003 風の住人3
お母さん、あぁ、お母さん。
これは、手紙ではなく、私の心の内の独白となりますが、もし叶うのであれば、この悲哀に満ちた独白が届きますよう、心から神様へお願い申しております。
お母さん、私は貴方に向けた手紙を衝動のままに書き終えると、是を持って老婆から拝借して部屋のあるアパートの前に停めたままだった自転車に飛び乗りました。最寄りのポストに立ち寄って、手紙を投函して、それからは只々街の中を気の向くままに疾走して、私はその内自分がバイクにでもなって走っているかのような感覚になりました。私はそうして、上空を駆ける風でありながら、街を駆け巡るバイクにもなれたのです。
バイクになってからの私は、それはもう、その気持ちの良い事を只管に感じながら街を散策しておりました。とある長大で真っすぐな道に出た時です。
三つの学生服姿が見えたのです。その前を通り過ぎる時にチラリと見えたのですが、何とその学生達はまだ未成年であるにも関わらず、大人の真似事をして紫煙をユラユラと燻らせているではありませんか! 何たる素行の悪さだ! 学生の誇りである制服に身を包みながら何という不徳を働く不届き者たちだ!
以前の私ならば、関わったばかりに受ける不条理な暴力に恐れをなし、徹頭徹尾『我関せず』の姿勢を崩さず、その後の彼らの行き着く未来も考えず、そのまま行き去ったのでしょう。然し、私は既に自然の一部となっているのですから、風は人の暴れ狂う力など意にも介さないのですから、彼らの将来を案じて一つ、仕置きなんぞしてやろうと考え至ったのです。
直ぐに引き返して彼らの前まで来ると、私は私の精一杯の憐れみを込めて鼻でせせら笑ってやりました。そうすると、私の想像通り、彼らは茹蛸の様に顔を真っ赤にして(それはそれは綺麗な赤色でした)、それと同時に吸っていた煙草を手放して私を追っかけに来ました。私はそれを確認すると、矢庭に走り始めました。
ここまでは私の計画通りで、私の次の計画は喫煙による肺器官の損傷と、それによって引き起こされる体力の減衰を思い知らせてやる事でした。その為、私は自転車のペダルを漕ぐ速度を操り、宛らインターバルランニングの様な、減速と加速を繰り返す、アスリートが取り入れる様な高強度トレーニングを体現出来る素晴らしい妙案を実行したのです。
これをやると、変な髪型ばかりの不良たちは私を必死に捕まえようとじたばたして、速く走れば全力で追いかけて来て、力尽きそうであれば私がそれに合わせて遣り……。彼らには申し訳ない事ですが、その姿があんまりにも人間に弄ばれる鼠の水泳実験の様な姿なので、私は零れる笑みを抑えるのに必死でした。
そうしている間に、とある十字路まで来ました。電信棒が邪魔をして、車の往来が見えにくい様なそんな十字路です。そこを右折すると、何と遠くに見知った顔の超身長化物と、枯れた木のように頼りない化物の姿が見えたのです。傍らに可憐な少女もおりましたが、私の興味はもう化物たちに注がれ、恐らくどれだけの美女が傍にいようともその時の私には関係の無かった事でしょう。私は全力のちょっと手前の力でぺダルを漕ぎ始めました。未知なる力を持つ化物を、愚かにも試そうとしたのです。然し、ここで私は己の失態に気付きました。
興味に突き動かされるままペダルを漕ぎ始めましたが、どうやって化物をこちらの土俵に上げるのか、全く考えていなかったのです。何か方策を考えねばならない、そんな事だけが頭の中を駆け巡っていたのですが、そうしている間に彼らの前を通り過ぎてしまいました。直ぐに引き返そうとも思ったのですが、そうすると力尽きた素行の悪い三人組が生き返って勝負の邪魔をしてきてしまって、折角の気分が台無しになってしまいます。私は少し考えて、今日は運が無かったと諦めようとしていた所でした。
「おいおい、そんな急いで何処行くんだ?」
何んと、あの枯れ枝にも似た体をした化物が私の直ぐ横に、風でありバイクである私の左方に並んで走っているではありませんか!
