001 懊悩
三四郎が目を覚ましたのは自身の自宅であった。
普段ピカタ家が食事をするダイニングの横にある居間に煎餅の様な薄い布団が敷かれていて、三四郎はそこに巨岩の如き体を仰向けに投げ倒していた。
自分以外は誰もいない。居間の電気は点いておらず、窓から差し込む陽光は茜色で今が朝方なのか夕方なのか判断が着かない状況での起床であった。
「うっ」
のっそりと上体を起こそうとすると、左頸から右脇腹にかけて走る痛みを感じて三四郎は小さな呻き声を上げた。反射的に痛みの感じる中央に当たる右胸を右手で抑えると、何か長い棒に殴打された様な太い一筋の跡に触れた。
その筋は五百ミリリットルのペットボトルよりも一回り程小さい幅で、長いミミズ腫れである事が分かった。覚えの無い腫れはジンジンと痛覚を震わせ、触れた右手に合わせてジワっとする刺す様な熱を周囲の体組織へ滲ませた。首から腹にかけて皮膚を押し上げる体組織の腫れあがりをなぞりながら、三四郎は何故自分が今こうしているのか記憶を辿り始めた。
不快な音と共に現れた飛行する全裸の肥満。その姿を見て三三が大笑いに沈む。飛行する肥満を呼び止めると、こちらの言葉に反応を示し地上へと舞い降りてきた。その奇怪な行動を問い詰めると、彼は屁による空中飛行を楽しんでいると発言していたはずだ。
その後舞い降りてきた肥満と幾つか言葉を交わし、肥満が再度空中へ飛び上がろうとした時、とある事に気付いて異様なまでに黒い憤りが突如として胸中に火を噴いた。
怒りの中央に『イヤーンにしてやられた』という気持ちが文字になって胸に残っている。然し、不思議な事に今それを思い返しても当時沸立っていた黒い憤りは全く感じられず、逆に何故その文字が示す内容にカッカとしていたのかと第三者的視点での疑問が過った。
そしてその溢れ出る衝動のままに眼前の肥満へ飛び掛かって、そこで視界は暗転した。そこから先は思い出そうにも、記憶が断絶されたのか一切を想起出来なかった。
「あっ!」
不意に少女の声が聞こえた。点を打った様な一瞬の声であったが、それを発した主が安宅真白だと三四郎は直ぐに気付いた。
三四郎は玄関と居間を繋ぐ引戸から聞こえた声の方向に顔を遣ったが、当たりを付けた人物の姿は影も無かった。代わりに、開けっ放しになった引戸の奥にある廊下の方から「三四郎さんが目を覚ましました!」、という溌剌に安堵と狼狽を混じらせた声が聞こえてくる。声の主である真白は、どうも三四郎の両親である三一とミ一に急いで朗報を報せに行った様だった。
――――――――――
「三四郎さん、無事で良かった……」
真白は涙に滲む目を擦りながら鼻声に潰れる調子で言った。その顔には何処となく憔悴の影が見られる。
真白の横には三一とミ一も座っており、三四郎の座る布団の傍らで安堵の表情を見せている。両親である一体と一人は三四郎の覚醒を聞いて、直ぐ様飛んで来ていたのだ。
「おう……何で家にいるんだ真白。学校はどうした?」
「今日は日曜日で学校は休みです」
「そうか、日曜で、…日曜? ……日曜?!」
三四郎は驚愕した。
三三と商店街を探索中スマートフォンを落とし、屁で飛ぶ豚に遭遇したあの日は平日の昼過ぎ。記憶にある最後の曜日は確か火曜日だったはずだ。記憶の途切れ方からするに、恐らく何者かの襲撃を受け気を失い、五日ほど床に伏せていた事になる。
五日。自身の知らぬ間に経過した時間の膨大さに三四郎は唖然として、開口したまま暫く固まった。
「三四郎、あなた五日間も眠っていたのよ」
「お袋、俺に何があった? あの時、確か空を飛んでいたデブに飛び掛かったはずだ。そこからの記憶が無い、俺は誰かに叩かれたのか?」
「儂らも事の詳細を知らんのだ。凡そは聞いたが、お前が起きて直ぐ真白さんが城下町君達を呼んでくれて、今は秋山さんが彼らを迎えに行ってくれている。その事については彼らが到着したら聞こう」
ミ一の代わりに三一が腕を組みながら三四郎を落ち着かせる様、穏やかな口調で提案した。
どっかりと胡坐をかく化物一家の父・三一の瞳はたわやかな光を携えており、血は繋がらずとも自身の息子・三四郎の無事を心の底から喜ぶ様子が見て取れた。
「何であれ無事起きてくれて良かった。三三が周囲への被害も考えずここまで走って来て、血相を変えて儂らを呼び付けてきた時には本当に肝が冷えた。儂が三三と共に現場へ着いた時には、お前はピクリとも動かず、よもやそのまま死んでしまうのではないかと言う程衰弱した状況だったのだ。イヤーンさんから頂いてたあの豆が無ければ取り返しのつかないマズい事になっていたかも知れん。煎じて、お湯で溶かして、目を覚まさぬ間はそうやってお前に飲ませていたのだ」
「豆……豆か」
『豆』という言葉を聞いて、三四郎は思い出した。
そうだ、『イヤーンにしてやられた』と言う文字列は例の豆がきっかけでその爆発的な怒りを胸中に焼き付けたのだ。
あの不可思議な程に突沸した怒り。今にして思えばそこまで激高に染め上げられ、その衝動のまま駆け出す程の事であっただろうか。イヤーンが長い歳月をかけて開発した豆であったが、その研究課程には生じなかった例外が起きたという考えは出来なかったのか。
