004 復帰戦
「三四ちゃん、あのね」
「なぁに?」
昼休み、健全な学生たちには少し空腹が過ぎた時間帯、待望の昼食に教室は喜色に満ちた喧々たる空気に浮いていた。ある者は複数人で行儀悪く、ある者は膝を揃えて慎ましやかにこの時間を楽しんでいる。一方で、三四と真白は互いの机を向かい合わせ、夫々持ち寄った弁当に舌鼓を打っていた。
真白の弁当は可憐な容姿に似つかわしい、可愛らしく見た目にも美味しい彩り豊かな、正に母の愛籠る素晴らしい出来栄えだった。対する三四の物は、多弁を要さない、申し訳程度に海苔が巻かれた常人の顔面大の、巨大な握り飯一個だ。
「私、三四ちゃんのお母さんに変な事言うわけじゃないんだけど、年頃の女の子におにぎり一つはどうかと思うの」
「え、でも日本人ってお米好きなんでしょ?」
「お米は好きだけど、もうちょっと、何というか」
「あー、言いたいこと分かるんだけど……ちょっと食べてみる?」
「?」
何気ない提案に、真白は大きな目をくりくりさせながらも、「じゃあちょっとだけ」と差し出された巨大な米塊へ小鳥宛らに齧り付いた。
途端口内にて炸裂する、鮮烈な光を脳内に見る異常な旨味。庶民には手の届かない超高級米だとか、贅を凝らした具材を包み上げているだとか、そういう類ではない単純かつ発生源不明な熱烈な悦びが真白の舌の上で転げ回る。余りの幸福に、真白の脳はこの現実を受け入れられず、ゾッとし、思わず咳き込みそうになった。
「…え、なんでこんなに複雑な旨味が」
「私のお母さん、料理上手なの!」
「いや、これ…」
料理上手で片付けられるはずもない、暴力的で恐怖すら脳裏に過る芳醇な味わい。凡そ握り飯では得られないだろう、いつまでも口腔に居座り続ける祝福は、やがて馥郁たる薫りさえ携えて鼻腔を突っつき始めていた。筆舌に尽くしがたい壮絶な神秘体験に、真白は本当にマズいものを食わされたのではないかと、ほんのばかし、然し徐々にその思いは肥大していき、冷や汗を額に滲ませた。
「これ、人をハッピーにしちゃうようなものとか入ってないよね?」
「ダイジョブダイジョブ、お母さん自然派だから」
兎も角、真白はトイレに駆け出した。
…………………………
「ハァっ、ハァっ…!」
「あれ、不味かった…?」
「うぅん、私には美味しすぎてパニックになっちゃった」
真白は、食べ物が美味しすぎたための混乱を人生で初めて味わい、机に肩を預け未だ歪に回る脳と視界を何とか耐えていた。構えなしに立ち入ってはいけない領域が美味にもある、知ってはいけない暴虐の美味もある、と真白はその若さに見合わぬ気付きを得た。
「三四ちゃん、あんまり人には勧めない方がいいね。人間には幸せ過ぎるよ」
「そう? えへへ」
慕い敬う母の手料理を褒められ、照れくさそうに然し誇らしそうに振舞う三四を恨めし気に真白は見上げている。今後、同様の事態が起きそうな場合には、私が身を以て制さねばならぬ、私だけがこの恐ろしさを知っているのだ、と真白は心に固く誓いを立て少し落ち着くと席に座り直した。
「ふぅ…ぅん…」
「あれ?」
「…ん? どうしたの?」
「……四兄ちゃんかな?」
引かぬ汗と火照りにぐったりする体を休ませる真白を余所に、不意に三四が窓の外、黒門の方に視線をやった。真白もぼんやりと追って見てみるが、背の低い生徒が一人黒門を潜っているだけでなんの代わり映えもしない普通の様子で、三四の言う、かのバルクに満ちた肉塊は何処にも見当たらなかった。
「あ、ちょっと見えた! やっぱり四兄ちゃんだ!」
