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呉先生

作者: 四月一日 六花

 私は日本に来る迄、一度も雪と云う綺麗なモノを目にした事がなかった。廣大なる中国の南方の地、私の故郷である福清では雪は降らないからである。幼い頃福清で侘びしげに居を構える祖父に訊いた事がある。祖父曰く臘月(ろうげつ)(たし)かに 朔風(さくふう)が吹いていて途轍もなく寒いけれども、雪は滅多に降らないらしい。もともと此処は暑く、乾いた天候が続く故、雪が降るのは非常に稀であると。其れを聞いて私は俄然興味が沸いてきた。嗚呼、雪とは一体どんなものなのだろうか、矢張冷たいのだろうか、そもそも何故雪が降るのだろうか。学校の教科書で、北京の紫禁城前で幼気な子供たちが雪合戦に戯れる話があるが、楽しいのだろうか。(これ)らが、其の未知の不可思議への好奇心をそそったことが、まだ記憶に新しい。初めて雪を見たのは上海で、其の時は軽やかな興奮を覚えていた。しかし大人になるにつれて、私は何時の間にか、雪に対する純粋な好奇心を失ってしまった。雪が珍しいと思えなくなったからかも知れない。

 久方振りに私は福清に帰郷を果たした。福清は当たり前だが東京とは別天地である。闽粤(ミンユエ)の僻地にある処で、臥煙肌(がえんはだ)の輩や、乞丐(こじき)などが少なからずのさばっている街だ。紅灯緑色の繁華街にて、多くの人々が往来し、酒場や飯屋で騒ぎ、時折いざこざを起こし、讒謗を交わす。”静けさ”と云う言葉が全く似つかわしくない街である。だが、人情には溢れていて、不器用ながらも正直に生きている人間も多い。冷ややかな目をし、捻くれた人間は意外と居なかった。

 飛行機から降りて、福清の土に足を踏み入れるその瞬間、私は、紮げていた重たい鎖がようやく解けたような気分となった。日本にいた頃とは違う、平生では嗅げない懐かしい匂いが媚びるように鼻の中に入っていった。其れから眩暈がする程の蒸し暑さが、肌の水分を無情に奪っていたので、私は立ちどころに手に持っていたペットボトルの蓋を開けて、微温い水を豪快に喉越しで呑んだ。

 私は此の国で一週間ほど母の店で懸命に働いていた。いや、厳密に言うなれば、名目では母の店の仕事の手伝いであるけれども、事実上は労働で決して軽いものではなく、扱いは一般従業員に(ひと)しかった。何てことのない飲食店ではあるが、骨が折れる仕事であり、あまつさえ夜更けまで勤めていたので、疲労困憊、筋肉痛は免れなかった。深夜二時ごろに家に帰り、晩飯をさっさと済ませて就寝するので、起床するのはおよそ昼過ぎになる。仕事に向かう時間は午後三時。安息の猶予があまり与えられず、遊ぶ間がないことは言を俟たない。畢竟(ひっきょう)するに、”働いて”、”食って”、”寝る”の三拍子の揃った日常を送っていたのである。一週間限定の労働期間だから、月給ではなく、特例として、私だけ日給となっていた。小耳に挟んだ話だと、店が支払う恩給は二千元が一般的であり、日本円に換算するとざっとおよそ三万二千円である。私は日給五十元であり、貰った恩給の殆どは貯金に回して、将来に向けての備えとした。重労働であるにも拘らず重労働で、割に合わないと私は時折不満を零したことがあるが、余計なプロレタリアート精神を無闇に発揮すると後が厄介だろうから、やめておいた。

 私が最も厭で、苦汁を嘗めたと思ったのが荷物の搬送であった。馬鈴薯(ばれいしょ)、鶏肉、香辛料や皿などが詰められた重い段ボウル箱をトラックのコンテナから降ろし、野外から建物の四階迄、両手で胸に抱きかかえて運ぶのだ。運んだものは凡て冷凍室に引き摺り込んで、納める。炎天下の中是を幾度も繰り返すのだから、灑落にならない。おかげで襯衣(シャツ)が夥しい汗水でびっしょりになった。

