002 林檎りんご2
日曜日、昼、若干の雲はあるものの天気は晴れ。湿気も少なく、健やかな微風が街を掃いている。
城下町少年はダラダラと休日を楽しんでいた。
ここ最近加速気味であった珍事の舞い込みから解き放たれた、待ち望んだ至福の休日だった。
午前九時、いつもより僅かではあるが遅めに起床。勿論、目覚まし時計やスマートフォンのアラームは無しでの起床だ。起床後直ぐ、就寝中に発生した口内のベタつきを嫌って歯を磨き、意識の覚醒のために洗顔を済ませる。
午前九時半、母が作り置きしてくれた朝食を摂りにリビングへ。本日の朝食のメニューは塩鮭に出汁巻き、出来合いの味噌汁とホウレン草のお浸し、白米、沢庵。
日本古来より伝わる高塩分濃度に飽かした文句の無い和食の献立に、免罪符の如き立ち位置の新鮮なサラダ、フレンチドレッシングは城下町少年のマストアイテム、オレンジジュース付き。
彦根家の朝食はいつも量が多く鮮やかでいて、その代わりに昼食と夕食は慎ましやかに質素。
家族の食を任される母曰く、『一日のエネルギーと栄養は朝食にかかっている。食事とはタイミングと栄養の豊富さが要である。起床後が一番エネルギーと栄養が不足しているからここで摂らねば何処で摂る。就寝に近付くにつれカロリー消費も落ちて行き、我々はその法則に合わせて食事を摂らねばならない。故にこの家の人間は栄養満点の朝食における全てを摂り切らなければならない』との事。
現代において朝食摂取の是非にも個人主義が叫ばれる中、城下町少年もその意見にやや迎合する主義を持ち合わせていた為に母の主張に対する理解は出来ていても納得はしていなかった。が、幼い頃からの母による英才教育の結果は城下町少年にしっかりと根を張っており、彼は難なくその量を胃に収める事が可能だった。
とは言っても矢張り一日を締めくくる夕食に関しては彼の育ち盛りの胃は少し不満そうで、就寝前の風呂上りにはキュウキュウと泣きを入れるのが常であった。
因みに一家の大黒柱である城下町少年の父親は加齢に伴った内臓の衰えにより毎度大量に出る朝食を所々残してしまう事が多々あり、母から小言を溢されている。
午前十時、空になったコップにオレンジジュースを再度注ぎ、リビングの戸棚にあったポテトチップスBBQ味を確保して自室へ。頼りがいのある仲間たちと共に昼食までの時間を積んだままになっていた文庫本の消費に充てる予定だ。
―――――
オレンジジュースとポテトチップスが無くなる頃には、本の消費は大分進んでいた。
余談であるが、城下町少年は読書中の本を汚さぬ様ポテトチップスは箸を利用して口へ運んでいた。残念ながら机の上はポテトチップスのカスで汚れてしまっていたが何のことは無い、後で掃除をすれば良いだけの話だ。尚、城下町少年の掃除の腕は実に稚拙である。
「かぁ~、随分進んだわぁ」
時計は午後一時を少し過ぎた頃を指し、城下町少年は一冊の文庫本に栞を挟むと大きく後方へ反って伸びを行った。
突如とした体重の掛かりに椅子の背凭れが軋み、ともすれば椅子ごと後方へ倒れそうになった城下町少年は「おっとっと」と慌てて態勢を整えた。何とか済んでの所で転倒を避ける事に成功、胸を撫で下ろした。
「ほな行ってくるわ~、留守番よろしく!」
階下より実妹・りんご少女の声が聞こえてきた。
城下町少年の友人であるピカタ三四郎への柔道指南のため、りんご少女は受験勉強の合間を縫って日曜日が来ると毎度この時間あたりに家を出て行くのだ。
「頼んだ手前やけんど、あいつもよぉ頑張ってくれるわ。有難いわぁ」
玄関の扉が閉まる音を聞き届けると、城下町少年はそれを合図に階下、再びリビングへ。
父親は休日出勤でもしているようで大窓から覗く簡易的な車庫に車が見当たらず、母もパートで家にいない。
つい今しがた妹も出て行ってしまった為、誰もいないたった一人だけの休日の午後。
陽の光は暖かいものの、夏と比べれば空気の静まり方は明らかだった。まだ本冷えも見えないこの時期、過ごし易い事この上ない。
このまま一つ昼寝でもと思ったが、然し腹は減るもの。
大量の朝食と腹に溜まる間食の後であったが、城下町少年はポテトチップスのあったリビングの戸棚を漁りカップラーメンを一つ手に取った。
料理の出来ない城下町少年は誰もいない家で食に有り付くため、こうして細目にインスタント食料品を蓄えておく習性があった。
戸棚の中にはカップラーメンの他にも中華丼やカレーのレトルト、電子レンジで加熱すると美味しい肉まん、コーンフレークチョコ味など様々な物が置かれていたが、少し涼しさを見せ始めた気候に合うのはコレだと思い、今回はカップラーメンを手に取った。
トロトロの餡が魅力的な中華丼に少しだけ目移りはしたものの、ともあれ、城下町少年は炊飯器横に置かれた電気ケトルに水を必要以上に注ぎ、スイッチを押した。
―――――