そう言うと三四は俄かにソワソワし始め、終いには席を立って廊下に出て行ってしまった。真白は重心の定まり切らない体を背もたれに預けながらも、やにわに湧いた「変なことが起きそう」という予感に何とか立ち上がり、少しの時間を置いて三四の後を追うことにした。
――――――――――
城下町少年は、しまった、と思わずにいられなかった。
三四郎の頼りがいある言を得て奮起して登校したものの、いきなり天敵とも呼べる三個一に認識され、黒門を潜ったところで即座に進路を断たれてしまったのだ。
「おぉん? 城下町やんけ」
「―――寂しかったで」
「度胸、あるや~ん♡」
仮に、不良A、B、Cとしよう。彼らの名誉のためにも一応弁明すると、彼らは決して完全なる悪ではなく、若気の至りと言える激しい自意識と、己の力を誇示せんとする高いプライドを持ち合わせた結果強い口調や乱暴を働いてしまう、然し非道の限りを尽くそうと鼻息を荒くすることは全く想像にもしていない………要するにバカ者どもなのだ。
彼らは、学生の精神である黒い制服を好きなように気崩しており、リーダー格のAは古式ゆかしいポンパドールにリーゼント、その迫力ある体躯を引き立てる剃り込み坊主のB、そして弟分Cは黒豹のように洗練されたドレッドを靡かせる猫背の、各々気合を入れた面々で構成された三個一だ。
「おっ、お、おまんら…」
「『おまんら』やってよ! 訛り過ぎちゃうんかおぉん?」
「もう年寄りしか使わんでそんなん♡」
「―――ははは」
城下町少年は、地元を愛し文化を守り続けてきた両親の下に生まれた。また祖父母もその祖先も、伝統を承継することを徳としその意志を絶やすことなく教育を施し続け、力強くも美しいその思想は町内でもちょっとした名物家族として認知されている程だった。が、これが災いし、今では誰も使わないような田舎者臭い方言を城下町少年は幼少期より刷り込まれてしまっていたのだ。
「俺は、俺はな…」
「ま、久しぶりに楽しく遊ぼうや♡」
左方からCに強引に肩を組まれ、思わず城下町少年は身を固くし、顔を青くした。非力な少年では、例え相手が一番背の低い者であっても事も無げに組み伏せられてしまう事を、過去の経験から既に、十分に理解していたのだ。
古い体育館のそのまた奥にある倉庫の裏に、城下町少年はあっさりと連行されてしまった。借りてきた猫のように大人しい少年の様子を、集団の上方中空に発生させた亜空間から顔だけ覗かせしっかりと観察していた三四郎は、「さて、どうしたものか」と一人呟き何事かを考えている。少し考えた後、「まぁどうにでもなるだろう」と結論付けた三四郎は、城下町少年たちを追うことにした。
…………………………
倉庫の裏につくと、AとBは肩を回し始めたり、その場でトントンと跳躍し始めた。これから開催される饗宴に、体の節を解しているのだ。それを見ると、城下町少年の体は益々硬度を増し、呼吸もその回数を増した。反対に顔色はどんどんと青褪めるばかりで、冷や汗はたらたらと滴り、思考は要領を得なくなっていった。
「さぁて、俺も体訛っとるでなぁ、慣らしから始めよか、おぉん?」
「―――何時でもいいぜ」
AとBは、「さて」と口角の上がるのを隠しもせず城下町少年の方に振り返り、振り返り様にギョッとした。Cは「はて」と思ったが、その瞬間自身の肩に何かが圧し掛かったことを知覚すると、『弱者に既知の仲の様に肩を組まれた』と忽ち顔を赤らめ、烈火の如く怒り始めた。
「てめぇ♡! 慣れ慣れしぃんじゃ何しとん―――♡」
城下町少年の方を顔だけで見やると、Cもまたギョッとした。緊張に俯く城下町少年の腕は、少年の体とCの体とに挟まれ、そこにあったのだ。では、この肩に掛かる確かな腕の感触は?
