ワクチン接種
それは決して、医者になって数年目の俺が負わされるべき重責ではなかった。
「少しでも痛くしたら、分かるね?」
予防接種の準備をする俺に、院長が脅しをかけてくる。
ワクチンを注射器に充填しているところに、若い女が子供を連れて現れた。
来年小学生になるという院長の孫娘は、俺が手にしているものを見るなり泣き出した。
「大丈夫、大丈夫。今年は痛くないよ」
院長が気色の悪い猫なで声であやしている。
これまではベテランの医者が院長一家の予防接種を担当していたのだが、去年、この子供をチクリと痛がらせた。その医者は速攻で僻地の病院に飛ばされた。
それで、今年は研修医の頃から注射技術に定評のあった俺が駆り出されたというわけだ。
別に、経験が豊富なわけでも、痛覚のツボに精通しているわけでもない。完全に勘としか言いようがないが、痛みを感じさせない打ち方ーー刺す位置、角度、深さ、注入速度が、何となく分かってしまう。
やれやれ、と俺はこっそりため息をついた。
こんな重責を負わされるくらいなら、こんな才能は要らなかった。
「愛香さん、ハロウィンのケーキ、どれにしますか?」
子供の腕をアルコールで消毒していると、女がどこからかチラシを持ってきて子供に話しかけた。気を逸らそうとしてくれているらしい。
ありがたく便乗して、子供がチラシを覗きこんでいる間に注射を終わらせた。
「アイちゃん、偉かったねえ。じいじが何でも好きなもの買ってあげるからねえ」
院長に大げさに褒められて、子供はキョトンとしている。打たれたことにも気づいていないようだ。
とりあえず成功だな、と胸を撫で下ろした。
ただ、子供は二回接種が原則だ。三週間後にもう一度打たなきゃいけないかと思うと、今から気が重い。
「お疲れさまです」
孫娘の馬をしている院長をなるべく視界に入れないようにしながら片付けていると、女が声をかけてきた。
「ああ、ありがとなチラシ。助かった」
その時初めて女の顔を正面から見た。ハタチそこそこに見える。エプロンをつけているから家政婦なのだろうけど、それにしては随分若い。
「あんたも若いのに大変だな」
何の気もなくそう言ったら、女は目を見開いて、口元を引き攣らせるみたいに笑った。
『お前に何が分かるんだ』
顔にそう書いてあるようで、その勝ち気な表情は、俺のストライクゾーンど真ん中だった。




