004 空飛ぶ屁豚2
「いいか? ここからは遂にあのテレンが勇気を出し、反国家組織の本拠地へ単身で乗り込む唾をも飲む展開だ。数々の罠を抜け、迫り来る敵を華麗にいなしながら最終決戦の場まで辿り着いた。さぁさぁ、敵のテロ行為もその目的も明らかになってくるぞ! 物語は驚異的なスピードで終焉を迎えるのか?! それともこれが戦いの序章に過ぎないのか?! 気になる展開を田村君! 君が訳しなさい!」
「ゲッ! お、俺?!」
グパック教員の愉快な授業中、城下町少年は机に教科書を立ててその陰に無料アプリのカメラを立ち上げたままのスマートフォンを隠していた。カメラは大君ケ畑のむっちりとした背中を捕らえており、その向こうでは数学教師が二次関数を説いているのが映っている。画面の右側には三四のものと思われる巨大な左の二の腕が映っていた。
(今んとこは何もなさそうやな)
グパック教員の授業もそこそこにスマートフォンを見詰める城下町少年。不自然に立てた教科書を前列に座る生徒の背中に上手く隠して、なかなかの小細工を労していた。たまに無断で背中を借りている生徒が横にズレるとその動きに合わせて教科書を巧みに動かし、或いは一旦スマートフォンの上に開いたまま下ろして授業への傾聴の姿勢を呈したりと、思ったより神経を使う作業に汗を流していた。
(このまま何もならんと終わってくれ……)
授業も半分ほどの時間が過ぎ、英文の翻訳に当てられる列もまだまだ遠い。耳孔に嵌め込んだイヤホンからは真白の静かな息遣いと、板書をノートに写すシャープペンシルの走る音が細やかに聞こえてきていた。画面を見てみても、大君ケ畑に目立った変化は未だ起きていない。
隣の教室に大きな異変は感じられず、前列の背中と教科書を使った城下町少年の見事な工作は無事成功の印を結ぶかと思っていた矢先、事件が起こった。
「先生! ごめん! トイレ行ってくる!」
「ん、急いで行ってきなさい。漏らしたらコトだ」
前列の生徒が急に勢いよく椅子を後方へぶちかまして立ち上がった。その椅子は城下町少年の机の向こうの辺にぶつかり、大きな音を立て、その拍子に城下町少年がスマートフォンを隠すために立てていた教科書が倒れ、床に落ちてしまった。
「あっ…!」
前列の生徒はそのまま急いで廊下に駆けて行き、城下町少年は咄嗟の判断で壁の無くなった机の上にガバッと上半身を伏せると、今度は寝たフリ作戦でその場を凌ごうとした。
見事な反射神経で反応することが出来、急拵えではあったが机の上は城下町少年の腕と頭で何とか大まかを隠す事に成功した。(間に合った…!)と思ったのは一瞬で、床からゴトっと鈍い音が聞こえそれと同時に城下町少年の心臓はドクリと跳ね上がった。
「む? 何の音だ?」
「ヤッバ…」
異音に気付いたグパック教員が城下町少年の方へ視線を向けた。然し、そこには机に伏せる城下町少年の姿があるだけで、それ以外は生徒たちの影もあったことで幸いにもグパック教員は床の違和感に気付く事は無かった。
(バ、バレたか…?!)
ドクドクと喉元にまで心臓の脈動が昇ってきていた。城下町少年は机の上を隠す事に咄嗟の全力を尽くしていたため、腕でスマートフォンを弾き飛ばしてしまった事に気付かなかったのだ。先程のゴトっという音は弾かれたスマートフォンの落下音で、それを聞いて城下町少年は事の真相に思い至った。
「授業中に居眠りをこくとは何と不遜な態度だ。然も教科書まで落として…。物語がクライマックスを迎えようとしているこの際に、まったく」
グパック教員はボソボソと愚痴を溢すもこちらまで叱りに来る気配はない。その様子に安堵した城下町少年はグパック教員が再び黒板に向き直ったのと同時に緊張に詰まった息を鼻からスゥゥっと吐き出すと、背中の強張りを解き脱力していった。緊張に大量の発汗を催していたようで、両腕に埋まる顔から水滴が二滴ほど落ちた。制服と肌の間にもじっとりとした熱が籠っているのを感じた。
…
…
呼吸が落ち着いてきた所で、城下町少年は床に落下したスマートフォンを回収せねばならなかった。自席の下、右斜め前。頑張れば机に伏せた体勢で右脚が届きそうな位置。そこにスマートフォンは大君ケ畑の背中を映したまま上を向いて落ちている。
(隣の奴にちょっと手伝って貰えれば…)
そう思い、ちらっと右側に視線をやったが隣の生徒は城下町少年と同じ様に腕を枕に居眠りをかましていた。小さな寝息も聞こえてきている所からすると、少し小突いただけでは気付きそうにない。どうにかして自分だけでこの艱難を突破しなければならないようだった。
腹を決めると、城下町少年はまず、出来るだけ体勢を崩さずに右脚をゆっくりとスマートフォンに向けて伸ばした。腰と股関節に異常な負荷がかかり、太腿の付け根にある筋肉なのか筋なのか分からない部分がキリキリと悲鳴を上げたが、その甲斐もあって上履きの爪先で表面を抑える事が出来た。後は丁寧に引き摺ってやれば足元まで移動させることが出来る。先週に新調したばかりのスマートフォンだったが仕方がない、優先させるべきは回収のために着く傷云々ではない。
(くっ…ぬっ…)
爪先で表面を抑え、引き摺る。たったそれだけの事だったが大変な労力だった。
城下町少年は自身のスマートフォンの裏面に指を通すようのリングを装着していたのだが、それが悪さをしていた。スマートフォンがリングを支点にグラグラと動き回る所為で、手とは違う不器用な足では上手く抑える事が非常に難しかった。齷齪しながら太腿の焼け付くような痛みに耐え緊張を維持し続ける姿勢は、まだ残暑の厳しいこの季節には耐えがたい所業であった。
悪戦苦闘の内、何度目かの挑戦で床の木目にスマートフォンの角を引っ掛け固定することが出来たが、その時城下町少年のBluetoothイヤホンに変化が起きた。
(お、音量が…!)
