川か。
かなり遠くにある光は霞みながらも、地上と空との境をうっすらと照らしだしていた。高さの違う建物のせいでデコボコしている地平線は、なんとなく判るくらいに、かすかに丸みを帯びている。
今夜は空に雲は出ていない。快晴だった。藍色の夜空の中腹に掛かっているのは、満月を縦半分に割ったような白い月。いつも見上げていた月よりも大きいように思うのは気のせいなのか。
「雨ですとね、低い雲に遮られて夜景は見えないのですよ。今夜は360度の大パノラマ。ラッキーですね」
にこにこと人畜無害そうに笑って隣に立つスズキ。彼の説明によると、俺は死んでしまった……らしい。
車線の中央に迷い込んでしまい、怯えてうずくまる仔犬を見つけた。会社からの帰り道のことだったそうだ。そのまま、迫っていたトラックの前に飛び出した。
けたたましいクラクションとブレーキ音。トラックの運転手は咄嗟にハンドルを切ったが間に合わなかった。
仔犬は間一髪で歩道に放って助かった、ということ。ちなみに仔犬だと思って助けたのは……都会住みの仔ダヌキだったそう。まあ、無事ならどちらでもいい。運転手には迷惑を掛けてしまった。
その時の記憶はない。まったく憶えていない。
全身を強く打っていてその場で死亡が確認された。それからすでに一ヶ月以上が経っているという。部屋の荷物はすべて処分されていた。
そんな話を聞かされても信じない……訳にはいかなかった。現に今、スカイツリーの天辺に座り、足を空中に投げ出してぷらぷらとさせているのだから。
スズキは二枚の白い翼をカラスのようにバッサバッサと動かして、俺はふわふわと浮いてここまで昇ってきた。
「スカイツリーは初めてですか?」
スズキの質問に「はあ」と答える。
別段に高い場所に興味があるわけでもなく、デートをせがまれるような相手もこの十年はいなかった。近くに住んでいるのだから、その気になればいつでも行くことができると思っていた。まさか、初めてのスカイツリーがこんな形になるなんて夢にも思っていなかったが。
「ここは地上から634メートルですよ。武蔵国に因んだそうです」
「そうですか」
生身の身体だったなら、こんなところには恐ろしくて悠長に座ってなぞいられなかったことだろう。風だって相当強い。今は俺の身体を素通りしてるけど。
……足元に拡がる夜景が遠すぎて、まるで作り物の箱庭かミニチュアのように感じられた。
高層ビル群は、にょきにょきと地面から生えた歪な茸の塊のようだ。織物のように規則正しく編まれた窓から漏れる明かりにも、雑多な種類の人間が行き交っているはずの繁華街の華やかなネオンにも、地べたを這って流れていくゴマ粒のような車のライトにも、なんだか……現実感がない。
ムスカの気持ちってこんなものなのかもな……。なんて愚にもつかないことを考える。
ライトアップが終わったあとのスカイツリーはゲイン塔だけが光っている。その月によって輝る色は変わる。今月は白だった。
「さて、私はあなたをお迎えにきたと申し上げましたよね。この世の心残りを少しでも軽くして、安心安全に霊界までご案内することがお役目でございます。なにか思い残したことはございませんか?」
スズキはスーツの襟をパリっと整えた。
「そんなことを急に言われてもなぁ……」
記憶が曖昧になっている今、思い残したことがあったとしても憶えていない。
事故の衝撃で一時的に記憶と意識が混濁し、眠ったような状態になっていたそうだ。死んでから一ヶ月以上。さっきまでは部屋の中でずっとぼんやりと座っていたらしいが……。俺としては、代わり映えのしない普通の日常の続きだと思っていた。
「公序良俗に反しない限りでしたら、ある程度のお望みは叶えられますよ」
「公序良俗……」
つまりはノゾキや不法侵入や盗みはダメだということか。まあ、しないけどな。たぶん。
「っていうか、記憶がまだ曖昧なんですが……」
そこまで言って、はたと気がついた。
そういえば、部屋の整理って誰がしてくれたんだ?
