002 新・魔女のコーヒー屋さん
「いや、合うとるよ」
『本当か? 俺を罠に嵌めようとしてないよな?』
稲枝が持ってきたメニューを見ながら、城下町は三四郎と通話していた。メニューが届いた時にコール音が鳴り、それが三四郎だったのだが、亜空間で移動してきたは良いが店が見つからないとの事だったのだ。いつもの『魔女のコーヒー屋さん』に亜空間を繋げても、鮮やかな花畑が臨み、コーヒーを嗜むに適した音楽が聞こえる場所に出て来てしまうと言うので、少年はそこが間違いなく目的の場所であると言う事を自分でも半信半疑ながらに伝えた。
『じゃあ、もう目の前にいるはずだから、入ってみる』
「おう、奥の方の席やで」
程なくして、逞しい巨木がドア枠から登場した。久しぶりの邂逅であったが、筋骨に走る血管の勢いは変わらぬままで、見ただけで息災であったのかが分かった。
「あらあら! 筋肉さん、学生さんがお待ちですよ」
「ん…? おぉ? こんなだったか? うん?」
「さぁどうぞ」
目の前の女マスターもさることながら、三四郎は客に埋まる席を見渡し、あまりの変貌ぶりに首を傾げながら城下町少年の下まで案内され、引かれた椅子に座った。座ってからもやはり釈然としないようで、ちょっとあっちを見たり、そうしたと思ったらゆっくりとそっちを見遣るなど、化物が如何に戸惑いに駆られているのかが分かる。
「然し、何で客たちはみんな銃撃を受けたような顔でいるんだ?」
「あれよ、いつものコーヒー。多分やけど、パワーアップしとる」
「あれ以上があるのか…」
「見てみぃ、あのオッサン」
城下町少年がカウンターの席に座り、苦悶の表情のまま固まっている中年の男性を指差した。城下町少年曰く、男性は町内でも一際有名なユーモア有る人物で、例え不味い料理を出されてもそれを笑いに変える剽軽さと言葉選びの才に溢れた傑物だと言うのだ。然しどうしたことか、そんな俊逸の人の口は目に見えない力であらゆる方向から無茶苦茶に広げられている様な形に歪み、両の目は眉間や眉毛をも巻き込んで面の中心に罅割れを起こしている。然も、呼吸が出来ているかすらも怪しい、喘ぐような、しゃくり上げているだけのような、そんな奇妙な動作だけをする出来の悪い玩具になっていた。
「あのオッサンが口も効けへんであんなんなってるんはヤバいで」
「じゃあ何か。あの珍妙な動きは何かフォローの言葉を投げようとしているとでも言うのか?」
「投げようにも思いつかんし、思いついたとしても口が言う事聞かへんねやろ」
「他の客も可哀そうに…。店の雰囲気に魅せられるまま入って皆銃で撃たれたんだろうな」
三四郎の言う事は確かで、まだコーヒーを口にしていない幸せな人々は会話に花を咲かせているのだが、一口でも啜ってしまった不幸な客たちは各々思い思いの苦痛に固まり、或いは小さな呻き声を上げていた。天国と地獄である。いや、天国と地獄の狭間であるところの煉獄であろうか。コーヒーが清めの聖火足りうるのか、聖杯への口付けが罪を清め払うのかどうかは、全くもって定かではないが…。
「とにかくやな、明らかにおかしい訳や。コーヒーも店もやけど…ほれ…マスターも、へへ」
「感情豊かになってきたのは良い事だが気色の悪い顔だな、だらしないぞ」
「やかまし!」
「ご注文はお決まりですか?」
コソコソと遣る二人の下に、ニコニコしながらやって来た話題の人。あの不気味な雰囲気と客を馬鹿にしているかのような態度は何処に行ってしまったのか。一見、これは正方向に取れる変貌だが、ちょっと前までの実をしっている身からすると空恐ろしく奇妙な事この上ない。そんな気を知らないで、稲枝は手にメモとペンを持ち、客の注文を今か今かと待ち望んでいる様子だ。
「コーヒー…、いや、紅茶…、いや……どれも怖いな」
「俺も全然頼まれへん。いつものは強化されとるし、他のにチャレンジなんて以ての外や。どれも死ぬ」
「まあ、なんだ…とりあえず…アイスコーヒーを二つで」
三四郎が言うや、稲枝は「かしこまりました」と恭しく御辞儀を残し、再度カウンターへ引っ込んでいった。それを見届けると、テーブルの少年と化物は顔を突き合わせこっちも再度コソコソし始めた。
「なぁ、あのピッチピチのメイド服何なんだ? 前は爺臭えジャージだっただろう?」
「知らん、俺も分らん。でもあのバインバインが見れるんや。男やったら噂聞いただけで来るやろ。ほんで、髪上げたら意外と顔立ちもええやんか、女子受けもええでアレわ。接客態度もええし」
「変わったのはいい事だが、変わり過ぎじゃないか?」
「さっきも言うたけど、確かにおかしい」
稲枝の隙を突いての会話だが、堂々巡りでどうも進展しない。疑問を発しては、変わり過ぎだのおかしいだのと、いつまで経っても話の筋を見極められず、本来久々に落ち合って近況の話や夏休みの最後をどう遊ぶかで時間を使うはずが、とうとう問題のコーヒーが到着するまで無駄に消費してしまった。
「お待たせしました」
一見、何の変哲もない黒いコーヒーだ。カランと音を立てる氷が清涼感を醸し、一口飲めば、苦味がベタつく口内を爽やかにする、暑い季節にはもってこいの飲み物であろう。然しそれは普通のものの話であって、この店のその味は銃撃の如し。啜れば最後、顔が砕ける。