 運んだ先の冷凍室で二十秒程休息を取り、其処で流れる冷気を利用して暑さを凌いでいた。やっと仕事を終えた際に戴く歯に染みるほどに冷たいコーラの味は畢生忘れられないであろう。実は私は炭酸が極端に苦手で、味蕾が強く拒んでいたが、喉が乾いていて耐えられなかった為、仕方なく配給されたコーラを飲んだのである。これは、図らずも私の炭酸嫌いをなくすきっかけとなってしまっていた。作業時間はたったの二時間だったが、意識の流れが緩慢になったからか、かなり長ったらしく感ぜられた。喉が掠れ、唇が割き、頭朦朧として、体躯のあまねく所に激痛が走る。其れが一週間も続いたのだ。是は一寸ばかり可けなかった。夜更けに蒲団に入って天井を眺めている時、私は、此の体は果たして何時迄持つのだろうかと憂慮した。夜伽と成ってくれたのは、其んな些細な苦悩であった。

 最後の一日、七日目は、早めに仕事を終わらせ、謦咳に接しようと思った私は、車で恩師の家に向かった。

 其の恩師というのは呉先生である。下の名前は知らない。私が小学校に通っていた頃、其のお方から算術のご鞭撻を賜わっていた。生涯忘却することのない恩師である。恥ずかしながら、私は其の頃、大人の手を焼くような生意気な小皇帝(シャオファンディ)であり、石部金吉金兜であり、おまけに癇癪持ちでもあった。だから、年嵩の長輩、教師、老人の話に耳を頑なに傾けようとしない、小憎たらしい子供であった。呉老師も其の被害者の一人であると言えよう。

 当時の私は、人間不信が過ぎており、常々、見知らぬ人、仲が良いって訳ではない人を剝き出しの敵愾心を以て威嚇し、追っ払う浣熊のように荒々しい子供で、周囲が軽率に近寄れなくなるほどに危惧されていた。遍く有象無象、懸想、思想凡て味なき無聊なものと決め込み、興に乗じたこと雀の涙もなし。只管勉学に努めるしか取り柄がなく、子供らしからぬ子供。其れは私が単純に性根が腐っているからという理由ではなく、寧ろ逆で、臆病風に吹かれて、警戒を極端に強めた結果である。

 私が忌み嫌われる理由の最たるものが、「私が日本人だから」である(因みに、念の為に此処で記させて頂くと、正確には、私は日中のクオーターである)。私は、上手い具合に反日運動の餌食にされていた。曾て、第二次世界大戦で日本と中国が干戈を交えた際に起こった数々の悲劇……旧日本軍が蛮行に及んだことを未だに根に持っている人が大勢居たけれど、其れを口実にして私を槍玉に挙げる者は稀有である。多いのは矢張り、魚釣島の資源を巡っての日中対立が盛んだった時の反日思潮に(さお)さした者達であろう。私は昔中国の小学校にいた。同い年の児童が「日本人は盗人だ。勝手に俺らの土地を奪うんだもんな」などと私に宣い、其れから色々と牽強付会(けんきょうふかい)郢書燕説(えいしょえんせつ)ばかり(なら)べ立てて己を正当化しようとしていたので、流石に私は鶏冠(とさか)に来た。

 たった年十つの世間知らずの餓鬼が何を論じようとしているのだ。所詮は世の中に阿り、付和雷同しただけだろう。今我々が為す可きは、目の前の学業であって、政治について不毛な議論を交わすことで断じてない。其れに、資源が如何だのという問題は子供にとっては死活問題なのか?答えは当然否だ。否を那由多書き連ねた紙を頭に叩きつけてやりたいほどに、私は此の児童に憤激した。此の問題は国の、政府の問題、もとい大人の問題なのだ。子供が出る幕なんてない。如何しても政治について語り、私を駁撃(ばくげき)したいとあらば、学に黽勉(びんべん)し、偉くなれば良い。周恩来同志が、「為中華崛起而読書」……中華民族の擡頭(たいとう)の為に勉強すべしと仰っていたことを授業で習って知らないわけでもあるまいのに、こまっしゃくれた口を利かないで欲しい。  

 あの時の私は其の小癪な子供を引っ叩いてやった。もし今、あの子供と再び相見えられたら、 私は冷静に窘めるだろう。「腐敗した政治の傀儡になるのだけはなるべきではない。蒙きを啓いて、中国の是非、日本の是非をしっかり見極められる慧眼を持つようになってくれ」と。

 私の周りには、親切にしてくれた者もいたが、嫌ってくる者も割合多かった。然し其の嫌う理由があまりにも不条理だ。だから私は人を簡単に信用することが出来なくなった。他人の一挙一動に細心の注意を払う様になり、挙げ句には猜疑心の虜と化し、精神的に不安定な状態が続いてしまっていた。

