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化物列伝ピカタ三四郎  作者: ピカタ三四郎
第二章
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閑話休題 秋山の変化



 お母さん、あぁ、お母さん。どうか、この哀れなる息子の旅立ちをどうかお許しください。

 私はもう人の身でないのです。人の身を通り越した、一つ上の次元のものとなったのです。息子のこの独白を見て、あなたは素直に祝福の言葉を掛けてくれるのでしょうか、それとも人の身を離れた息子に悲哀を感じてくれるのでしょうか。


 私がこのような身になった経緯を次に想します。どうか驚かずに最後まで読んで、息子の幸福を感じて頂ければ幸いです。



――――――――――



 その日も、また暑い日でした。その日は特に陽射しは容赦なく、蝉もまた一層激しく、そんなに動いてもないのに汗だけはこれでもかと湧き続ける、そんな日でした。私はいつもの草臥(くたび)れた背広と、傷だらけの革靴で身を包むと会社に向かったのです。



 会社に着くと、点呼もされず、いつも事務所にいる所長に奥の面談室へ呼び出されました。何も分からない私は、何だろうと思うもその後伝えられる話を聞くと顔を青くして、夏の暑さをも忘れることでした。要するに、いつもの素行がバレていたのです。タクシーの配車エリアのお客様から、「○○番の運転手が煙草を吸っていた」というのを告げ口されていたのです。私の勤めるタクシー会社では煙草は御法度であり、その人権は剥奪されているのです。



 告げ口のことを所長から聞くと、私は急いで素直に謝罪を述べました。所長もそんなに怒っている風ではなくて、とは言っても一応立場もあることですから、しっかりと私に注意の言葉をかけ、私は恐縮して頭を下げ、謝罪の言葉を連ねるばかりでした。暫く説教は続き、解放される頃にはタクシーに乗ってもいないのに、私は疲れ切ってしまいました。

 これが、この後に述べる私の変化に繋がった大きな要因になった訳ではないのですが、少なくとも、それまでにかかっていたストレスに加え考えると、これも一つのきっかけになったのは否定できないところです。



 解放され、点呼を済ませ、速やかにタクシーへ乗り込み病院へ向かいます。田舎のタクシー事情に詳しくない人からすると不思議な行動かと思いますが、人の多い都会とは違って流しなんてやっても精々が日に一人あればいいくらいで、売上になんてとても繋がらないのです。その代わり、病院通いのために予約をする高齢者が多いものですから、病院に行く頻度の多い畦の中にある集落の周辺ですとか、思い切って病院のタクシー待機場所で帰りの客を静かに待っていた方が売上が上がるのです。



 その病院へ行くまでにも長い時間を要し、その道中は開けた畦道ばかりで大変にのどかです。私はこの緑と水と虫と鳥とがいる景色が大好きで、喧騒にまみれて仕事に詰込まれる日々を思い返しますと、これほど心の梳く()思いも無いのです。

 この道に出ると、私はエアコンとラジオを点けっぱなしのまま窓を開け、夏の生暖かい風を楽しむのです。湖があるせいか湿り気が多い気もするのですが、速度がある分扇風機くらいの涼しさで体に心地良いのです。常時交じる草の青臭い匂いもまた風情を感じられるようで、ラジオから流れる爽快な音楽も背音声となり、相まって、日々の鬱蒼とした気分もこれで帳消しになるほど私は快感を覚えるのです。そして、広く長い、病院までの最後の畦道に出た時でした。



 いつもなら、この時分にはあっさりと良い気分になっているものでしたが、今日は少し違いました。いつまでも渦渦とした気持ちが張り詰め、ともすると急に叫びたくなってきたのです。実は、私は大の煙草好きで、とは言っても様々な種類をその時々に応じて選ぶ程は精通していなかったのですが、これを仕事中の慰めとして吸引していたことを咎められたからこんな気分になるんだと思いましたが、どうも違うのです。



 暫くすると、窓から来る風がやけに肌にヒリヒリと感じられるようになってきました。乾燥してきたか天候でも変わったかと、空を見遣っても特に変わりはありません。気持ちもピリピリと疼き始めました。



 体に風が当たり続けていると、今度は気分が晴れやかになってきました。これが、とんでもない幸福なのです。私は何かイケない気分にも苛まれたのですが、終ぞその快感に抗えず素直になりました。そうすると、日々のストレスだとか朝からの説教だとか、もう何もかもが小さい事に感じられて、同時に自分が世界へ肥大していく感覚に襲われました。これもまた、とんでもなく仕合せなのです。



 いっそ歌の一つでも気分のまま歌ってみたくもなりました。

 体が宙に舞う蝶のように軽く、心はそよ風に揺れる花のように晴れやかなのです。最早生死における仏教的概念すらも、この快快の心持の前では唯のロマンティックな感傷の一つに過ぎないのです。突然湧いて、そのまま火の如く駆け抜ける穏やかな情熱はやがて私を飲みこみ、私に目くるめく夥しい光の線と影を見せつけるに至り、そうして私の人としての辛い出来事は遥か彼方の思い出となり、意識はもうどうにも止まらない快楽の底に沈んでいきました。



 そう、私は風になったのです。人々の肌を撫でて回る優しい微風に、勢いのまま木々を薙ぎ倒す強さに満ちた暴風と成り果てたのです。人の身を大きく超えた、自然の一部と成ったのです。



 私はその気持ちの良いままタクシーを乗り捨てると、田に入り仕事をしていた老婆のものであろう自転車を拝借し、衝動に促されるままに元来た道を疾走しました。畦道を抜けると、これまた衝動のまま体力尽きるまで街を駆け抜けたのです。



 この手紙を綴っているのは、以前の貴方の息子ではありません。自然の一つとなり、昔の「俺」も捨てて、この世界を空から見下げる存在となったのです。そうなってから、疾走は私の趣味になり今日もこれから、一つ、この興味に尽きぬ感覚を再度味わうためにもう一度街を駆け抜ける予定です。


 お母さん、再度謝罪致します。貴方から生まれた身でありながら、貴方と同じ人の域を超えて、貴方を残し先に進むこの愚かなる息子をどうか祝福の言葉で送り出してください。それだけが私の望みであり、そして私がお伝えできる現況の全てです。



――――――――――



 秋山の母は、昼時に届いたこの手紙を読んで、三十を二つ越した息子のことを少し考えると「いちびったぁあかんで」という旨の手紙を書いて、投函した。母の最後の優しさだったが、返信の便りはいつまで待っても玄関の投函口には見えなかった。

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