005 ハードパンチャー再来
「うわぁぁあああ! ハードパンチャーや!!」
「これが、噂のハードパンチャー君かねっ?!」
「うわぁ…」
「オェェェェエエエ!」
夫々の叫喚、一体三四郎だけ忌まわしき思い出に嘔吐し、その騒ぎに店内の客たちも何事かと一斉に最奥の丸テーブルに向き直った。吐く筋骨に、英国紳士風の男、店のオーナーに小さな少年。全くもって理解及ばぬ組み合わせで喚いているのだ。事の成り行きの分からぬ客たちにも、あまり良くない事が起きているのは容易に想像し得た。
「お客様方! 緊急事態です、お会計はいいので早くお逃げください!」
稲枝の突然の咆哮に、客たちは暫く戸惑ったままだった。稲枝達から一番遠い方の席では、「何だ?」「会計はいいって、ラッキー」など何ともまぁ、呑気な事だ。
「早く! 逃げてください、閉店です! 閉店!」
遅々として行動を起こさぬ察しの悪い客たちを無理矢理に立たせ、押して店外へとやる稲枝。店主としてお客様をお守りするこの行為は、正に適切な行動だろう。客たちは銃撃に倒れた客を担いで、無事全員が逃げおおせた。そんな事をしている間にも、乱入者は言葉を荒げていた。
「おい、化物! 何故電話をかけてこない? 電話番号はお前のとこの婦人たちにしっかり渡したはずだぞ?! 俺のハードパンチはお前たちを歓迎していて、俺は今か今かと夜も寝ずにハードパンチを求めるお前達からの着信を待っていたというのに! ハードパンチャーを何だと思っているんだ、俺はハードパンチャーだぞッ!!」
「オエッ! オエェェェエエ!」
「三四郎、お前そんなにもトラウマになっとったんか…」
謎の言葉を吐き続けるハードパンチャーに宛てられて、次々の想起に尚も吐き続ける化物。城下町少年も心配になって、何とかハードパンチャーとの間に、三四郎を庇う様な形で身を立たせた。少年も一つ成長していたのだ。
「これは、もうお仕置きだな。折角の俺の思いやりにも気付かない、お前達のその根腐れした性根とハードパンチャーの何たるかを改めさせる、ハードパンチなお仕置きが必要だ! お仕置きしてやるぞっ! 顔でも腹でも好きなところを出せ!」
「そこな、君。待て待て」
講釈に熱を入れるハードパンチャーに、イヤーンが言葉を挟む。それを聞いたハードパンチャーは、自信溢るる微笑み顔でイヤーンに向き直った。
「何だ、英国の老爺。お前も俺のハードパンチを受けたいのか? 吝かじゃないぞ」
「いやいや、それは御免被るがね」
「イヤーン先生、あんましこいつに話しかけてもアカンで。話通じひんにゃから」
少年はそういってイヤーンを諭すよう語り掛けるが、何か秘策でもあるのだろう。イヤーンは勝ち誇った様な顔で、少年を後ろに下げさせるとズイとハードパンチャーの前へ躍り出た。
「いやね、何故君がそこまでハードパンチに固執するか興味があるんだがね、是非それを教えて欲しいんだ。悪くないだろう? 少し私と語り合う事はできないだろうか? 君のハードパンチは素晴らしいものだと私は聞き及んでいる。私は君に興味があるのだよ」
「いいだろう、はいっ!」
「ゴホッ!」
嗚呼、何と言う事だ。勇敢と蛮勇は全く違うものなのだ。勇気と無謀を履き違えてはならないのだ。イヤーンは又聞きのため、ハードパンチャーの恐ろしさを過小評価していたのだ。その結果、腹に一発、重く突き刺さるハードパンチを貰う醜態を晒してしまったのだ。
「これで分かっただろう?」
「何も分からんわボケェ! 何いきなりハードパンチしとんねん!」
「ハードパンチャーの語らいはハードパンチを以て行うのだ。嗜みだぞ?」
「やかましいわ!」
哀れ、イヤーンはその一発で沈み、静かに横たわってしまった。イヤーンとハードパンチャーの悶着中、客たちの影は既に失せているため、残るは三四郎と少年と女店主である。それからは奇妙な緊張感が場を支配し、その雰囲気にそぐわないジャズ調の音楽が妙に滑稽でいて、そんな状況でハードパンチャーが次に動くまでジリジリと予断を許さない時間が続いた。
「…ふむ、然し、暑いな。こう暑いとハードパンチのノリもキレも悪くなる。申し訳ないが店主、ここにあるコーヒーを頂くぞ。料金はきっちり払うから安心しろ。ハードパンチャーは嘘を吐かない」
思わず、「あっ」と言いそうになった城下町少年だったが、そのコーヒーの味を瞬時に思い出し何とかその声を抑えた。そう、守山稲枝の提供するコーヒーは硝煙も香る銃撃の味なのだ。城下町少年は、上手く行けばハードパンチャーもその銃撃に倒れると、そう踏んだのだ。
何の疑いもなくグラスを手に取ると、ハードパンチャーはそのコーヒーをグイと一気に飲み干した。倒れろ倒れろ、苦痛に顔を崩して動かなくなれ! と城下町少年は手を合わせるような気持ちでハードパンチャーの機微に注目し続けた。
「…ン゛ッ?!」
グラス一杯分のコーヒーを見事に飲み干した矢先、ハードパンチャーがビクンと鋭く震えた。然し、依然倒れる気配はなく、顔もキリっとして変わらぬままだった。何が起こったか分からぬ、と言った首の動きをしている。
「…これは……銃撃か…? まさかコーヒーにハードパンチを落とし込んだというのか…?」