冷静となった今、クリアな思考は様々な可能性を思い描いた。
『豆…』と呟いて押し黙ってしまった三四郎を見て、布団の周りに座る各々もまたシンと静まっていた。三四郎の体調も心配であったが、目を覚ましたばかりだ。城下町少年たちが来るまでは静かにそっとして遣った方が良いか、とその様子を見守っていた。
――――――――――
城下町少年たちがピカタ家に着いたのはそれから間もなくであった。
三三を先頭に、虎姫を背負った伊吹が駆ける。その後ろを城下町少年を背負った秋山乗務員が追いかける。頭上には「出」の体勢で尻から黄色い煙を噴出し、地上に走る高速に追いすがる全裸の肥満の姿があった。
総勢六名、地に空に、実に珍妙な光景だった。
六名はそのようにして町内を駆け、山を踏破すると、山奥に静かに佇む茅葺屋根が特徴の家屋の玄関を勢いよく開け放って次々と化物たちの棲み家に転がり込んだ。
化物三三、人間城下町少年、お嬢様虎姫、忍者(?)伊吹、見知った秋山乗務員、豚大君ケ畑。錚々たる容姿のメンバーだ。
「三四郎、起きたか!」
「大丈夫け?!」
「三四郎くん! 本当に良かった!」
「この度は無礼を働いてしまって申し訳ありませんわ!」
「あっしの所為でやんす! あっしの首であれば三つでも四つでも持っていってくだせぇ!」
「ほひっw、ここが化物のハウスですな!w」
それまで静黙を保っていたピカタ家の居間は途端に騒がしくなった。各々が飛び込み様に放つ問いかけや謝罪は、未だかつてない喧騒を化物たちの棲み家に齎した。
「おぉ、こうまで種々様々な……むっ! そこの全裸の少年、服を着ないか! 女性もいるのだぞ! 失敬だ!」
「すまないでござるw 今日になっていきなり弾け飛んだのでござるw 何か羽織る物を貸して頂けないでござるか?w」
ミ一は大君ケ畑の言葉にパタパタとスリッパを鳴らしながら何かしらを取りに奥へと走って行った。
「あれ、三四ちゃんは何処ですか?」
「三四ちゃんは、今は自分の部屋にいますよ」
秋山乗務員の言葉に、真白が答えた。
化物家の長女ピカタ三四は、此度の騒動が自分の浅はかな考えと行動を発端に起きた事を分かっており、その後悔と自責の念から自室に引き籠ってしまっていた。その落ち込み様は彼女の両親である三一やミ一は勿論、友人である真白も心配になる程であった。
化物たちの住む家屋の扉は、玄関を除きその全てが鍵の機構が取り付けられていない昔ながらの引戸であった。三四の部屋の扉も例外ではなく、入ろうとすれば本人の説得すらも必要でなく幾らでも自由に開け閉め出来、また入ることが出来た。
友人の気落ちに胸を痛めていた真白は、この五日間に何度か三四の部屋を訪問していた。学校が終わってからは毎日この山奥に佇む家を訪ね、三四の安否を確認して慰めていた。然し、部屋を訪れる度に見る三四の悔悟に沈む姿は真白にまで伝染して、その気持ちを暗く悲しくさせた。
約九尺もある巨体を抱え込んで布団の下に丸まる姿は見ていて気分の良いものではなかった。思いつく限りの優しい言葉や、時には叱咤激励で以て沈んだ三四を刺激しようとしたが、どれも効果は無かった。真白のどんな声掛けにも「ごめんね」という言葉しか返ってこず、あの明朗快活な性格が噓の様に消え去ってしまっていた。
皺を作る布団の端から見える三四の表情には陰鬱で黒々とした影が射しており、その心を癒すためには第三者の言葉や問いかけではなく自身の過ちを赦せるようになるまでの静かな時間が必要だと真白は感じていた。クラスメイトを準化物化させ、敬愛する兄を重体に追いやる事態を引き起こした事実はそれ程三四の心に重くのしかかっていた。
そんな一方で、真白も責任感を感じないでなかった。
自身がこれまで感じていた嫌な予感と言うのが、ここ最近でその的中度合いを高めていた。
今回の事件も、虫の報せとも呼べるその予感が明らかな反応を見せており、見事、不幸にも的中した。
だと言うのに、商店街へ走るその道中で不謹慎にも『楽しい』という感情が真白の心を満たしていた。
商店街のアーケードを抜け、その惨憺たる様子を見るまで真白は騒動の事など忘れストレス解消に汗を楽しんでいた。
横を走っていた城下町少年の様に、真剣になってより早く現場へ到着出来るようその思考を使うべきではなかったのかと考えていた。
残念ながら、三四の過ちとは違い真白の後悔は全く的を得るものではなかった。事態が引き起こされた後の行動は何をどうやっても変わる事は無く、それは真白たちが例え一秒でも早く現場に辿り着いたとしても三四郎達の倒れる結果は塵程にも変わらなかった事は確かだ。
それでも真白は考えられないでいられなかった。三四郎達が無用な攻撃を受けずに済む、そんな未来があったのではないかと思料を巡らした。
三四郎は判断出来なかったが、時刻は夕方の四時。
夏を過ぎたこの季節は僅かではあったが陽の沈みも早くなっている。
茜色に染まる空は、これより先に来る寂しさを携えた季節の到来を予期していた。