恐る恐る、組んでいる方と反対の方向に顔を向けてみると、そこにはあまりにも男らしい、極太の、筋張った剛腕が鎮座ましましていた。
「おわァッ♡!」
慌てふためき飛びのいて、突然に湧いた恐怖から逃れると三個一はその異様な光景に絶句せざるを得なかった。城下町少年の華奢な体躯のその背後から、羽のように生え伸びる逞しい腕。以前、揶揄い弄んでいた頃とはあまりにも違った、異様を纏う少年の姿に、その雰囲気に事態が呑み込めなかった。
「お…おぉん?」
「―――!!」
「ス…ス〇ンド……♡?」
余りの恐ろしさ、異様さに思わずたじろぎ、後退りをする不良共に対し城下町少年は何が起こったのかまだよく分かっていなかった。ともあれ、恐らく三四郎が何か背後で助け舟を出してくれているのであろうことが分かったから、それに後押しされ、勇気をもって言い放つことできた。
「俺は、もう、今までとはちゃうんや! 俺は変わるんや!」
「いや、おぉん…変わり過ぎやろ」
「―――覚醒!?」
「嘘やん…♡」
一同が驚嘆に焦る中、終ぞもう片方の腕まで生えてきた。城下町少年に似つかわしくない隆々とした肉を有する両の腕は、まるで意思があるかのように自在に動き、然しそれは何処か滑稽な挙動を見せていた。山の様な力瘤を見せつけたかと思うと、いきなり波のように揺れてみたり、鋼を思わせる強張りを催したかと思うと、陽気に踊っているかのようにパカパカと上下させたりと、観衆を更なる混乱へと導いていった。
「もう、こんなことはせんで…いや、もう関わらんでくれ!」
城下町少年は固まって動かない三個一を尻目に、校舎の方へと向き直り堂々と歩みを始めた。
城下町少年は、自分に感動していた。自分も、勇気をもって一歩を踏み出せたのだと。そして、三四郎に惜しみない感謝の念を持った。彼が、少年に一歩を踏み出す勇気と決意を齎したのだ。
そのまま悠々と肩に風を切らせ、高ぶる心臓にむず痒い喜びを感じながら、少年はそれまで妄想だった青春を実現させるべく一歩一歩を大切そうに踏みしめながら去って行った。その顔は、心を表さないよう毅然と口角を制し、眉をくっと強張らせ、それでも弱弱しかった目には少しの湿り気が見え隠れする、少年から青年へ一つ段を上がった様子が垣間見えた。
…………………………
依然、両腕はそこにあった。
城下町少年が去った後も空に浮いたまま去り行かぬ剛腕二本に、不良たちは本格的な焦りを顔いっぱいに滲ませていた。
「おぉん……おぉ…」
「―――ヤバい、か?」
「こえぇ…♡、なんやねんコレ…♡」
時々ビクビクと鼓動波打つ誰の物とも知れない肉の腕は、自分たちを仕留める機会を今か今かと見定めているように思われ、不良たちは弱気を悟られまいと戦闘の意思を不甲斐ない細腕を挙げる事で示していたが、引ける腰は逃走の機会を此処か此処かと探しあぐね、膠着の状況は長い事続いた。
その止まない緊張を打ち破ったのは、地響きと共に来訪した怒涛の大声だった。
「四兄ちゃーん!!」
爆撃音は不良たちの鼓膜をいわし、まだそれでも余りある衝撃は三人の体を自動車事故宜しく弾き飛ばせしめた。
「おぉ、三四か!」
三四の来訪を認めた三四郎は亜空間から顔を出し、漏れなく両端から赤色を滴らせ、然し遣り切った様な充実した笑みを湛え三四を迎えた。何者にも侵されるべきでない学び舎に現れ立つ化物二匹。BとCが緩衝材となり瞬間の気絶を免れた不良Aはその光景をぼんやりと眺めると、化物の存在を改めて認識するとともに、城下町少年へのちょっかいはもう止めだと消沈し、意識を落とした。
「なんで来たの?」
「ちょっと一人の孤独な少年の手助けをだな」
「へー」
「三四ちゃーん」
次々と現れる来訪者。
三四は、追いかけてきた真白を指して、「私の友達!」と大雑把な紹介で三四郎に示した。
「おぉ、君が真白ちゃんか。三四から聞いているよ、いつもありがとう」
「い、いえ…」
「四兄ちゃんねー、なんかうちの生徒助けてくれたんだってー!」
「へ、へぇ~…」
「やめろよ、照れるじゃないか、はっはっは」
真白は、初めて見る雄々しい肉体に本来明敏である脳の働きを疎かにしていた。いつも三四の隣に付き従う肉の塊。遠目と間近で見るとでは、その違いにただ見惚れるだけだった。
立体的に隆起する肉厚の胸板、何者にも揺るがせないであろう大木の如き太腿、空間を大きく占有する幅広い背中と肩、それらをまとめあげるストリエーション迸る仕上がりドライな説得力。その夜、真白は初めてインターネットでボディビルディングを検索し、広大な肉の世界に深く深く潜っていったのはまた別の話だ。
「同じクラスかは分からないが、彦根城下町という小っちゃい少年だ、良くしてやってくれ。俺の初めての友達なんだ」
「分かった、探してみるね」
ピカタ三四郎、夏、初の人助け。
過程はどうあれ、心中に溢れる充実感と不思議な達成感に気を良くし、その日、三四郎は初めて歌というのを歌ってみた。三四との帰り道だったために、適当に切り貼りしたチグハグな歌を「何それ」と揶揄われるも、三四郎は変わらぬ雑な顔のまま気にせず歌い続けた。朱色の陽を背に、化物たちは仲良く凸凹に並んで歩く。それはこの街ではここ数年ですっかり見慣れた景色であり、すれ違う者皆一様に素通りしていく。街にはスピーカーから流れる物悲しい音楽が空響いていた。