未知の衝撃に、頭の痛くなる感想を漏らすハードパンチャー。一般の人間と違い、その衝撃に耐え抜くあたり、やはりこの男は未知なる生物としての格が一つ違うのであろう。目を丸くしつつも、しげしげと空になったグラスを見つめる。今まで、涼やかな表情のまま揺るがなかったハードパンチャーであったが、流石にこのコーヒーには驚愕したものと見え、確かに双眸は異物を確かめるものに、僅かながらではあるが変化していた。
「フッ…」
意味ありげな息を一つ吐くと、くるりと背中を向け、言い放った。
「この銃撃に免じて、お仕置きは次まで延期だ。然し、忘れてはいけないぞ? お前たちの根性を叩き直すまで、ハードパンチの影から逃げられると思うなよ? 飽くまで今回は引いてやるからな? 覚えておけよ?」
「おぉ…スゲェ、ハードパンチャーもあのコーヒーには敵わへんのや」
「と言うとでも思ったか戯け! ハードパンチャーのこの俺に先制打をくれるとは何事だ! 無礼だぞ! このコーヒーを淹れた奴は誰だッ?! 俺はハードパンチャーだぞ!」
奥底の知れない意味不明な笑みのまま、再度こちらに正面を向け言いたい放題するハードパンチャー。誰も彼の行動を予期することは出来ず、またその意味も全く理解出来ない。これがハードパンチャーなのだ。
「今なら、このコーヒーを作った奴だけで許してやる、こんな衝撃、俺以外に打てていいはずがない!」
その言葉を聞き、それまで沈黙のままでいた稲枝が意を決したように一歩、ハードパンチャーへ進み出た。
「お前か。お前はここの店主か、コーヒーにハードパンチを混入させるとは大した技量の持ち主だ。然し、相手が悪かった。俺はハードパンチャー…。それ故に俺以外のハードパンチャーの存在を許す事が出来ないのだ。それが例え、パンチとコーヒーとでジャンルが違うとしてもだ! お前は確かに俺にハードパンチを打った! 先制を受けて笑顔で引き取るなぞしないぞ! 体力に差があるのを理解したうえで、女だてらに俺の前に出てきたその心意気や良し! だがそれはそれ、これはこれ。俺にもさせろよ! 腹を出せっ! ハードパンチャーだぞッ!!!」
瘋癲の常軌を逸する気迫に顔が青褪め、一歩脚を引いてしまった稲枝だが、くっと表情を入れ替えると背中にあるしっかりとした紐を解き、上着の裾に手をかけて、そろりと捲った。稲枝が着用していた女中服は、腰を起点に上下が分かれている特注品であった。それを着て、ウエストを細く見せるために黒い紐付きのコルセットを巻き、その上から装飾の少ないエプロンを被り、給仕していた。
稲枝の臍が露になる。自分が犠牲になれば、いつも来てくれる常連たちを守れる……気絶するかもしれないが、それは一瞬の事だ……ここだけ切り抜けられれば……稲枝の店主としての矜持であった。然しその恥辱に、頬に赤が浮かび嫌な汗も見える。自身の状況を少しでも考えまいと、ツイと横に逸らす目には玉の涙が浮かんでいた。
守山稲枝の自尊心のためにも、ここは例えや濁した言葉を用いて記すが、その白い腹は柔らかに見え、そう、まるで溶けた薄餅のように柔らかに見え、恐怖に慄く稲枝自身に呼応するかの如く肌理細やかに震え、その、あまり日々動かないものだから、それでもまだ後戻りは出来る段階でいて……。
「だらしない。何という腹だこれは?」
「ッ……」
配慮も何もない言葉を浴びせ、ぺちんと稲枝の腹をはたく。小さな波が起き、然し若く張りのある肌だから直ぐに細かく振動を変えた後にピタっと停止した。その屈辱と言ったら無い。稲枝の頬は、いや、もう顔全体が茹り、唇は一文字に結ばれ、目は一筋の水後を作って瞑れていた。
「ふざけるな、大概にしろ。何だこれは、これがハードパンチをコーヒーに落とし込むことの出来る傑物の腹か? 俺にハードパンチを打たせようとする腹か? 許せん、失望した。これではハードパンチをする価値もない。そこの化物の様に簡単に打ち崩せそうにない腹であれば最善、以前の少女の様に引き締まり、その運動能力を感じさせる素養があればまだしも、お前のその腹はどれにも明らかに劣り、そして怠惰に崩れている。みっともない、呆れた、こんな腹があるものか……ハードパンチャーである俺に対しての侮辱だ、ハードパンチへの畏敬が全く感じられない! 俺にハードパンチを打たせ、客たちを守りたいのであればその心を入れ替え、体を鍛えてから出直してこい! 話はそれからだ」
「グッ……うぅ…」
雨あられと降り注ぐ罵倒に、稲枝は恥辱に塗れ遂に耐えられなくなり、その場に崩れた。彼女も自覚はあったのだ。社会人になってから運動の機会が減り、カウンターで暇を潰す時間が増え、少し、だらしなくなってきた体に。
全速で走った記憶など、一体どれほど昔の事なのだろうか。渾身の力を発揮したのは、もしかすれば小学生の時分に収まるのではないか?
元々肉付きは人と比べていい方だった。それがまた女性的な方に向いていたから、見て見ぬふりをしていたのだ。まだなんとかなる。ちょっと頑張れば取り戻せる。ほら、女中服を召してコルセットを着ければ、まだいけるではないか。そんな、自分に対しての弛まぬ甘言を掛け続けた結果、彼女は今日この場で、気の狂った準化物に苦い現実を突き付けられたのであった。