 閑話休題。

 散々な仕打ちと差別を受けて、すっかり捻くれた私を救い、心の拠り所になってくれたのが、呉先生において他に居ない。勉学を教えてくれた恩もあったが、気に入らないことがあればすぐに拳で訴える乱暴な私の根性を叩き直してくれた恩も大きかった。

 然し、四年ぶりの恩師との再会に、緊張は不要であった。別の種類の緊張が、私の四肢五体を余す所なく纏綿(てんめん)していた。

 呉先生は、つい先日、身体に巣食っていた癌で原因で亡くなったらしい。四年前迄はのんどりとしていて、死の予兆が察せられないほど元気にしていたのに。ショックはなかったと言えば嘘になる。だが、不思議なことに、悲哀が湧き出ることはなかった。初めて、身近な人物が亡くなったことに、あまり現実味がなかったからなのか、或いは、私は人の死に関心を示さないような、冷酷な人間だったからなのか、定かではないが、とにかく私は呉先生の少し遅い訃報を聞いても、存外落ち着くことが出来て、取り乱すことはなかった。恩師夫人は、今は亡き師に会いに来た私を手厚く欵待(もてな)してくれた。背丈が伸びた私を見て些かの驚きの色を見せ、迷うことなく私を家の中まで入れて、ソファに座らせた。家には夫人一人しか居ないことに気がついて、「先生は今どちらに?」と私が尋ねた其の時に、先生の死を知ったのだ。夫人は私に其の事実を伝えるのが、とても辛そうだった。

 夫人は一見明鏡止水の境地に達して、夫の死に頓着しない佇まいではあったが、其れがただの痩我慢であるのはすぐに解った。何しろ恩師夫人の内からどんよりとした寂寥(せきりょう)が放たれているのが、判り易かったからである。

 「とても遺憾に存じます、昔の僕はあまりにも王八蛋(うつけもの)で、狼藉ばかり働いていたものですから、今日先生に会って、其のことを詫びて、礼の一言を申し上げたかったですが……如何(どう)やら、遅かったようです」

 と、私は言った。

 「ええんよ、そんな(かしこ)まなくたって。そら慥かにあんたは結構やんちゃしはってたけれど、まだ子供やったし……昔のことやさかい。其の気持ちがあるだけでも充分よ」

 夫人は然う言って、親切に茶菓子をしたためてくれた。けれども私は其れに手をつける気にはならず、持ってきてくれたことに軽く会釈をして謝意を表明するだけであった。

 「先生はね」

 夫人は言った。

 「坊っちゃんが(ここ)数年福清に帰ってきてくれへんかったので、先生、いつも淋しそうにしとったんよ」

 「はあ……」

 返す言葉が思い当たらなかった。渋柿を噛み締めたような面持ちで、私は無機質な床を眺めて、夫人の顔を見上げる気を起こせなかった。申し訳がないというのも勿論あったが、同時に、夫人の言葉がまるで今更先生を御目文字(おめもじ)しようとやって来た私への皮肉のようにも受け取れて、殊更慚愧(ことさらざんき)に堪えられなくなったというのもあった。

 坊っちゃんというのは言わずもがな私である。私の祖父は前漢の時代の諸侯の子孫で、(しか)も曾ては恢廓(かいかく)たる田畝(はたけ)を保有していた大地主らしいのだが、どこぞの赤に染まったあぶなげな教団のせいで没落してしまった。いまやおおよその土地が没収されてただの素封家となり、(しず)かに余生を過ごしている。だから、地元の人間ならば殆どの人が知っているほど、祖父は顔が広い。其の祖父の孫たる私も、当然名が通っているわけなので、坊っちゃんと呼ばれることがかなり多い。慥かに私は怒りっぽい気質で、子供の頃から損ばかりして来たけれども、小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて腰を抜かすような無闇をしたことがなかったし、親類から貰った西洋製のナイフで親指に死ぬ迄消えぬ(きず)をつけたこともなかった。況してや将来、中学教師になりたいなどとも思ってはいない。