午後二時、シーフード味のカップラーメンを平らげると、残ったスープに白米をぶち込んで〆の雑炊。温かい昼餉を食らい、腹の具合はハチ切れ寸前の十二分。朝食の後の間食が影響していたのは言うまでもない。
満足以上の膨満感に城下町少年は自室のベッドで仰臥していた。
特別に必要性のある思考を巡らす事の無い幸せな時間、血糖値の急上昇が為か、ぼぉっと重い眠気が襲ってきていた。
城下町少年は確かな重量を収めた腹を抱え、クーラーの稼働も必要ない絶妙な気温の中意識がジワジワ沈んでいく感触を楽しんでいた。
窓の外からは細かい小鳥の鳴き声、時折車の去る音が聞こえる。
『長閑』、実に紛う事無き『長閑』である。
(あぁ、今日はええ日やわ…。何もない、忙しない、…平和、ほんまに平和や。本も仰山読めたし腹もいっぱい、最高や)
(『最高』や言うたら、やっぱラーメンの〆は雑炊やわな、これが無いとラーメン食った気ぃせぇへん。あー、チーズなんぞ入れてリゾット風にしても面白かったかも分らん、……次にやってみよか)
(一発昼寝かましたら、次は……何しよか。と言うか…俺はええ時間に起きれるんか? ……このまんま……晩飯まで寝てまうんちゃうやろか)
(……まぁ、ほんでもええか………。こんなゆっくりで気持ちええんも久々やしな……)
(…………今頃、……りんごは、…三四郎にじゅう、……どう………)
意識は微睡に消失と浅い覚醒を繰り返しながら、然し確実に湖底へと向かっていた。
心地の良い途切れが反芻し、やがて意識が薄い曖昧に満ちたあたりで脳内で男の声が再生された。
『なんだ皆、今日は一段と身が入っていないぞ。だらしがない』
繰り返される瞼の朧げな開閉、意識の落ちる寸前の幻聴だ。城下町少年はその声の正体を不思議に思う事もなく、ただただ再生され続ける声を流れるままに認識していた。
『ここに思い至らなかった俺の浅はかな発言をどうか許して欲しい。約束する、本日の授業が終わり次第、俺は林檎を額で割る』
(…………りんご………グパック、………………………妹、名前)
脳内の音声に釣られて意識が浅瀬に戻って来る。
声の正体はグパック教員である事が何となく分かった城下町少年は、それでも尚惰眠の誘惑から逃れられずにいた。
気候が、気温が、全てが好条件で交わるこの最高の瞬間、必ずやモノにしなければならない。
そう思ったか思わなかったか、兎角体はベッドの柔らかな感触を二の腕で遊ばせ、少しヒンヤリとしたシーツの温感を脚で擦りながら存分に堪能していた。
『丁度明日、俺はとある人物と対峙しなければならない』
(あぁ……………なんか………、誰かと会うとか言ってたなぁ………………)
『こんな極東の土地で運命とも言える名を関する人物の存在を知る事が出来た、俺はそれに挑まねばならない』
(休み……の…日まで……………………アクティブな………事で………………………………)
『丁度いい、本当に丁度いい』
(…………………………………ん……………………………)
(………………………………………………………………)
『こんな極東の土地で運命とも言える名を関する人物の存在を知る事が出来た、俺はそれに挑まねばならない』
再び同じ声で同じ内容がやって来た、いや湧いてきたという言い方の方が正しかったかもしれない。
急激とは言えないが、それでも思考を巡らせるには十分な所まで意識の浮上が起こった。一度はスルーした、グパック教員の言が原因だった。
それまでに数秒、いや五分は経っていたのか、或いは何時間と言う時が過ぎたのか。少なくとも意識の沈没は一時であれ確実に訪れていたであろう暗黒の空白を城下町少年は感じていた。
(………………運命とも言える名を関する人物の存在……………)
『丁度明日、俺はとある人物と対峙しなければならない』
(……対峙…………………………運命とも言える名を関する…………………………)
(りんご…………グパック……………………運命、名……………)
未だ頭に重さを感じる中、薄く滲んだ思考にカチリカチリと何かが嵌り込んでいく音が聞こえた。
ちょっと考えていれば直ぐ事に気付いていたかもしれない。然し本日は完全に気が緩んでいた城下町少年。
嵌り、合わさり、形を成していく予感に惰眠の欲は追いやられ、急速な意識の覚醒が始まった。
ジワジワと追い詰められる焦りに似た感覚。
それは例えば、今日までに提出する必要のあった留年回避や進学関係の課題を提出していない所か、そもそもやってもいない事に気付きかけている時の様な……。
それは例えば、受験日当日に会場に到着した所で『受験票、鞄に入れたよな…?』と自室の机の上に目を遣っていなかった事を思い出しかけた時の様な……。
そして来たるべき予感の完成は城下町少年の瞼を跳ね上げ、声を荒げさせるに至った。
「ッ………ぅ嘘やろ?!」
城下町少年は体が宙に浮く程の勢いで飛び起きると、その勢いのままに自室の外へと走り出した。
哀れ城下町少年の待ち望んだ至福の休日はこれを発端として見事に吹き飛ぶ事に成ってしまった。




