免疫記憶
「本気じゃないなら、あの女はやめておけ」
孫娘の二回目の予防接種に向かう車の中で、院長は俺に言った。
「君のやんちゃぶりは、私のところにまで聞こえているよ」
院長の耳に入った経緯には心当たりがあった。
診察室で女にキスするところを見られていたらしく、看護師に『私と結婚してくれなかったら院長に言い付ける』と脅された。そいつは一回寝ただけで彼女ヅラをしてきて、辟易していたところだった。それで、『勝手にしろ』と返したのだけど、どうやら本当にバラしたようだ。
まあ、いい。院長も女癖が悪いことで有名だ。患者に手を出したわけでもあるまいし、俺の印象が悪くなることはないだろう。
「本気だったらいいんですか?」
『本気じゃないなら』という言葉にひっかかってそう訊くと、院長は不気味な笑みを浮かべた。
「あの女と添い遂げて、かつ私の病院を去らないと誓ってくれるなら、むしろ大歓迎だよ。君に何かと便宜を図ってやってもいい」
急に話がきな臭くなってきた。
「すみません、遠慮しときます。あの女のことはちょっと揶揄っただけで、別にどうこうしたいわけじゃないんで」
すぐ断った俺に、院長は「そうか」とだけ返して、それ以上は何も言わなかった。
***
「ジャンパーをお返ししたいんですけど」
院長の孫娘に痛い思いをさせずに注射するというミッションをコンプリートした俺に、女がこっそりと話しかけてきた。
「家に置いてきちゃったので、先生のご自宅に届けに行きます」
今返してくるのかと思いきや、女はそう言った。
「今晩なら、八時以降は家にいる」
返してくれなくていい、と告げるつもりが、俺はそんなことを口走っていた。
女は、八時ぴったりにインターホンを鳴らしてきた。
「すぐにお返ししたくて何度か伺ったのですが、お留守で……」
玄関でジャンパーを受け取った俺に、申し訳なさそうに言った。
「ああ、それは悪かったな」
このところ女の家を渡り歩いていて、帰りは深夜だった。
「入る?ワクチン打ってやるよ」
ドアを大きく開けると、女は素直に俺の家に上がった。
「体調は治ったのか」
注射の準備をしながら問いかけた。
「はい。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
女がしおらしく謝ってくる。
「急に酒を飲んだのにはびっくりしたな」
「すみません。あの時は意識が朦朧としてて……」
恥ずかしそうにしている。嗜虐心がくすぐられるけど、グッと堪えた。
「あれだけ熱があったらそうだろうな。俺が期限切ったせいで無理させたか」
「いえ、違うんです」
女はそれを否定した。
「もっと早くこちらに伺うこともできたんですけど、あの、自分へのご褒美にしたくて……」
途中から声が小さくなって、よく聞き取れなかった。
「ご褒美?」
聞き間違いかもしれないと思って確認したら、女は頷いた。
「あの日は、試験があって、終わったら先生のところに行こうって……」
「ああ、高卒認定試験か。悪い、鞄ん中見たからさ」
「いえ、いいんです。そうなんです、私、ちゃんと高校卒業してなくて」
「それは分かるけど、ご褒美って何だよ」
焦れてそう尋ねると、女は俯いて言いにくそうにした。
「まさか、注射をご褒美だと思ってんのか?だとしたらあんたも相当変態ーー」
「違います!先生に、会いたくて」
顔を上げた女の顔が、赤く染まっていく。
「は?俺に?」
会いたいと思わせるようなことをした覚えはない。俺がこの女にしたことは、キスをして、予防接種を餌に家に呼んだだけだ。
「すみません、急にこんなこと言って。でも、私にとっては特別で。ずっと先生のことを考えてしまって」
それはつまり。
「俺にキスの責任を取れと言いたいのか」
女がぶんぶんと首を横に振った。彼女が頭を動かす度に石鹸の匂いが香ってくる。興奮してしまいそうになるからやめてほしい。
「そうじゃないです。私、久しぶりだったんです。先生は私に、丁寧にワクチンの仕組みを教えてくださって、家政婦だからってぞんざいに扱ったりしなくて。人からあんな風に優しくしてもらうの、すごく久しぶりだったから……」