「いつも来てくれてるんで、少し濃いめにしておきました。サービスです!」
「要らんことを…」
更なる追撃の予感に、城下町少年は唾を飲みこんだ。冷やされているはずの黒い液体からは、有り得ない異臭が立ち昇り、恐怖感も一入。見れば見るほど普通なのに、逸脱した状況の客たちを見るとこれは頂けない。注文をしたはいいが、どう処理することも出来ない。飲むべきか飲まざるべきか、考えるまでもなく後者だった。
「そ、それにしてもお姉さん、随分変わらはりましたねぇ、あは」
「そうでしょう? あのオジサマのお陰だわぁ」
「カウンターのおっさんか?」
「違いますよ、数日前にいらした英国紳士風のオジサマよ」
コーヒーを飲む前の、時間稼ぎのためだった城下町少年の質問は、意外にも別の話を引き出す誘因になった。稲枝から出た知らぬ人物の存在に、助かった! と少年と化物は同時に彼女の方に振り返った。
「あのオジサマに頂いたコーヒー豆を挽いて飲んだら、世界が全く変わったのよ」
「変わったっちゅうのは、どういった…」
「世界が愛に満ちていることに気付いたのよ。それなのに私ったら、いっつも陰気なままでカウンターに突っ伏してたものですから申し訳なくなっちゃって」
「もう少し詳しく」
「もっと聞きたいの? 良いわよ、常連さんの頼みだもの。そのオジサマに貰ったコーヒー豆っていうのが、もう全然知らない豆だったの。調べても分からないから、ここは試しに! って勇気を出して飲んでみたのよ。そしたらね? 薫りも味も何にもしなくて、私騙されたって思ったんだけど、飲んでいくうちにどんどん心が軽くなっていって、楽しくなってきたの」
「…ん?」
時間稼ぎだ、時間稼ぎのための繋ぎだ。あわよくば飲まない選択肢を発案出来ればと、城下町少年も三四郎も同じ気持ちでその会話を引き伸ばした。稲枝が楽し気に語る、コーヒー屋の店主と客の遣り取り。その内容に突然影が訪れ、一人と一体は強烈なデジャヴュに襲われた。
「もう私、自分の見た目やウジウジしたとことか、そんなの本当にちっさな事だったんだって気付いて、遣りたいように遣ろうって、そう思ったの。それでね、思い切って小さい頃から憧れだったメイドさんの恰好をして、店も思いっきり変えてみて、コーヒーも気合を入れてね」
「ちょ、ちょっと待ちぃな。そのコーヒー豆ってほんまにコーヒー豆やったんか?」
「コーヒー豆よ? 淹れたら黒かったもの」
「そんなんで判断したぁ、あかんで」
「いや、今ので何でこんな不味いものが出来るのか分かった気がする。それはともかくだな」
何となくだが、城下町少年も三四郎も思い当たる事があった。互いに顔を見合わせるに、恐らくその可能性は高い。
『化物因子』
人に障れば、心身に改良か改悪を齎す、傍迷惑な物質。改良であればまだ良し、改悪の場合は社会的思想の枷から解き放たれた準化物が誕生したことになる。
さて、この守山稲枝。一説聞いたのみで判断すると改悪だ。気分が軽く楽しくなるのは、改悪の兆候だからである。そして自分の欲望に忠実になるのもまたその一つ。コーヒーに思いやりがなくなったのも是が原因であろう。
然し、この事に関しては城下町少年と三四郎はまだ楽観的であった。稲枝の提供する飲食からの被害を抑えるには、単に客の来店を阻害出来れば良いのであって、正しい正しくないの選択をしなければ何とでもなる。それよりも思考に引っ掛かって蠢いたのが、稲枝が貰ったというコーヒー豆である。
稲枝が『化物因子』に感染したかどうかはまだ正確な判断が付かないものの、件のコーヒー豆がきっかけになったのは間違いがない。人の悪意で作られた、人の精神を破壊し、再構築する作用を促す科学的叡智の結晶だったのか、それとも準化物化が正解だったとして『化物因子』が偶々偶然にも凝縮されやすい種だったのか。前者も問題と言ったらそれはもう勿論大問題で、何かしらの目的を持った組織による大規模犯罪の序章になるのであろうが、もし、もしもだ。後者だった場合、人類が感知していないはずの『化物因子』の存在を確信して、それを意図的に集め、扱い散布する者がいる。
先に思い行き着いたのは三四郎であった。ハードパンチャーの一件で悉く懲りた三四郎は、『化物因子』の話題に事敏感になっていた。今回も、『化物因子』絡みの問題である可能性が十分にある。極自然的に人に感染し、準化物が誕生してしまうのはこの際何とかしよう。だが、是を意図的にばら撒いている存在があるのであれば、これ程迷惑な事も無い。茎から根から、徹底的に叩かなければ被害は拡大の一途を辿るばかりだ。
「マスター、どうかねその後は!」
城下町少年と三四郎が神妙に目を合わせ、稲枝が微笑みながらも不思議そうに首を傾げる中、外から聞こえるほんのちょっとだけたどたどしい日本語。少し崩した英国紳士風の服装をした、少し年の行った男が現れた。
「オジサマ! また来てくださったのね!」
稲枝が嬉々として来店を歓迎する。
歓迎を受けた男は、守山稲枝にコーヒー豆を渡した張本人であった。