私は、あんまりにもビックリしたものだから、素っ頓狂な声を上げて一瞬ゾッとしてしまったのですが、化物を試そうとしたのは自分、寧ろここで追いつけないようでは拍子抜けも拍子抜けではないかと思い直し、勇気を持って彼に声を掛けたのです。
そうしたら、案外彼は気の良い性格らしく、私の質問にもしっかりと答えてくれました。真面目にも名前まで教えて貰ったので、私は子供の時分に読んだ侍同士の戦いを綴った本の中に、互いに名乗り合いをする侍の姿を思い出し、こうするのが礼儀と苗字ではありますが相手と同じように名乗り返しました。本の中では、ここから緊張感に唾をも飲む戦いが始まるのですが、それを知らないでかジョージという化物は、事もあろうに熱気も白ける無駄話を続け、終いには私に向かって「止まれ」などと奇妙な事を言い始めたのです。勝負に気鋭盛んになっていた私は、ここで彼の言葉を否定し更なる速さに向かったのです。
私は、私の速度における天上突破を確信しました。先程よりも、確かに速くなっている。目に映る街路樹ですとか、次のバスの停留所の看板ですとか、道沿いに建設されたガードレールですとか植えられた雑木ですとか、自身の後方に去り行く景色たちの速さが格段に上がっているのです。光景が読んで字の如く、正に、光に近付いている。私はまたも幸福に心を支配されたのです。
「諦めろって」
だと言うのに、この化物はまだ余裕そうに私の左方で不気味にも語り掛けてくるのです。腕まで組んで、居間で寝転んでテレビでも見るように、当たり前と言った風体で会話を続けるのです。
私は、二度目のゾッとした気分を味わって、額から頬にかけて汗が流れるのを感じました。然し、ここで格負けする様では風の名折れ、私は努めて平静を装い再度その会話に応じました。
「なかなかブン速いですね。人の身を超えた風の速度にブン追い付いてくるなんて」
「あぁ、俺はお前ら人間の十六倍の速さで動くことが出来るからな! ガーハーハー!」
「さすが化物です。人の身なぞとうに及ばない境地におられるのですね、ブンブンブン!」
「そういうことだ!」
「そういう話であれば、ブゥゥン、私は更なる最高速をもって」
「無理だよ」
「ブンっ?」
化物は、私の言葉を遮ってまで主張を述べました。
「俺は、お前が人間の速度平均を上げれば上げただけ、その十六倍で動く。大人しく止まるんだな」
私は、明確に、化物から勝利宣言を突き付けられたのでした。
この時の私の気持ちと言ったらありません。勝利宣言を突き付けられ、到達し得ない境地を誇示され、私は、もうこれ以上の屈辱は無いと心に憤りを宿しました。風になった身で、初めての激しい怒りと不快でした。真っすぐな道を過ぎ、右折左折を幾つかやり、私の大好きなあの畦道に出てきました。ここからは、私の領域です。そうなってからはもう、無我夢中でした。何としてもこの化物を越えねばならない、風となった私にはその義務がある! 私は、何時しか自転車が余りの負荷にバラバラと砕けたのにも気づかず、負けられぬという気持ちソレだけで唯只管に走っていました。
畦道を過ぎ、病院を超え、まだ速さ勝負は続きます。遂に湖岸まで走り切ると、ここで優劣の差が明らかになる、と私は直感しました。私は、ここの時点で負ける事など考えていませんでしたし、それには理由がありました。
体を駆け巡る全能感。脳を泳ぐ光の幸福感。私は、私の速度の更なる進化を予期していたのです。野山を臨む湖岸を走り続け、交通障害も余所に市を跨ぎ、そうしている内に見える景色に変化が訪れました。
過ぎ去る人、車、家屋、湖の波々、その滑らかさの何たる事か。言葉には出来ない、見た者にしか分からぬ時間の遅延さえ感じられる様な圧倒的速度。景色が溶け、光の線に自身が覆われる。耳に聞こえる風切り音は、モーターの高速回転する音を遥かに超え一繋ぎに。風にも到達できぬ、神々の領域へ―――――。
「もうそろそろ満足したか?」
「なッ…」
なのに! なのに、化物は依然飄々として、遂に私の前に恐るべき加速で回り込んだのです。時速で言うとどれくらいでしょうか。無知な私には想像も出来ない数値でしょう。
先刻、化物は人間の平均速度が上がれば上がるほど自身の速度も上がる、そう明言していました。その言葉を、私はここで思い知る事になったのです。
「俺の移動速度と言うのはな? 実は乗り物を含む人間の総合的な速度平均の十六倍を言うんだ。あんまりにも破壊的な速度を出せるもんだから、俺も周りには『人間ベースの十六倍で』って計算数値が少なくなるように言い回ってはいるが…。だから、お前らが普段使う電車や最速と言われる戦闘機や宇宙船、こういったものも計算に含まれる。その平均の十六倍だ」
「そ…そんなの風じゃあ」
「無理だよな、だからお前は俺に勝つことが出来ない」
気付けば脚を止め、手を地面に着いて四つん這いの状態でした。発汗の量も異常で、出る汗によって乾いた皮膚が潤いを取り戻すといった状況に、その時になって気付いたのです。詰まる所、私は走りながらにミイラの如く、この体を崩壊させていたのです。
「まぁ人間のまま海の上を走って、あそこからこんなよく分からん外国にまで来てご苦労さんってとこだが、とりあえず俺に勝つ事は諦めた方が良いぞ! ガーハーハー!」
確かに、見知った日本の雰囲気ではない事に、恥ずかしながらそう言われて初めて気付いたのです。私の認知能力は、自身の速度に追いつけず景色を光に変え幻覚を見せていたのです。私の体は、その速度に耐えられず崩壊し、決定的な損傷を受ける手前で化物に制止されたのです。と言う事は、化物はそう言った事も全部認識出来ていて……。私の完全敗北は明らかでした。
「おぉ…おぉ……!」
「風になれたんだから、それで良いんじゃないか?」
化物の言葉に私は渇きに剥がれる体も気にせず、と言っても痛みなど全く感じない、そう言う状態になっていたのですが、ともあれ私を見下ろす化物の顔を見るために頭を上げました。
「『化物因子』の作用とは言え、人の身で至るところじゃない。そこまで行けたんだ、満足して人間最速を楽しんだら良いんじゃないか?」
「それは…」
「俺は、人間に壊滅的な害を与えなければ『化物因子』で変化する人間がいても良いとは思う。ハードパンチャーみたいなのが増えるのは御免だが…。お前は別にそういう感じではないし、お前がお前だけで楽しむ分には俺は文句言わんぞ?」
「私は、風のままでいいのですか?」
私は愚かにも、この時分でさえ自分が風であることに固執していました。私はこの短い数日間で、こんなにも自分善がりな性格に変わってしまっていたのです。然し、そんなしょうもない考えも宇宙の速度をも体現し得る彼の言葉に、瓦解することになります。
「良いぞ。風のまま、風と言わず、光にも成っていい。存分に、自由に走り回れ」
俺たちに手間をかける事がなければな、と彼は付け加えましたが、私にはその言葉だけで十分でした…。お母さん、こうして風となった私は化物相手に、完膚なきまで負けたのです。