目が潤んでいるのを見て、俺は自分が罪を犯したことを知った。
「あんた、来年から大学に行くつもりなのか」
そう尋ねたら、はぐらかされたと思ったようで女は微かに傷ついた顔をした。それでも、俺の問いに肯定した。
「院長と何かあったか」
続けて訊いたら、女は迷うように目を泳がせた。
「ああ、言いにくかったら無理にはーー」
「父が三年前にあの病院で死んだんです」
俺の声に被せて、女は覚悟を決めたように話し始めた。
「簡単な手術のはずでした。多分、医療ミスがあったんです。母は病院を訴えようとしてたけど、私は、院長先生から報酬を弾むからうちで働かないかって言われて、その申し出を受けました。だって、妹はまだ中学生で、生きていくためにお金が必要だったから」
その話を聞いて納得した。
三年前に院長の息子が医療事故を起こして、それを院長がもみ消したという話を聞いたことがあった。今朝車の中で院長が俺に変な交渉を持ちかけようとしてきたのは、勤務医の俺がこの女と結婚すれば、病院を訴えられるリスクが減ると踏んでのことだったのだろう。
本当に、反吐が出る話だ。
「悪かったな」
「え?あ、え、もしかして手術したのって先生ーー」
「そうじゃなくて」
たくさん傷ついて、それでも生きていこうとしているこの子に、俺は軽はずみな言葉をかけた。
「若いのに大変だな、なんて、何も知らない奴に言われたくなかったろ」
「いえ、そんな……」
「大学行くってことは、院長の家で働くのはもう辞めるのか」
「はい。もう十分お金は貯まりましたし、愛香さんも小学生になるので」
「そうか」
バイアルから注射器に、ワクチンを充填していく。
「あの、先生……」
注射器をタッピングして中の気泡を入念に抜いていると、女が沈黙に耐えかねたように声を発した。勇気を出して好意を伝えたのに、俺がスルーしたものだから、返事をくれと言いたいのだろう。
「俺はロリコンじゃないんでな。あんたみたいなガキには惹かれない。キスしたのは、子供の腕が腫れただけで必死こいてるあんたが面白くて、揶揄いたくなっただけだ」
女の腕を捲りあげて、俺は精一杯の強がりを口にした。
「あんた、男を知らないから俺みたいなのに引っかかったんだよ。大学行っていろんな男に会えば、俺のことなんかすぐに忘れる」
アルコール綿を取り出して、さらに続けた。
「俺にかかったせいで、あんたもだいぶ男に免疫がついただろ。普通、男に急にキスされたり、男の家でエロ動画を見せられたりしないしな。だから、次はちゃんとした奴とちゃんとした恋愛をすりゃあいい」
俺はそんな押し付けがましい言葉を並べたてながら、女の腕を消毒した。
「先生」
注射器を手に取った俺を、女が呼んだ。
「思いっきり、痛くしてください」
そんなドMみたいなことを言う。
この女じゃなかったら乗っかってやるところだけど。
「悪いな」
女の腕に注射針を刺して、ワクチンを注入した。
「痛くする方法、知らねーんだ」
受験生に変な打ち方して、ワクチンの効き目がなくなっても困るしな。
「不思議」
女の頬を涙が伝った。
「始まりは分からなかったのに、今はこんなに苦しい」
この子の俺を好きな気持ちは、一時の気の迷いだ。
「しばらく腫れるかもしんないけど、すぐに治まるから」
そうやって、俺のことも、きれいさっぱり忘れてしまえばいい。
「先生」
寝室に注射用の保護パッドを取りに行った俺が戻った時、女はもう泣いていなかった。
「次はちゃんと病院でお金払うから、来年また先生のところに、予防接種を受けに行ってもいいですか?」
まっすぐで、痛いくらいキラキラした目で、彼女は俺に言った。
「私、もっと大人になって、先生に振り向いてもらえるように努力します」
もう十分魅力的だよ。
そんな本音を隠して、俺は小さく頷いた。
「ああ。俺が院長の孫の注射を失敗してどこかに飛ばされてなきゃな」
俺はきっと、柄にもなくこの子を待ち続けるだろう。そんな予感がする。
注射したところに保護パットを貼って、親指でそっと撫でた。
変な菌が入らないように、ほんの、おまじないだ。