閑話休題 箙瀬と城下町2
城下町少年は自室で胡坐とそれから腕を組んで、目の前で山となっている原稿用紙の束と対面しながらウンウンと唸っていた。時分は夕食前ほどで、蜩の物静かな鳴き声に陽は薄っすら沈みかけていた。何とかしてやりたい気持ちもあったが、さてどうしたものかと考え始め帰宅した頃からは実に長い時間が経過していた。
箙瀬からの頼まれ事とは、彼の恋慕する相手、地下アイドル大和屋たま嬢宛てに認められた原稿用紙の添削であった。自分では学が無いために気の利いた文章が書けず、また感情的に書き殴ってしまい要領を得ないものとなってしまうという理由で、これを任されたのである。引退する彼女へ、これから花道を行かんとする彼女へ知能の足りない怪文書を送り付ける訳にはいかない。せめて体裁を整えた文章で以てその門出を激励したいと言う、彼女の一のファンである事を誇りとする箙瀬の精一杯の思索の回答であった。
然し、その量である。積み重ねられたとはいえ、薄い紙の束がビール瓶の丈を少し上回るほどになっている。然も内容が酷い。ミミズの這った文字とはこの事を言うのであり、誤字脱字は当たり前で、彼なりに考え抜いたであろう言葉はその使用方法を悉く間違えられており、更に彼女へ狂った熱情は書きたい事を思いついたその端から筆を走らせているために、文章として成立している箇所の方が少ない。最早ワードサラダと言っても過言ではないのではないか。こんなものをどう添削していいのやら、城下町少年は中々動けずにいた。
考えに考えてから、城下町少年は文章自体の添削を諦めた。もとより、こんな狂った文字列を添削しようなぞ例え文豪であっても筆を投げるに違いない。これはもう、箙瀬が知的に創造したかったはずの文章を一から作るしかない、と城下町少年はパソコンに向かった。
城下町少年には、文章を組み立てる心得が多少、あった。読書を趣味とする少年は、不登校に明け暮れる時代に少しでも何か行動をしなければという強迫にも似た思いに、何となく自分でも物語を一つ書き上げようと奮闘していた過去がある。結局、途中で想像に限界が訪れ終ぞ完結まで持っていくことは叶わなかったが、それでもその制作の過程に培われた文章に対する技量は、極稀に胃臓が持ち上がる様なゾッとする迫力を吐き出す表現を生み出すまでに昇華していた。箙瀬の予想は、見事に的中していたのだ。
だが、これは箙瀬には想像し得なかった事だ。物語とは、小説とは清麗に富んだ表現ばかりではないのだ。長い文章を嫌う箙瀬は無論、そんな事を知る機会に恵まれる事はなかった。だから、城下町少年の好む作家たちの紡ぎ出す物語とその表現方法なぞ、知る由もなかったのだ。
城下町少年の愛読書は江戸川乱歩や夢野久作といった少し変態チックな作家の作品で、反対に純文学はあまり好きではなかった。そんな少年だ、自身の作品内でも流麗な表現を排除し、ドロドロ、ネチネチとした文章で以て悍ましさだけを凝縮したものを突き詰めていた。そんなもの、意中の相手の手紙に落とし込んでいいはずがない。何も考えずに筆を持てば別の怪文書が出来上がるだけで、その文章のまま送り付けた暁には最悪一つの事件として世に語り継がれてしまう恐れもあった。少年にもこの自覚はあった。最近は坂口安吾を読み返した事で少し緩和されているかも、と頭の端では思っていたものの、何をトチ狂っているのか、変わるはずもないだろう。
城下町少年は、偶に箙瀬の原稿用紙の言葉を拾いながら想像で文を書きあげ、とりあえずA4サイズ一枚分を使った。自分で読む分には良く出来たのではないかと思うところだ。然し、少年の懐疑的なところは自身にも向けられており、おどろおどろしい表現をしてしまう癖が出てはいないかと何回も読み直すが、はて他人は是をどう評価するのであろうか。
自分では分からないので、誰か別に読んでくれる人が必要だ。それも忌憚のない意見が欲しかった。父や母に見せるには少々小恥ずかしい。そこで、印刷した文章を持って自室の隣の部屋へ行くことにした。
「りんご? ちょっとええか?」
「なんよ兄ちゃん、うち今漫画読んでんにゃけど」
城下町少年の実妹、彦根りんごである。城下町少年の両親からすれば、まだまともな名付けをしたのではないだろうか。
それは兎も角としてこの妹、城下町少年とはその性質を真逆にする実に活力溢れる元気娘である。城下町少年とは一つ違いの、柔道をこよなく愛する中学三年生だ。その実力も大したもので、県大会では決勝戦の常連。その小柄を活かした素早い組手で相手を翻弄し、相手が堪らず足を出したところをカウンターで返す出足払いを得意技としていた。
さて、このベッドに寝そべって漫画を読んでいる妹。問題である文章への耐性はどうなのか? 訛りの強さは同じくらいであるが、実の兄貴とは目に宿る力強さが違う、体も健康的に生育している……頭の方は如何だろうか?