スマートフォンの薄い側面、そこにある音量調整を司るボタンを爪先の側面で抑えてしまっていたのだ。事に気付いた城下町少年だったが足を離すわけにはいかない。もう一度スマートフォンの角を木目に引っ掛ける作業を思うと、ここで足を離すのは悪手だと判断した。然し、そうしている事でイヤホンから流れてくる何かが擦れる音や椅子の軋む音などが城下町少年の鼓膜を徐々に蝕んでいった。城下町少年はイヤホンの音量が上がるに連れて目に力を入れ、奥歯を食いしばりながら痛みに縮こまる鼓膜に気合を入れ続けた。
それでも何とかスマートフォンの画面側を床へひっくり返す事が出来、安定感が段違いになった。音量も最大に達しており、音漏れが気になり始めていたが、とうとうスマートフォンを足元へ移す事が叶った。その頃には授業の時間も三分の二が経過しており、城下町少年は窮屈な体勢での作業だったために体の至る所を汗でしとどと濡らしていた。こうなってしまえば、後は手で以て拾い上げるだけ。拾いながらに音量を整えて、腕と頭の下に隠してしまえばそれで任務完了だった。
それだけだったのに、長時間の作業に緊張を強いられていた脚がその疲労からかビクリと跳ね、スマートフォンを遥か前方へ蹴り飛ばしてしまった。
(………!)
床との摩擦音を伴いシャアアっと滑って行くスマートフォン。もう誤魔化す事は出来ない、呆気ない幕切れであった。突然の怪音の発生に、授業へ励む生徒たちが一斉に音の発生源とその行方を目で追い始めた。無論、グパック教員もそれに気付き教壇にぶつかって止まった物を確かめに身を屈めた。
「これは誰の携帯だ?」
「あっ、あっ! お、俺のです! 俺の!」
グパック教員は流れ着いたスマートフォンを拾い上げると、教室に向かって尋ねた。城下町少年は急いでイヤホンを外し、スマートフォンを取り戻すために立ち上がった。最早授業中にスマートフォンを弄っていた事実を咎められる事に躊躇してはいられなかった。
スマートフォンを足元に移動させる作業でかなりの時間を費やしていた。その最中は足先と股関節に走る痛みに全神経を集中していたために、イヤホンから聞こえる隣の教室の様子を気にする事が出来ないでいた。気を逸らしていた間に何も起こっていない事を願うばかりであったが、何か起こっていた場合、その経過を追えなかったことが大変厄介だ。グパック教員が手に持つスマートフォンを取り戻さなければそれも確かめられない、三四郎達に連絡を送る事も出来ない。
「授業中に携帯を触るのは禁止のはずだが、蹴飛ばして遊んでいたのか?」
「えっ、いやぁ、そのぉ」
何か言い訳を考えねばならなかったが、疲労を感じる脳に焦燥が混じってしどろもどろな言葉しか出てこなかった。城下町少年は身振り手振りだけは繰り出すものの、そこに言葉が追い付いてこない。
グパック教員の真剣な眼差しが城下町少年の目に突き刺さる。心が痛い。別に授業をサボりたくてスマートフォンを触っていた訳ではななかったのに申し訳ない気持ちが城下町少年の心に募っていく。
「まったく…、初犯だから見逃すが一体何を見ていたんだ。授業よりも気になる事か? もしや林檎か? 林檎以外考えられん」
奇妙な挙動を見せるばかりの城下町少年にそう言うと、グパック教員は改めて城下町少年のスマートフォンに目を遣った。スマートフォンの画面をくるりと自分に向けるとそこに映る映像を確かめた。
グパック教員がスマートフォンに目をくれたのはほんの数秒の事であった。然し、その数秒の間にグパック教員の表情は次第に変化を表していった。終いにはスマートフォンを見る目に力が籠り、眉間に皺が固まった所でグパック教員は教室中に呼びかけた。
「みんな、急ですまないが今日はここまでで切り上げる。急用が出来た。残りの時間は各々休憩に当てるなり自習に当てるなり好きにして良し!」
その表情を見て、言葉を聞いて、城下町少年は真白が危惧していた何かが起きた事を悟った。直ぐに廊下に視線を移すと、隣の教室から何やら光が漏れている。それが何の光かは分からなかったが、イヤーンが作った豆を食した大君ケ畑に大きな変化が起きている事だけは分かった。
「彦根城下町君、俺と一緒に来るんだ」
グパック教員は生徒たちが心配しないよう、努めて静かに教壇を降りて教室の入り口まで歩くとくるりと城下町少年に振り向いた。どうやら城下町少年を待っているようで、グパック教員の目が静かにそれを語っていた。そのサインに気付くと城下町少年はグパック教員の折角の気遣いも無視してガタリと大きな音を鳴らして走り出した。