 「然うですか、此んなにも不肖者である僕に、会いたがっていたのですか」

 辛うじて、私は相槌を打ってみた。是は、私なりの皮肉であった。皮肉に皮肉を返した。

 所詮は世辞、すなわち社交辞令であろう。本当は私よりもずっと出来が良かった姉に会いたがっていたに相違ない。Egeriaの恩恵を授かった寧馨児(ねいけいじ)である姉に、私は厖大(ぼうだい)なる劣等感を抱いている。私は別にとりわけ馬鹿で、成績が深刻に悪いというほどではなかったが、凡人であった。其れだけならまだしも、凡人の癖して勤勉になろうとせず、あろうことか厭わしい天邪鬼になって、周囲に迷惑を振り撒いたのだ。然るがゆえに、私は夫人の言葉を、面倒な客に応じる為の、てぐらまぐらな世辞として受け止めざるを得なかった。私がたちの悪い天邪鬼でなくとも、其れを受け止める訳にはいくまい。受け止めたら(おそ)らく、私は明日鏡で自分の顔を見た時、自分が相当驕慢(そうとうきょうまん)なる人物に映るかも知れない。

 恩はある。だけど、先生は私のことが本当に気に入っているのかについては、些か疑問を(さしはさ)む余地がある。

 「……暗くなったねえ、昔のあんたはもっと快活だった筈やけど……遠慮なんてしなくても()えんよ?」

 「ははは」と、愛想笑いで誤魔化した私は、そっぽを向いた。

 すると其の時、私は、色褪せた写真……つまり遺影が飾られ、龕灯が(とも)された、漆塗りの佛壇(ぶつだん)の存在に心付いた。

 もう居ないのだな……と、私は痛感し、不覚にも目頭が熱くなりだしたが、何とか忍び耐えることが出来た。

 此処で私は(ようや)く、夫人の顔をまともに見るようになった。

 枯稿憔悴(ここうしょうすい)しきった、頬に涙が通った(わだち)のような跡が、夫人の顔に見られた。如何やらまだ夫の死を完全に乗り越えておらず、(こら)えている最中であるようだ。

 話の種が尽きると、二人は(やが)て、椅子に座って、沈黙を続けるようになり、しばらくは喋舌 (しゃべ)らなかった。

 「ちょう待ってな。洗濯物を取り込まんとあかんから、席を外すわ」

 実際俄雨が降ってきたから、本当なんだろうが、鈍重な雰囲気に倦厭した人の借口(いいわけ) みたいなことを言って、夫人は(あわただ)しく露台(ベランダ)の方へと、軽快な足取りで走っていった。

 此の間隙(かんげき)を縫って、私は立ち上がり、逡巡(しゅんじゅん)せず先生の遺影が飾られた佛壇へと歩み寄った。とりあえず私は遺影に向かって頭を下げ、そして黙祷した。目を瞑った際に広がる無明の黭黮(あんたん)に、しばしば先生の俤や、昔の記憶が断片的にぱっと光るようによぎっていった……其んな気がした。

 最後に、私は佛壇(ぶつだん)の傍にある抽屉(ひきだし)を何気なく開けてみた。中は別に大したものが入っていない。強いて言うなれば、過去に先生が私に出した算数のテスト用紙が、綰ねられて収納されていた。それぞれのテスト用紙には、私のミミズがのたくったような字で書かれた数式や、先生の鄭寧な解説文、そして赤丸とばつ印があったが、すっかり色褪せていて、赤銅色になっていた。

 「まだ捨ててなかったのですか、先生」

 シニカルな笑みを思わず浮かべた私は独語を発し、何も見なかったことにして、そっと其の大量のテスト用紙が入った抽屉を、閉めた。そして、私はつい先刻迄あった先生に対する無礼な疑念を猛省し、戒めた。 

 曾ての私は、妙に己を(たの)みとする悪い性向があって、一度是を正しいと思えば、爾来是を正しいと信じてやまなくなる。他者の正鵠を射ていて、間然すべき点が一つたりともない助言や忠告に耳を(そばだ)てることを頑なにせず、常々我が道を往こうとしていたのである。而も其の道は脆弱な薄氷で覆われていて、驕傲を以てずかずかと歩けば、いずれは砕け、骨の芯迄染み込むほどに冷たい水の中に落ちて凍え死ぬことがないとは言い難い。私が自滅することがなかったのは、ただ単純に幸運であったと言えよう。とにかく、私は人の話を聞きたがらない子供であった。詐欺師の言葉を鵜呑みにせず、性悪な奴の誣罔(ふもう)を真に受けるような子供ではないという点だと、善い処なのかもしれないが、損得勘定や善悪の区別とか関係なく、妄りに、極端に人の話を信じようとしないのだから、このうえなく悪い処である。疑うことこそが私の領分であった。疑うことこそが私の存在の根幹であった。自分が違うと思ったものを信じるのが恐ろしく、信じてしまえば、心が溟濛(めいもう)として暗雲が立ち()め、自分自身に対する信頼が確実かつ急速に失われていってしまうのではないか。然う思ったのだ。