「あの、部屋の荷物を処分したのって大家さんですか?」
アパートの大家のじいさんの気のいい笑顔が浮かんだ。迷惑をかけたな。
「いいえ。ご家族の方ですよ。弟さんでしたかね」
家族……弟……。
……ああ……そういえば……。
途端に映画のフィルムが複数のスクリーンで同時に流れるように、いろいろな映像と情報とが頭の中にくるくると浮かんだ。ものすごい速さで映されては次から次へと流れていく。溢れだす情報量の波に、くらりと目眩を起こしそうになった。これが噂に聞く、死ぬ前に見るという走馬燈なのかもしれない。
っていうか――もう死んでいるらしいけど。
弟――正確には異父弟だ。
遺伝子的な俺の父親は三歳の頃に失踪していた。正直、顔も憶えていない。写真もほとんどなかった。写っていても後ろ姿とか、いいところ横顔だけ。カメラを向けられるのが嫌いな人だったと母さんは言っていた。
七年経ってから失踪人宣告で死亡が認められると、母さんは再婚した。それから産まれたのが弟だった。
仲の良い兄弟ではなかった。母親を新しい父親と弟に盗られたと思っていた。だから、歳の離れた弟でもかわいいとは到底思えなかった。いじめていた訳ではなく、関わらないようにしていただけ。
家族と云われても、赤の他人が二人も混じっている。そんなふうにずっと思っていた。その他人に笑いかける母親にもそのうちに距離を感じるようになり、大学進学を機に家を出た。それ以来、一度も帰ってはいない。
母さんは連絡をしてくるが、俺からはしなかった。弟にも家を出てから会ってはいない。
そのほうがお互いのためだ。別に母さんの幸せを壊したい訳じゃない。
二十二年ぶりにこちらから連絡がいったかと思えば、とんだ厄介ごとだった。そこは申し訳なく思う。
「ご家族に会いに行かれますか?」
スズキは善良な涼しい笑顔で訊いてくる。家の事情なんかを知らずにいい気なもんだ。
「いや、いいです」
今さらだ。
もう母さんもいい歳だ。電話の声もだいぶ老けたように思う。旦那のほうは、たまに電話口から声が聞こえていた。病院に通っているそうだが、まだそれなりに元気らしい。家を出た時には八歳だった弟も、もう中年の域に片足を突っ込んでいる。顔を見ても誰だかわからないだろう。
「そうですか……では、どなたかお逢いになりたい方などはいらっしゃいますか? たとえば昔の恋人さんですとかお友だち、お世話になった恩師の方など……?」
恋人……。
胸に走ったズキンとした痛みと一緒に紗代の笑顔が浮かんだ。十年も前に、突然に連絡がつかなくなった彼女。今はどこかで……元気に暮らしているのだろうか。
「それでは、紗代さんに逢いにいってみますか?」
SNSのアカウントもすべて削除され、携帯電話の番号も変えられていた。だから、積極的に探そうとは思わなかった。
姿を消したということは、俺に嫌気が差して連絡を絶ったということだから。
もう、忘れたはずだったのに。
でも……。
最期にほんの一目だけなら。
顔を見るだけなら……いいのだろうか……。
スズキの肯定するような笑顔に戸惑いながらも……頷いてしまった。
☆.・.★.・.☆
「それでは行きますよ」
スズキの声を聞くと同時に、目を瞑ってもいないのに目の前が真っ暗になった。車でカーブを曲がるときに感じる、遠心力のような力を受けた。
見えてはいない。だが、後方に光が流れていく。それは感覚で分かった。
「はい。着きました」
体感的に五秒も経っていない。
いきなり、ぱあっと周囲が明るくなる。
かん高い声を上げて「はい!」「はーい!」と次々に手を挙げている子どもたち。教室の前方の開かれている扉口から見えた。
なぜかスズキと学校の廊下に立っていた。
教室の後ろには保護者と思しき面々が肩を重なり合わせるようにして並んでいる。教室に入りきらずに溢れて、廊下から教室内を覗いている者もいた。
ここは小学校……だよな? それも授業参観日の。
さっきまでは夜だった。それにスカイツリーの天辺にいたのに?
「我々は時空間に制限をされない存在ですので」
表情を読んだのだろう。何を訊く前にスズキは答えた。
「あ、でも過去へは戻れませんので。悪しからず」
「じゃあ、ここは未来ってことですか?」
「そうですね。昨日からしたら明日ということになります。光速を超えて跳びましたので。つまりは次の日です」
「はぁ……」
何がなんだかよく解らないが、これ以上はスズキも説明する気はないらしい。とりあえず小学校に来たということは、紗代がここで働いているのだろうか?
「あの、それで……紗代は?」
スズキはにこにことしながら黙って指をさした。
その方向に視線をやる。教室の後方。廊下とは反対側の窓の近く……。
髪型は変わっていた。十年前はショートだった髪は、今は長く伸ばして後ろでひとつに結ばれている。記憶にある表情よりもやわらかな眼差しで微笑んでいた。
「……紗代」
彼女を見た途端に、十年という年月を感じさせないほどに当時の感情がよみがえる。
紗代が俺の前から姿を消す前兆なんてなかった。突然に連絡が取れなくなり、いなくなった。
いや……そう思っていたのは俺だけだったのだろう。ただ気がつかなかっただけで、紗代は何か……不満を貯めていたのだ。
そして、この教室にいるということは……。
「窓側から二番目の、前から三番目が息子さんですよ」
またしても何を訊く前にスズキが説明する。この男は俺の思考を読んでいるのか?
「いえ、あなたはとても分かりやすい表情をされるので」
……そうなのか。
「幸せに輝く。そう書いて幸輝くんです」
紗代の息子――幸輝は、ちらちらと後ろの母親を気にしながらも嬉しそうに手を上げていた。少し垂れた目元が紗代にそっくりだった。マッシュルームのようにカットされた、さらさらの黒髪に窓から差し込む陽の光が当たる。それはさながら、天使の輪のように艶々と反射されている。
そうか……。
結婚して家庭を作り、かわいい子どもを産んで幸せに暮らしているんだな。そうか、そうか……。
紗代が幸せに暮らしているのならばもちろんそれに越したことはない。文句もない。
だが……なんともいえない気持ちが混ざる。
十年前に愛想を尽かしたのだとしても、恨み言のひとつでも、二つでも、三つでも……罵詈雑言でもいいから浴びせて欲しかった。それすらも出来ないほど嫌われたのかと思うと……。
「紗代の旦那は……どんな人ですか?」
穏やかな紗代の表情と、愛情を受けて育てられていることが分かる幸輝。旦那はきっとよくできた男なんだろう。俺なんかとは違って。
俺は……結婚や家庭を持つことに、意味を感じることはできなかった。
「あー、やっぱりいいです。知りたくな……」
「紗代さんはずっとシングルマザーですよ」
「……え」
スズキは相変わらずのにこにこ笑顔で頷いた。