「ちょっとな、兄ちゃん友達に頼まれて手紙書いてんにゃけど、ちょっと読んでくれへんか?」
「え? もしかしてラブレター?! 見る見る!」
そういうのに敏感な年頃だ、りんごは漫画を放り出して直ぐに食いついてきた。城下町少年から用紙を渡されると大きな目を輝かせて、早速顔が青くなった。
「兄ちゃん…」
「やっぱ変なところあったか?」
「これ長い」
「…」
…………………………
確かに、城下町少年が綴った文章は長かった。然し、行間を十分に開けたり余白を調整することで、用紙いっぱいに文字を蔓延らせた訳ではない。りんごの言う「長い」とは、単純に一定以上の文字を認識すると読む気が失せると言う、残念ながら文章に耐性の無いことの所以だった。
それでも読んでくれと何度か交渉を続けたが、妹が頑なに文字の読み取りを嫌がるので、城下町少年は仕方なく読み聞かせることで手を打った。
「ほな、読むで。ちょっと恥ずかしいけんど」
「兄ちゃんが送る訳やないやろ? 何で恥ずかしいん?」
「そらもう代筆とは言え俺が作った文章やさかいにやな、自分の考えた内容を発表する事にも少しは」
「兄ちゃん、長い」
「…ええほん、ほな読むで」
ゴホンと咳払いで姿勢を整えると、城下町少年は心持赤い顔で以下の文章を読み上げ始めた。
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駄文にて失礼します。私は貴方の一ファンであり、貴方のこれからを思う一途な男であります。今、貴方は新たな行き先を見つけそこに羽ばたこうとしており、それは私にとっても大変嬉しいことで、是を喜ばないなど有り得はしませんが、然しそして貴方は私の目の前からいなくなり、私は一人取り残されるのであります。この哀れなる男の思いをここに載せて、是非とも貴方様にご一読貰えればこれ程幸せな事も無いでしょう。
私が貴方に初めて心を奪われたのは、何を隠そう二年前の春の事です。そう思うと本当に長い時間が経過したのだと、寂しいような切ない気持ちになります。貴方は大阪の地下のライブハウスで、激しい照明に照らされ妖精の様に可憐で妖しく歌い踊っていられました。何かのバンドのライブかと思って何気なく入った当時の私は、なんと幸福者だったのでしょう。天上より下界を見守る神々たちからの思し召しのように思いました。
私は、貴方を一目見て、それからはもう貴方に夢中でした。何がそんなに私を駆り立たせたのかは、実のところ私自身もよく分かっていないのであります。言葉で表そうにも、貴方の魅力を口にするには私の幼稚な頭では何も考えつかず仮に私がそのような言葉を持っていたとしても語りつくせない程に貴方はお綺麗でした。
あぁ、こんな日が来てしまうとは。私は貴方を呪います。私にここまでの幸福を築いておいて旅立たれる貴方を呪います。貴方の歓心を買うために、私は一回も欠かさぬようライブに足を運び、ファン倶楽部を結成し着々と貴方を慕う者たちと協力して貴方を応援していました。私のその姿は誰よりも貴方からは見えていたはずです。あぁ、どうか、どうかまた何処かで貴方を見つけられますよう、私は神に祈りを捧げます。この願いが叶うのであれば、私も素直に新しい道を歩んでいけると思うのです。難しいことではありますが、貴方のお姿は私の目に、脳に焼き付いております。いつか街中で貴方を見つけ出し、その元気な姿を一目見て、それで少し思い出に浸って、それから一言だけここでは書けない様な心の内を明かしたいのです。そうした哀れなる男の願いが、どうか叶いますよう。貴方に幸あらんことを。貴方が引退された後も、ずっと、応援しております。それでは…。
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「いや…気持ち悪ぅ」
「やっぱ、あかんか?」
「何でラブレターに『貴方を呪います』って言葉が出てくんの? ヤバイやん」
「ラブレター言うよりはファンレターや、ほんでそれはこの男の強烈な感情を表してるだけで言葉通りの意味やなくてやな」
「あかんて、変に知能あるストーカーの文章やん。こんなん貰たら気絶すんで、警察沙汰や」
さぁそれからが大変で、城下町少年は実の妹からの非難を受け何度か推敲を繰り返すも、どうも厭らしい表現が抜けずその度にああしろだのこうしろだのと指摘を食らった。然しこの妹、文才が一切なく実に稚拙な言葉ばかりを羅列してくるものだから城下町少年もだんだんと嫌になって来て、自分から頼んだのも忘れて夕食の報せを合図に引き上げてしまった。
夕食を終え、自室で再度文章の組み立てに齷齪する城下町少年。不適切と思われる個所の訂正や、一文そのものの改変などを行っていくがどうも自身の感性と嚙み合わず、気が付けばまた「地獄」だの「阿鼻」だの物々しい言葉が並ぶようになっていた。これではイケないと一度全ての文章を消して頭から遣り直してみるも、是も駄目。直接的な単語は見えなくなったが、その分泥濘に重く引き摺られるような地の文が際立ってしまう。
「何で俺がこんなんやらなあかんねん! 止めじゃ!」
とうとう癇癪を起こした城下町少年。腹癒せに原稿用紙の束を蹴りつけると、そのままベッドに体を薙ぎ倒した。そもそも、何故自分を痛めつけてきた不良の言い分を酌んでこんな事をせねばならんのか、自分で遣ると言っておきながらも無責任に湧いてくる苛立ちに城下町少年はもう一杯一杯だった。こんなもの自分で書かせればいいんだと、他人に遣ってもらうこと自体が不健全なのだと自分を正当化しながら腹の虫を暴れさせ、その内に落ちた。