 昔、先生は私の然ういう性格にひどく梃子摺(てこず)り、手を(こまぬ)いていた。私の此の性格の所為で、口喧嘩の火蓋を切ったことさえあった。其のいざこざは未だはっきりと憶えている。

 「また此処の図形の面積の計算が間違っとるよ」

 まるで威厳のない、皺枯(しゃが)れた声で先生は言い、赤ペンで問題の箇所を指摘した。私は無論言う迄もないであろうけれども、其の時の先生の言葉に神経を逆撫でにされて、気分が卒然として悪くなって、せわしなく鉛筆の先端をテスト用紙の余白に打ち付けていた。

 「嘘、おれ、ちゃんと計算して斯ういう答えになったんだけど」

 若干の忿懣(ふんまん)(はら)んだ声を洩らし、私は不機嫌な顔をした。

 「せやけど、間違いや。もう一遍やってみぃ。何処か(あやま)りがあったんや。お前は賢い筈や。 意固地にならず、素直に、落ち着いて解いていけば、きっと解ける」

 「其んな面倒なこと、もうやりたくないね。苦労して導き出した答えが間違いとか、冗談じゃない、もうやめる」

 そして、私は鉛筆を強く投げ飛ばして、だんまりを決め込んだ。私の生意気な態度に、先生はついに堪忍袋の緒が切れたのか、今迄聞いたことのない、疳高い怒鳴り声を私に浴びせた。

 「なに偉そうなこと言うとるん!其れは甘えや、怠けているだけや。我儘ばっかり言うのやったら、追い出すで!!」

 私は打って変わって、高飛車に出ることはなくなり、怯えた目をするようになった。文句を口にすることもなくなり、さっきとは意味合いも味わいも違うだんまりを決め込んだ。

 「依怙地になるなや」

 優しく、先生は言った。

 「度が過ぎた自信を持つと、間違いに気づくことすら出来なくなるんや。然うなると、お前は間違いしかしないようになってまう。間違いを認めたくない気持ちは解るで、でも今はいっぱい間違っても()え、其れはのちの成功に繋がるんや。怖がることはない」

 許多(あまた)なる先生の教えの中で、其の言葉はなかんずく私の琴線に触れ、嬝嫋(じょうじょう)たる余韻を残し、私の身勝手な心を見事に飜してくれたのであった。其れから、私は次第に先生の言葉に耳を傾けるようになったのである。

 其の教えを授かった時のテスト用紙が、今でも残されていたことに、私は、感傷に浸らずにはいられなかった。

 今度の帰郷は、愉しいものなど毫もなかった。

 居た堪れなくなった私は、母が晩冬の拵えとして誂えたミンクの毛皮の上衣コートや、瀟洒(しょうしゃ)白襯衫(しろシャツ)を恩師夫人に贈った後、あとは特に何も話さずに先生の家を出て、車に乗って帰ろうとした。丁度其の時、夫人はこちらまで駆け寄った。

 「坊っちゃん。また福清に帰ってきたら、顔を見せにおいでや」と、夫人は優しく、小皺を寄せた笑顔で訛った普通話で()う云ってくれた。私は小さく點頭(うなず)いて、「解った」とだけ言った。そうして、私を乗せた車は、愁嘆を一切零さずに其の場から出発した。其の後、私の鼓膜に届いたのは、誰かの声とかではなかった。況んや恩師夫人の声にや、である。届いたのは無機質な、鈍いエンジン音と轟々たる轣轆(れきろく)の音のみだけだった。

 いつか錦を飾って、恩師のもとへ訪れたいという私の夢は、うたかたの如くに消え去った。私は車の中で涼しい顔をして、外の風景を眺めていたが、胸裡では劇しいコンチリサンの焔を燃やしていた。腑甲斐ない自分が恨めしくて仕方がなかったのである。 

 だが、次こそは、もう少し立派に成長して、先生の遺影を前に胸を晴れるようになろうと、私は、福清の街を照らし出す赫奕(かくえき)たる太陽に、誓ったのであった。

 白紙に書いてしまった誤文は、消しても跡が残り続ける。けれども、其の跡の上に正文を書いてしまえば、痕跡が目立たなくなるばかりではなく、以前よりもより洗練された文章となって、煌く 。




 〈了〉

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